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ドナルド・キーン氏とキスカ島

作日、ドナルド・キーン氏が死去した。
日本人以上に日本と日本文化を愛してくれた人である。
そんなキーン氏は若い頃、太平洋戦争の
キスカ島作戦に参加していた。

アリューシャン列島のアッツ島、キスカ島

ドナルド・キーン氏といえば、英訳の『源氏物語』で日本文学に惹かれ、日本語を学び、日本の古典や思想を深く研究した人、何より日本を大好きでいてくれた人という印象を持っています。

キーン氏の著作は自伝ぐらいしか読んでおりませんので、キーン氏について何かを私が語ることはできませんが、彼が若い頃、アメリカ海軍の通訳士官として、あの「キスカ島作戦」に参加していたことを思い出しました。

キスカ島といっても、ピンとくる人は多くないかもしれません。

アリューシャン列島の西部に位置する島で、キスカ島のさらに西にあるのがアッツ島です。

もちろんアメリカ領ですが、太平洋戦争開戦後の昭和17年(1942)6月、日本軍はアッツ、キスカ2島に上陸、占領しました。

その目的は同年4月、日本に接近したアメリカ軍空母による初めての本土空襲(ドーリットル空襲)が行われたことを受け、本土防空のために、またアメリカとソ連の連繋遮断をも視野に入れて日本軍は占領を実施したといわれます。

しかし、次第に戦局が悪化すると、アッツ、キスカ両島はアメリカ軍の反撃にさらされます。しかも内地から十分に物資や食糧を補給できず、両島は苦戦を強いられました。

「武士道に殉じるであろう」

そして昭和18年(1943)5月、アメリカ軍はまずアッツ島攻略に向かいます。アッツ島の日本軍守備隊は陸海軍合わせて約2,600人に対し、アメリカ軍の上陸部隊は1万1,000人。しかも強力な艦隊に護衛されていました。

アッツ島守備隊の窮地に、北海道にいる北方軍司令官の樋口季一郎中将(上写真)は急ぎ5,000人の逆上陸部隊の増援を命じますが、信じがたいことに大本営がこれを許しません。「アッツ島の放棄、キスカ島の撤収を決定した」というのが、その理由でした。

「アッツ島のわが将兵を見殺しにせよというのか」

樋口は激怒しつつも、軍人として命令を覆すことはできません。断腸の思いで、涙ながらに大本営の命令を、部下であるアッツ島の守備隊に打電しました。

守備隊を指揮する山崎保代陸軍大佐は、自分たちが捨て石にされたことを知りながら、泣き言は一切表に出さず、次のように返信しています。

「国軍の苦しき立場は了承した。我が軍は最後まで善戦奮闘し、国家永遠の生命を信じ、武士道に殉じるであろう」

山崎は指揮官として、これより生還を期せぬ戦いに臨むことを将兵に詫び、最後まで陣頭に立つことを誓います。切々と語る山崎の言葉は将兵の胸を打ち、士気が高まりました。

アッツ島守備隊は凄まじい戦いを繰り広げます。アメリカ軍は当初、3日で占領できると考えていましたが、守備隊は19日間にわたって徹底抗戦を続け、5月29日、山崎大佐以下、ほとんどが戦死。生存者は僅か27人でした。全滅、玉砕のひと言で片付けられるような戦いではありません。

一方のアメリカ軍側は戦死者約600人、戦傷者は約1,200人と予想を大幅に上回る犠牲を出し、このために次のキスカ島攻略に対し慎重になります。

キーン氏はアッツ島の戦いについて、次のように記しています。

「アッツ島は最初の『玉砕』の地で、アメリカ軍はこれを『バンザイ突撃』と呼んでいた。5月28日、島に残留していた千人余の日本兵がアメリカ軍めがけて突撃を開始した。アメリカ軍は、かくも手ごわい抵抗のあることを予期していなかった。日本兵は、ややもすればアメリカ軍を蹴散らしそうな勢いを見せた。しかし結局は勝利の望みを捨て、集団自決を遂げた」(『ドナルド・キーン自伝』より)

「パーフェクト・ゲーム」

アッツ島の部下たちを見殺しにせざるを得なかった北方軍司令官の樋口季一郎は、大本営にキスカ島からの即時撤退を強硬に迫ります。増援が見込めない中でアメリカ軍の攻撃を受ければ、アッツ島の二の舞となることは誰の目にも明らかでした。これを受けて、海軍も撤退作戦を承認します。

しかし、撤退は言葉でいうほど容易ではありません。キスカ島にはアッツ島の倍近い約5,200人(陸軍2,400人、海軍2,800人)の将兵が駐留するだけでなく、島の周辺には最新式のレーダーを備えたアメリカ艦隊が待ち受けています。

これに対し、日本側が将兵を救う手立てとしては、速力のある軽巡洋艦や駆逐艦の水雷戦隊で、敵の間隙をついて島に突入し、短時間(60分以内)で全将兵を撤収させるしかありません。敵の航空機から発見されないために、濃霧を味方にすることが必要条件でした。

この困難な任務を課せられたのが、第一水雷戦隊司令官の木村昌福(まさとみ)少将(上写真)です。木村は撤収作戦の準備を陸軍と打ち合わせる中で、短時間での撤収を実現するために、携帯兵器の放棄を申し入れます。銃の放棄は本来、陸軍では考えられないことでしたが、これに対し独断で了承したのが、樋口季一郎でした。樋口はこう言ったといいます。

「兵器はつくれるが、人間はつくれない」

7月7日、木村率いる2隻の軽巡洋艦、11隻の駆逐艦から成る救出艦隊が幌莚(ほろむしろ)島を出港。7月10日、11日にキスカ島周辺が濃霧になるという気象予報を元にした作戦でした。キスカ島の将兵は、該当日に浜で待機することになります。ところが・・・。

10日、11日を過ぎ、15日まで待ってもキスカ島周辺に霧は立ち込めません。各艦の艦長は、「それでもキスカ島に突入しましょう」と木村に意見具申しますが、木村は首を縦に振りませんでした。「帰ろう。帰れば、また来ることができる」

なすすべもなく幌莚島に帰投した木村に対して、軍上層部からごうごうたる非難が浴びせられます。「臆病風に吹かれた」「木村は将たる器に乏しい」「胆力が無い」などなど。

しかし、木村の部下たちの評価は違いました。「木村司令官のために死のう」。部下たちは非難を一身に受ける木村が、実は強い責任感と冷静な判断力を持ち、男気溢れた行動をすることを知っていたのです。

そして7月22日、木村は再び、救出艦隊を率いてキスカ島に向かいます。

キスカ島への突入予定は当初、7月26日でしたが、濃霧の中、艦隊の小さな衝突事故があり、突入は29日に延期。このトラブルが、思いがけない幸運を呼ぶことになりました。

26日夜、洋上待機する救出艦隊に、不可解な電信がキスカ島よりもたらされます。「20時頃から40分間ほど、海上から激しい砲声が断続的に聞こえている。艦隊間での砲撃戦らしい曳光と轟音を聞く」

これはキスカ島周辺で待ち受けていた、アメリカ艦隊によるものでした。実はアメリカ艦隊は暗号解析で木村らの突入を察知しており、26日夜に濃霧の中、レーダーがキャッチした数隻の艦影に容赦ない砲撃を加えたのです。

しかし、レーダーがとらえたのは木村の艦隊ではなく、遠くの島々の反響映像でした。

レーダーから映像が消えると、日本艦隊を撃滅したと判断したアメリカ艦隊は、29日早朝に燃料や物資を補給すべく、キスカ島周辺から離れます。それはまさに木村が突入しようとする、絶妙のタイミングでした。

かくして29日13時40分、救出艦隊はキスカ湾に突入。5,200人の将兵を一人も残すことなく収容し、55分後の14時35分、艦隊は出港。無事に幌莚島に帰投したのです。

アメリカ軍は後に、この日本軍の奇跡的な作戦成功を、「パーフェクト・ゲーム」と評しました。

キーン氏も巻き込まれたパニック

奇跡の生還劇の翌日にあたる7月30日。アメリカ軍は駆逐艦がキスカ島に200発、3日後には2,312発の砲弾を撃ち込みます。さらに航空機による激しい空襲も実施しました。

そして8月14日、アッツ島攻略時をはるかに上回る100隻の大艦隊がキスカ島に来襲、猛烈な艦砲射撃を加える中、3万1,000人余りの将兵が上陸を始めます。用意周到なアメリカ軍からは、アッツ島での経験から、日本軍の戦いぶりをいかに怖れていたかが窺えるでしょう。

その上陸兵の中に、通訳士官のキーン氏もいました。

キスカ島の様子からすでに日本兵はいないのではないかという見方が出ていましたが、島を空襲した航空機の操縦士は「反撃を受けた」と強硬に主張していました。キーン氏はこう記しています(同上)。

「上陸直前になって、ケーリ(同僚)と私は真っ先に上陸するよう命じられた。日本兵が事実残っているかどうか、確認するためだった。これは、決死隊の任務に等しかった。幸運なことに、操縦士は間違っていた。島には、一人の日本兵もいなかった。(中略)私たちに続いて、アメリカの部隊が上陸した。戦うべき相手がいなくて、誰もがほっとした

ところが数日後、思わぬことが起こります。引き続きキーン氏の自伝より。

「数日後、別の衝撃が私たちを襲った。海軍の通訳の中でも一番無能な男が、標識を見つけたといって私のところへ持ってきた。『もちろん大体の意味はわかるが、幾つか不確かなところがあるのでね』と言うのだった。標識の文字は、この上なく明快だった—ペスト患者収容所

上陸したアメリカ軍将兵の間にパニックが生じます。「ペストの血清を送れ」という要請が、即座にサンフランシスコに向けて打電されました。それから数日間、キーン氏も他の将兵たちも、いつ体にペスト特有の斑点が現われはしないかと、不安にかられながら過ごしました。

後年、ペスト患者収容所の標識は、日本軍の軍医が、上陸してくるアメリカ軍に一杯食わせようと、ジョークで書いたものであることをキーン氏は知りますが、「誰も笑わなかった」と記しています。

アッツ島将兵の壮絶な戦闘、キスカ島の「パーフェクト・ゲーム」、そして一杯喰わされたペスト患者収容所の標識。これらがキーン氏にどのような印象を与えたのかはわかりませんが、後に帰化するほど日本と日本文化を愛したキーン氏への、一つの後押しになったのかもしれないと想像しています。

ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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