新しい出会いと別れ / しし座流星群と夜空の向こう側で (1998②)
*2023.4.22. 全文無料公開、目次をつけました
*2020.2.9. 加筆修正しました。
1998年。忘れられない新しい出会いと、別れの年だった。
1.クラムボン、Super Butter Dogとの出会い
4月27日。パール兄弟のギタリスト・窪田晴男さんに誘われて、西麻布のOjas Loungeというバーのイベントに弾き語りで出演した。
出番を終えると、お店のカウンターでバイトしていた男子が控室にやってきた。キャスケットをかぶった、ひょろっとした青年だった。
「ファンです。実はバンドやってて、今度ミニアルバム出すので聴いて下さい!」なんて話しかけられて、試聴用のカセットをもらった。ちなみにこの頃CD-Rはまだ普及していなかった。音楽の試聴盤にカセットが使われていた最後の時代だったと思う。
「くじらむぼん / クラムボン」と書かれたカセットを眺めながら、心の中で「ああ、宮沢賢治ね、きっとアコースティックな和み系のバンドなんだろうな」なんて思っていた。その日は終演後も一緒にイベントに出たリクオと深夜までお店でブルース(風)セッションをしたりして、深酒してフラフラになりながら、朝方帰宅した。
次の日の昼過ぎ。寝ぼけながら、昨夜もらったカセットがなんとなく気になってラジカセに入れてみた。ゆっくりフェイド・インする持続音を突き破る、三連符のピアノトリオのイントロ。最小限の音数で一曲ごとに違う仕掛けの凝らされたアレンジ。一気にアルバムを聞き終えたらすぐ、カセットに書いてあった番号に電話した。前回書いたように、ネットやメールはまだ広く普及していなかった。人と人が直接話していた、最後の時代。
以来、僕はクラムボンの「追っかけ」をした。リハーサルを邪魔しに行ったり、頼まれてもいないのにパーカッションで乱入したり。「くじらむぼん」のフライヤーでは確か、フィッシュマンズ(そして現・スカパラのメンバーでもある)欣ちゃんとリトル・クリーチャーズの栗原君が推薦文を書いていたと思う。耳ざといミュージシャン達の間でクラムボンは噂になっていた。
僕と一緒にクラムボンのライブを見た浜崎貴司君は、バンド解散後初のソロライブ(1999年)のベーシストにミトくんを抜擢。同じく一緒にライブを観たテイ・トウワ君もクラムボンを気に入って、2000年のシングル「火星」でヴォーカルに郁子ちゃんをフィーチャーした。
そして、テイ君はクラムボンのシングル「シカゴ / 246」(2000年)「サラウンド」(2001年)のアートワークも手がけた。
以来、僕とクラムボンはお互いのバンドとソロの作品やライブに参加し、幾度となく共作・共演する大事な音楽仲間になる。
クラムボンを追いかけるうち、よく彼らと対バンしていたSuper Butter Dogにも出会う。クラムボンの3人と同じ専門学校出身のメンバーを中心に結成された5人組。今となっては、ハナレグミとレキシが在籍した伝説のバンド、と言うべきか。
日本のバンドでは数少ないファンクをベースにした音楽性と、グルーヴィーで確かな演奏、ユーモアのセンス、そしてヴォーカル・永積タカシ君の繊細で圧倒的な歌唱力は、日本のバンドの履歴を更新する新世代の個性を放っていた。
Super Butter Dogのメンバーともそれ以降ただならぬ縁が続くのだが、続きは下のリンクに。
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2.ギタリスト・大村憲司さんのイベントに出演
4/10(金)。ギタリストの大村憲司さんとDr.Kこと徳武弘文さんがホストとなって行われた「エレキインスト」のトリビュートライブに出演した。’60年代に日本でも大ブームを巻き起こした「エレキインスト」と言えばアメリカのベンチャーズが有名だが、この日はスウェーデンのスプートニクスとイギリスのシャドウズに的を絞ったマニアックな企画。
ゲストは高橋幸宏、甲斐よしひろ、Char、高野 寛、尾崎 孝という幅広いメンツ。幸宏さんがかつてプロデュースを手がけた憲司さんのソロアルバムのタイトル曲・スプートニクスの「春がいっぱい」とYMOの「ライディーン」エレキインストバージョン(これが実にハマるサウンドだった)を幸宏さんのドラムと憲司さんのギターで聞けたのは白眉だった。
僕はシャドウズの「F.B.I.」「サンダーバードのテーマ」を演奏した。憲司さんに「ギターうまくなったんじゃない?」と言ってもらえたのが嬉しかった。
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3.ブラジルとの縁
1997年8月にThe Boomの活動を休止して以降、宮沢和史君(以下MIYA)は精力的なソロ活動を始めた。ロンドンでプロデューサーにヒュー・パジャムを迎えて初のソロアルバム「Sixteenth Moon」を録音。直後その足でブラジルに渡り、現地のミュージシャンとアルバム「AFROSICK」を矢継ぎ早に制作した。
「AFROSICK」の軸になったのは、パーカッショニストのマルコス・スザーノのプレイ。MIYAは彼のバンド・レニーニ&スザーノの作品に驚嘆し、ブラジルに訪れた際に自らレコーディングへの参加を申し込んだという。レニーニ(Ag&Vo) とスザーノ (Per)は、たった二人のアコースティック編成でグルーヴィーなバンドサウンドを生み出し、「世界最小のバンド」とも称される。
上の動画でスザーノが演奏しているのは、ブラジル音楽で使われる皮付きタンバリン「パンデイロ」。サンバなど伝統的なパンデイロの奏法はこんな感じで、音色は普通のタンバリンとさほど変わらない(*1分くらいから ↓)。
幼少期から欧米のロックに親しんできたスザーノは、パンデイロをドラムのように響かせる独自の奏法とマイクセッティングを発明した。今では世界中にそのフォロワーがいる。スザーノは頻繁に来日しワークショップを開いているので、日本には「スザーノ奏法」をマスターしているプレイヤーが非常に多い。
MIYAは1998年3月末〜4月末にかけて初のソロツアー「Sixteenth Moon tour」を敢行。ツアーのメンバーは沼澤尚(Ds)、小原礼(B)、鶴来正基 (key)、吉川忠英 (ag)、今堀恒雄 (eg)、大滝裕子・斉藤久美 (cho) 、そしてブラジルからマルコス・スザーノ (per)、フェルナンド・モウラ (key) も加えた大編成のバンドだった。
そんな折、MIYAから驚きのオファーを受ける。ツアー最終日の広島公演だけギタリストの今堀さんが参加できないので、代わりに僕に参加して欲しいという。今堀さんは僕のアルバム「I (ai)」の共同プロデューサーでもあり旧知の間柄だったが、ジャズを昇華した独自なスタイルを持つ技巧派ギタリストだ。
そんな今堀さんの代役、そしてツアーの最終日のみの参加は正直、荷が重かったが、一流のプレイヤーばかりのバンドでプレイできる貴重な機会を逃したくはなかった。
その頃は自分のライブやラジオの収録の他に、いくつもセッションやプロデュースの仕事を並行して進めていて、結局リハに参加できたのは1日だけ。ライブの全曲をさらうことすら叶わず、7〜8曲をバンドと合わせただけだった。その後ツアー中の音源を送ってもらってアレンジの変更をチェックしながら自主トレして本番に臨み、なんとか重責を果たすことができた。
その後6月に、マルコス・スザーノはレニーニ&スザーノの単独公演で再び来日。僕はMIYAと共にそのステージに飛び入りしてセッションした。ブラジルの太いグルーヴを身体で感じた貴重な一夜だった。
思えば1998年のこの一連の流れが、後のGANGA ZUMBAに至る、ブラジルとの縁の始まりだったのだ。
「AFROSICK」を7月に発表後、MIYAは「Sixteenth Moon tour」とほぼ同じバンドメンバーにギタリストに大村憲司さんを迎えて「AFROSICK」発売記念ライブを東京と大阪で行なった。
僕は新宿リキッドルームのライブを観に行った。憲司さんの体調がすぐれないとも聞いていたが、客席に届いたギターの音は、1987年にご一緒した時から変わらない、強い輝きを放っていた。
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4.しし座流星群と夜空の向こう側で
11月17日から18日にかけて獅子座流星群が33年ぶりにピークを迎えるというニュースを聞き、東京の光を避けようと車を走らせた。
以下、当時の日記から。
音を立てる流れ星は非常に稀で、日本書紀には「舒明天皇の九年(六三七年)大きな星が東から西に流れた。すぐに雷のような音がして、人々は流れ星の音だといい、また雷だといった。ある僧によれば『これは流れ星ではなく天狗(あまつきつね)というもので雷鳴のような声で鳴く』のだという」との記述があるという。
明け方に家に戻り、昼過ぎまで寝ていた。
不意に鳴ったマネージャーからの電話で、大村憲司さんの訃報を知る。
享年49歳。早すぎる死だった。憲司さんが天に召されたのは奇しくも、流星群に煌めいた火球が燃え尽きたのと同じ午前4時頃だった。
ギタリストになる夢を諦めSSWを志した1987年。きっかけを作ってくれたのは幸宏さんと憲司さんだった。そしてデビューから10年目の1998年、憲司さんは流星と共にこの世を去った。心に大きな穴が空いたようだった。
今でも、ふとした瞬間に憲司さんの言葉がよぎる。
「高野くんは曲がいいから、どんどん書くといいよ。歌詞だけでもいい」
その言葉を胸に刻みながら、作品を作り続けてきた。
1998年末。街にはSMAPの「夜空ノムコウ」が流れていた。
「あの頃の未来」がもうここにはないことを、誰もが感じながら。
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