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賢さか努力か

UCL, ロンドン,イギリス,世界での価値観

私は最近、UCLの授業に慣れ始めた。ちょうど二週間終わったところである。やはり、海外の大学だけあって、能動的な授業が比較的多い。セミナーと呼ばれる議論中心のクラスはレクチャーすなわち教授による講義より数も多く、より大事となっている。それはなぜなら、大概の生徒は講義で大まかな内容をインプットし、セミナーに行き情報共有をするからだ。実際の学びが行われるのはほとんどセミナーであって、大講義には来ない生徒もわんさかいる。だが最近気がかりなことがある。それはUCLのみならず海外で賢いとされている指標や価値観が日本もしくは僕の価値観から大きく乖離していることにある。UCLは世界各地から生徒が集まるため、社会の縮図としても受け取ることができる。セミナーに足を運んでみると、もちろん議論が始まるのだが、多く喋れば喋るほど賢いと他に認識されている節が感じられる。簡単にいうと、お喋りは賢いと称賛され、喋らない子は馬鹿だと評価される。確かに、積極的に自分から議論に飛び込んで意見を出すのは立派であるとは思うのだがそれの対比、静かな子が馬鹿であるという構図がとっても不条理なものであると感じてしまった。積極的に議論に参加するような子は自信家でもあり野心家でもあるケースが多く、喋らない子を見下す行為が数多にみられた。彼らは見下しはするがそれはとても努力している。必ず宿題をやるや予習課題の読書をするなど簡単なことではあるが彼らはそれを全力で取り組み欠かさない。だからこそ、人を下に観たりするその愚行は勿体無い。反対に実際、意見を言わないだけでしっかり吸収する子もいれば良い意見を持っているが恥ずかしがり屋なこともある。事前説明はここまでだが今日のテーマである賢さか努力かという点を話したい。こちらの世界では活発で積極的に議論の中心に入るいわゆる努力家たちが賢いと評価を受ける。そして意見を言わない子は頭が悪いと実際に見下されてしまう。だがこれは大きな間違えであった。そもそも論、見下すこと自体、良くはないのだが積極的で努力家な子のほうがかえって中身のない発言ばかりをしていることに気づいた。彼らはめちゃくちゃ喋るからたまに正解や良い意見をいうこともあるのだが、大体教授に直される。そして、傲慢な態度をとり、喋らない子を下に見る。たまに、ぼそっと普段あまり喋らない生徒が意見を言った時、論理が明晰なことも多い。だが私は良い意見も持っていなければ恥ずかしがり屋でもあるため、どっちのタイプでもなかったことが非常に悔しいのである。

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