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旅とブンガク|大学卒業の知らせを太宰治の生家で知る

この度、通信制大学の文芸コースを、ぶじに卒業できることになりました。これで博物館学芸員資格も、同時に取得できることになります。ああよかった。

大学の事務局にも単位の取り忘れがないことは確認していたし、たぶん大丈夫だとは思っていたのですが、はっきりと「卒業可」って言われないとなんだか不安で。だっていままで何度も思い違いをして失敗してきたから。でも今度こそは大丈夫そう。

長かった。2年で卒業するつもりが3年かかりました。結果だけいうと、あっという間に卒業できたみたいだけど、そんなことはない。大変だった。めちゃくちゃがんばりました。卒業できたのは、才能でもない、地頭や要領が良かったわけでもない、シンプルにただの努力です。

でも、楽しかった。学ぶことは、ほんとうにいいことばかりでした。

卒業論文は「小説」

卒業可の知らせを受け取ったのは

メールで卒業の知らせを受け取ったのは、太宰治が23作品を執筆したと言われる「太宰治疎開の家 旧津島家新座敷」にいたときでした。

ちょうどこのとき仕事で青森の弘前市に来ていて、一日だけ自己負担で延泊をさせてもらい、太宰治のふるさと、金木町にやってきていたのです。

津軽鉄道「走れメロス号」

じつは前回の出張時にも金木町には来てはいたのですが、仕事の集合前に始発で押しかけたので、どこも開いていなくて、それどころか通りにはひとっこひとりいなくて、太宰治の生家「斜陽館」の外観を見ただけで終わっていました。

斜陽館外観・冬バージョン

それでも私的にはかなり満足はしていたのですが、仕事でお会いする青森の人たちが口々に「太宰治疎開の家」の館長の白川さんには会って欲しかった、とおっしゃるので、次に来ることができたら絶対に「太宰治疎開の家」には行かなくちゃ。と思っていたのです。

だからまた、来ちゃった。

太宰治疎開の家 旧津島家新座敷


太宰治疎開の家 旧津島家新座敷

「太宰治疎開の家 旧津島家新座敷」はその名の通り、太宰治が妻子とともに戦時中に疎開をしてきて過ごした「離れ」です。ここで太宰は23作品を執筆しました。

昭和20年。太宰治は東京と甲府の爆撃を逃れ、故郷で終戦を迎えた。生家の離れ『新座敷』で妻子と暮らし、「パンドラの匣」「トカトントン」「親友交歓」など多数の執筆をしたその空間が、作家の息遣いを抱くように今も残されている。文壇登場後の太宰の居宅として、唯一現存する邸宅である。

旧津島家新座敷 太宰治疎開の家 チラシより

わたしが訪ねたときはもう夕方で、ストーブ列車に乗ったたくさんの観光客たちが金木を立ち去ったあと。その時分に「太宰治疎開の家」を訪れたのは、どうやらわたしひとりのようでした。おかげで、館長の白川さんに館内をゆっくり案内していただけました。

白川さんにお会いしたとき、すぐに「ああこのかたが噂の…」とわかりました。ものごしのやわらかい感じで、素晴らしい語り手となってこの家と太宰の物語を伝えてくれます。

白川さんによると、「斜陽館」に来る人のうちで「太宰治疎開の家」にまで足を伸ばす人はほんの5パーセント程度なのだそうです。もったいない。外観は地味ですが、中はとても凝ったつくりの離れでした。

廊下は寄木細工

というのもこの離れ、今でこそ斜陽館から少し離れた場所(約200メートル)に移築されてはいますが、元々は母屋(斜陽館)と渡り廊下でつながっていたそうなのです。

金木のお殿様と呼ばれていた津島家

戦時中に太宰は家族とこの離れで暮らしていました。普段はこの六畳の部屋で執筆し、食事時になると、渡り廊下を渡って母屋で食事をしていたそうです。

太宰治の書斎

こちらが太宰の書斎です。

当時のものではありませんが、「津軽塗り」のテーブルが置かれています。じっさい太宰も津軽塗りの座卓で執筆をしていたようです。

津軽塗りの座卓

太宰の書斎の六畳間の隣に、十畳間があります。太宰が疎開してきてからは、この場所は「太宰道場」と呼ばれ、小説家太宰治を慕う若者たちが集い、文学談義に花を咲かせ、酒を酌み交わす交流の場となっていたようです。

当時を知る人がこの場所にこられたことがあるそうで、その方々たちによると太宰治は、意外にも「穏やかないいおじさん」といった印象だったそう。

薬、アルコール、女性問題とスキャンダルにまみれ、実家を勘当され、妻ではない女性と心中…。そんなイメージの強い太宰治ですが、ふるさと津軽で妻子と過ごし、友と語り合い、多くの小説を書き残した穏やかな時代があったこともまた、事実なのです。

「そういう穏やかな時間もあったんですね」

「(太宰に)そういう面もあったということでしょうね。人にはいろんな一面がありますから…」

そうポツリとおっしゃる白川さんから、太宰への愛がひたひたと伝わって来るのでした。

ふるさと津軽での疎開中のことや、奥様しか知り得ない太宰のエピソードなどは、奥様の津島美知子さんの『回想の太宰治』に詳しく書かれています。白川さんにおすすめされて読みましたが、この本、すごいです。ただの回想録というより、もうこれはひとつの文学なのです。

この本を読むと、太宰の着る服や着物に関する記述がとても多いことに気がつきます。繕いや仕立て、補修のことなど、事細かに描写されています。文体から察するに美知子さんは終始とても客観的、自己分析的な方なのですが、こと太宰の服のこととなると、夫への「強い愛情と執着」がほとばしっているのを感じました。

昔の女性は愛する家族のために麻や棉を作り蚕を飼い糸を紡ぎ機を織った。それは大変な辛労であったろうが羨ましいことでもある。楽しい苦労というものであろう。 

津島美知子『回想の太宰治』講談社

津軽では服を第二の皮膚のように大切にしていました。戦後の物資が不足した時代に、夫の服の手入れをする時間。ひどい時代ではあったのでしょうが、彼女にとっては、しあわせな時間であったとも言えるのではないでしょうか。

終戦後太宰がまた和服の生活に戻ったので私は疎開さきの離れの洋間で、下の子を遊ばせながら、太宰のふだん着の仕立て直しにかかっていた。毎年縫い直しを重ねてきたので、要所要所がいたんでしまって、やりくりに困った。その上縫糸が払底して、たまに配給されるのは一番不用な赤い絹糸ばかり、仕方なく赤い糸をインクで染めて間に合わせたこともある。ひどい時代だった。

津島美知子『回想の太宰治』講談社

太宰は終戦後、この疎開の家を出て東京に戻ってから、約一年半後に亡くなっています。


たけさんのこと

太宰は離れで執筆をし、食事時になると渡り廊下を渡って母屋で食事をしていました。

手前が鶯張りの廊下、奥が寄木細工

この廊下を渡っていたんですね。歩くとキシキシと泣く鶯張りの廊下です。白川さんにオススメしたいただいた、太宰の奥様の津島美知子の『回想の太宰治』には、この奥座敷の廊下で太宰とともにかつての太宰の乳母たけさんと再会する場面も出てきます。

あの、『津軽』で再会する太宰の育ての親の「たけ」さんです。

もうこの時の美知子さんの描写が秀悦で。太宰の作品『津軽』を一読者として読んでいた美知子さんは、『津軽』の「たけ」とは印象の異なるたけさんに驚きます。たけさんは思っていたよりも若く、太宰よりも十一しか年が違わないのです。たけさんの遠慮のない、率直なもの言いにドキッとする美知子さん。それに対する太宰の素っ気ない行動。

「育てた人は強い」と書いているところからも、美知子さんがたけさんに、ある種の嫉妬のような感情を抱いていることも読み取れます。美知子さんはたけさん、太宰、そして自分自身が抱いた感情までを冷静に分析して、客観的に言葉にしている。でも抑えきれない愛情が行間に溢れている。いやすごい文章なんだが。

離れの庭 


太宰との時間

「この場所でも太宰は書き物をしていたんですよ」と、白川さんは言います。

このサンルームに畳を敷いて、中庭を見ながら文章を書くのも、太宰は気に入っていたそうです。なんだか白川さんの話を聞いていると、そのときの光景が目に浮かぶようです。

ときおり畳にゴロンと寝転んで天井を仰いだり、立て膝をついて中庭を眺める太宰の姿が…。

っていうか白川さん、もしかしてその光景を見てらっしゃいました? もしやその時代にも生きておられたのでは…。

「どうぞ、ゆっくり見学していかれてください」

そう言い残すと、白川さんは事務室に戻り、わたしをひとりにしてくださいました。

太宰の作品を抜粋したものが館内のいたるところに配置されています。わたしは白川さんのお言葉に甘えて、次の列車の時間までゆっくりと心ゆくまで館内を見学させてもらいました。

それは世間が、ゆるさない
世間じゃない、あなたが、ゆるさないのでしょう?
そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ
世間じゃない、あなたでしょう?
いまに世間から葬られる
世間じゃない、葬るのは、あなたでしょう?

太宰治『人間失格』

パンドラの匣

洋間のテーブルには『パンドラの匣』の抜粋文のコピーが置かれていました。椅子に座って読んでみます。

ソファーは着席禁止(詰め物はワラでした)

 しかし、君、誤解してはいけない。僕は決して、絶望の末の虚無みたいなものになっているわけではない。船の出航は、それはどんな性質な出航であっても、必ず何かしらの幽かな期待を感じさせるものだ。それは大昔から変わりのない人間性の一つだ。君はギリシャ神話のパンドラの匣という物語をご存じだろう。あけてはならぬ匣をあけたばかりに、病苦、悲哀、嫉妬、貪慾、猜疑、陰険、飢餓、憎悪など、あらゆる不吉の虫が這い出し、空を覆ってブンブン飛び廻り、それ以来、人間は永遠に不幸に悶えなければならなくなったが、しかし、その匣の隅に、けし粒ほどの小さい光る石が残っていて、その石に幽かに「希望」という字が書かれていたという話。

太宰治『パンドラの匣』

ああ、そうそう。この、絶望のなかにかすかな希望が光る。その感覚を、太宰の文章を読むといつも感じるから、惹きつけられるんですよね。

それはもう大昔からきまっているのだ。人間には絶望という事はあり得ない。人間はしばしば希望にあざむかれるが、しかし、また「絶望」という観念にも同様にあざむかれる事がある。正直に言う事にしよう。人間は不幸のどん底につき落とされ、ころげ廻りながらも、いつかしら一縷の希望の糸を手さぐりで探し当てているものだ。

太宰治『パンドラの匣』

そう、そうなのよ。

やっぱりいいなあ。


卒業判定

太宰の作品に夢中になって、すっかり時が経つのを忘れていました。列車の時間を確認しようとスマホを取り出したとき、一通のメールが届いていたことに気がつきました。大学の卒業判定の結果が出たという知らせです。

ドキドキしながらその場で、大学のサイトにアクセスしてみます。

わりとあっさり

卒業判定、卒業可とあります。卒業可って、卒業できるってことだよね。まちがいないよね。よかったあああ。

長かったあああ。

そう、わたしはすんなり卒業できたわけじゃありませんでした。学芸員資格のレポートがなかなか合格できなくて、2年の予定が3年かかりました。レポートが2回も不合格になった時は、もうわたしなんて駄目なんだと落ち込み、全部あきらめてしまいそうになっていました。

ちょうどそのころ、「敗者の文学」というテーマの授業で、太宰治の「トカトントン」について学んでいました。トカトントンは今でいう、敗戦後のトラウマのことを描いた短篇小説作品です。戦争に行った者も、行かなかった者も、それぞれの絶望を抱えている。いわゆる「敗者の文学」が、こんなにも心に沁みることがあるのだと、そのときわたしは思いました。

そして、もうちょっとがんばってみようと思えたのです。

ああ、その「トカトントン」が書かれた場所で合格の通知を受け取るなんて!

なんという巡り合わせでしょうか。

これは、卒業しても引き続き精進し続け、学問と文学に邁進しなさいとのことだと、わたしは受け取ったのでした。

引き続き文学と学問に邁進せよ


太宰屋にて

見学を終えて「太宰屋」というギフトショップに入ると、

「ゆっくりご覧になってくださったんですね」と、白川さんが迎えてくださいました。

太宰に関する書籍やグッズが並んでいます。一般の本屋では、やはり見かけたことのない本がいっぱいでワクワクしました。

最初に、『パンドラの匣』を購入しました。それから、やっぱり買っておこうと思って、津島美知子さんの『回想の太宰治』も。

こういうのって、読みたいと思ったときにすぐに買っておかないと、あとからだと案外手に入りにくくなったりすることもありますもんね。

おお、『パンドラの匣』の帯文にはまさにタイムリーな一言が。なぜ人生に勉強は必要なのか?

この答えは、『パンドラの匣』に収録された「正義と微笑」にしっかり書かれています。素晴らしい一文です。

勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。

「正義と微笑」太宰治『パンドラの匣』

この続きは、ぜひ、『パンドラの匣』の「正義と微笑」を読んでみてくださいね。

太宰屋でいただいた紙袋をブックカバーにリメイクしてみました

そう、学ぶことは素晴らしいことです。

わたしはこれからも、学び続けようと思います。そして、ちょうどその翌日、わたしは大学院合格の通知も受け取りました。

40代で大学生、50代で大学院生。

まだまだ学びはこれからです。不安もありますが、わたしが学ぶことで、誰かの希望になることもあるかもしれません。

わたしは希望のためのしごとがしたい。そのためにこれからも学ぼう。

そう思うことができた、津軽への旅でした。

「斜陽館」にて 二重廻しの外套を着て



▼参考文献(アマゾンのリンクにとびます)

・太宰治『パンドラの匣』 

・太宰治『津軽』

・津島美知子『回想の太宰治』

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