クリアウォーター

哲学史を書いていきます。父は有名哲学者。 2018年から東京から地方移住。現在、千葉県…

クリアウォーター

哲学史を書いていきます。父は有名哲学者。 2018年から東京から地方移住。現在、千葉県南部に住んで、ときどき東京に行く二拠点生活者。女性です。好きなものは、コーヒー、紅茶、酒粕を使った甘酒。

最近の記事

第一世界大戦以降の「西欧」思想の変貌

第一次世界大戦は人類初の世界戦争、そして総力戦であり、それまでの19世紀的「伝統的市民社会」を徹底的に解体させた戦争だった。現代を生きる私たちからすると、第二次世界大戦の方を「大きな戦争」と捉えがちかもしれないが、人類初の総力戦という点で、第一次世界大戦の方が世界史的に大きな戦争であったと言える。 第一次世界大戦によって、19世紀的「伝統的市民社会」≒「いわゆるブルジョワ社会」が解体されたので、それに伴う思想もまた変遷せざるをえなくなる。 第一次世界大戦とは「何かが終わり

    • プラグマティズム

      プラグマティズムは、別名「実用主義」もしくは「道具主義」「実際主義」とも呼ぶ。従来の哲学に見られる人間精神の内在的本質など、いくら追求してみても意味はないとし、人間精神の実際的発現形態の分析、もしくは「言語活動」における「言語の使い方」に哲学を限定したほうがより、実際的、実用的であるとする考え方のことである。 19世紀後半のドイツ、フランス哲学にみるニヒリズム的傾向にも、プラグマティズムは反発をした。特に、アメリカ、イギリスで主張されたのが、このプラグマティズムである。

      • ジグムント・フロイト(1856〜1939)とフロイト学派、フランクフルト学派まで

        ウィーン大学の医学部教授。医師として一人ひとりの患者の面倒を見なければならない立場にあり、精神分析をした。フロイトの人間分析は三重構造であった。「超自我」「自我」そして「エス」の3つである。 フロイトの理論は、躁うつ病の研究には有効であった。ただし、分裂病にはまったく無効であった。 フロイトに対して反発したのがユングである。ユングはスイスの精神分析医。フロイトの忠実な弟子であったが、やがて反発する。第一次大戦直前、ユングは不思議な夢を見た。この夢で「集団的無意識」を主張。

        • ニーチェ(1844から1900)

          ボンおよびライプツィヒ大学で古典文献学を学ぶ。24歳の若さでバーゼル大学教授となり、この頃からワーグナーの楽劇に心酔。しかし、ワーグナーの楽劇が反キリスト教的なものから、キリスト教受容に変化する頃、ニーチェは反ワーグナーの立場に変わる。 ニーチェの基本的姿勢は、西欧の近代を培ってきた「理性的なもの」「合理的なもの」に対する批判であり続けた。初期の代表作「悲劇の誕生」では、ギリシャ悲劇の本質を論じ、ワーグナーの楽劇理解につないでいく。 つまり、ギリシャ悲劇を「ディオニソス的

        第一世界大戦以降の「西欧」思想の変貌

          キルケゴールの実存主義

          ヘーゲルは普遍的な人間のあり方を追求しようとした。これに反発する形で登場したのがキルケゴールである。 キルケゴールは、ヘーゲル的な「普遍的人間のあり方」から「抜け出した部分」に価値を置おうとした。「共通の本質的あり方」とは違う「抜け出したあり方」に価値を求めるキルケゴールの哲学を「実存主義」と呼ぶようになった。ただし、キルケゴールのesse existentiaeを「実存」という訳語で呼ぶようになったのは、昭和に入って、あの九鬼周造らの訳語への努力の結果であった。それ以前の

          キルケゴールの実存主義

          【哲学用語】ヘーゲルの「外化」とマルクスの「疎外」

          「外化」とは人間精神が能動的に生み出したもの。ところが「外化」されたものが生み出した人間精神から、よそよそしい他者になってしまった状態、これを「疎外」と呼んだ。「外化」が「疎外」へと転化する。これはマルクスが主張したもの。この「疎外論」はマルクスを離れて、一般哲学用語となる。 「疎外」(Entfremdung) Ent→ものたらしめる fremd→よそよそしい もともとヘーゲルは、Entäußerung(外化)としていたが、Entfremdung(疎外)になってしまった

          【哲学用語】ヘーゲルの「外化」とマルクスの「疎外」

          マルクスとエンゲルス、そして資本主義の行方

          人類の歴史は、原始共同体の解体以来、支配と被支配の闘争、搾取と搾取との闘争の歴史であった。近代では、支配者としての「ブルジョワジー」と被支配者の「プロレタリアート」の闘争の時代である。しかし、ブルジョワジーとプロレタリアートの闘争は、やがてプロレタリアートの勝利に終わり、後に「支配」🆚「被支配」、「搾取」🆚「被搾取」の関係は終わり、輝かしい共産主義体制が確立されるだろう。これが1848年2月革命(フランス)の直前にロンドンで出版されたマルクスとエンゲルスのパンフレット「共産党

          マルクスとエンゲルス、そして資本主義の行方

          ヘーゲルの国家と初期資本主義社会

          ヘーゲルは、単なる反動思想家ではなかった。「家族」といえば、当時のアジア的考え方では、「親子の関係」によってなる「縦の構成」であった。これに対して、ヘーゲルの家族は「夫と妻との関係」、つまり「夫と妻」の「横の構成」であった。 夫、妻に子供が生まれ、そしてこの子供が自立して結婚すれば、独立の家族をなす。家族が寄り集まって、市民社会を構成すると考えていた。 ただし、この市民社会は遠心分離的傾向を示しており、統一性がない。この遠心分離傾向の市民社会を1つにまとまった単位として締

          ヘーゲルの国家と初期資本主義社会

          父の講義録を多くの人に読んでいただきたくて

          哲学史を書きつづるにあたって、自分自身のこともたまには書いていかねばならないと思う。 哲学の研究者や大学の教授でもない、ましてや大学で哲学を学んだわけでもない私が「哲学史」を書くというのは、身の丈以上のことであり、もしかすると、衒 (げん) 学的、もしくはペダンティックと思われてしまうのかもしれない。 ただ、哲学者である父の講義録を残していけるのは私しかいない、父の講義録を少しでも多くの人に伝えていきたいという思いから、この哲学史をつづっている。 写真は、実家の父の写真

          父の講義録を多くの人に読んでいただきたくて

          19世紀初頭、ロマン主義ムードの中の哲学

          ヘーゲルが登場する前、ドイツ観念論には、1つの流れがあった。フィヒテ、シェリング、ヘーゲルである。 フィヒテは、「自我の絶対性」を主張し、「自我の哲学」を最高のものと考えた。「自我は、すべてを生み出す」という主張である。 その次のシェリングは、「すべてを生み出すのは、自我だけか?」と疑問を呈した。「自然もまたすべてを生み出しているのではないのか?」 とすると、「自我」と「自然」との関係とは何か? この場合の「自然」とは有機的自然のことである。つまり、シェリングは自我」と「

          19世紀初頭、ロマン主義ムードの中の哲学

          感受性に重きを置く、ロマン主義文学

          前回に続き、文学史上のロマン主義について、まとめていく。 イギリス文学(1800年ごろ) ワーズワース、コールリッジは1810年から1820年頃。 バイロン、シェリー、キーツ、ブレーク、 バイロンが特に有名である。彼は「チャイルドハロルドの遍歴」(1812年)で名をあげる。最晩年、ギリシャ独立運動に参戦し、ギリシャで病没。享年36歳。 フランス文学(1820年から30年にかけて) フランスのロマン主義はイギリス、ドイツに比べてスタートがやや遅れる。1810年にかけ

          感受性に重きを置く、ロマン主義文学

          「静かな偉大さ」から、「ダイナミックな激動」の時代へ(19世紀初頭から1830年代まで)

          19世紀初頭から1830年代まで、次の順序で3回に分けて述べていく。 一般的傾向 文学の場合 哲学、思想の場合 1、一般的傾向 「古典主義」から「ロマン主義」へ この時代の一般的傾向としては、18世紀各国を貫いた「古典主義」の時代から19世紀初頭の「ロマン主義」の時代への劇的変遷として語られている。 その契機となったのは、あのフランス革命末期、いわゆるジャコバン独裁期における「最高存在」=「理性の祭典」であった。あれは西洋人の国籍、宗派、趣味嗜好の如何を問わず、す

          「静かな偉大さ」から、「ダイナミックな激動」の時代へ(19世紀初頭から1830年代まで)

          カント(4)〜崇高なる者の政治的実現の試み

          この古典主義的美学、それにプラスするにカントの美学が主張する「崇高なるもの」とは、キリスト教神学によるものではなく、古典ギリシャ・ローマの理想、別言すれば、中世キリスト教的な理想を捨て、古典古代の理想、さらにまた別言すれば、中世キリスト教的信仰に代えるに、古典古代の「理性」を現実のものたらしめる思想であり、またその運動でもあった。 ところで、このような思想とその運動は、なんとあの「フランス革命」でも現実の政治運動の目標となり、その現実化が具体的に図られたのである。周知の通り

          カント(4)〜崇高なる者の政治的実現の試み

          イマヌエル・カント(3)

          カントの第三批判書である「判断力批判」は、「美」論と「目的」論とに分かれる。特に、ここでの「美」論は、カントに先行したあのバウムガルテンの美学(1758年)に背負うところ大であった。 バウムガルテンは、西洋思想史上、最初に美学を学問として独立させた思想家として知られる。しかも、カントの哲学成立以前の18世紀中期は、いわゆる古典主義時代の精神に適合するための美の追求が盛んな時代でもあった。この古典主義時代と言うのは、過去のギリシャローマ時代を模範として、それに習おうとする時代

          イマヌエル・カント(3)

          イマヌエル・カント(2)

          第一批判書の「純粋理性批判」の内容は前回、述べてきたとおりである。再度、これを要約すると、この「批判書」は「感性論」「悟性論」「理性論」に分かれ、「感性論」のところで、懐疑論に陥ってしまったイギリス経験論の伝統を踏まえ、「理性論」のところで独断論に陥ってしまった大陸合理論の伝統を批判的に踏まえて、両者の総合的統一をはかったのである。 これに対して、第二批判書の「実践理性批判」は、我々の行為が「善」であると言えるのはどうあるべきかを論じた書である。これについても従来、二通りの

          イマヌエル・カント(2)

          イマヌエル・カント(1724〜1804年)(1)

          「大陸合理論」と「イギリス経験論」を統合、新しい人間のあり方示す カントはドイツ本国を遠く離れた東プロイセンのケーニヒスベルク(現在、ロシアのカリーニングラード)に生まれながら、ドイツ本国の誰よりもドイツ哲学の先駆者となっている。彼もまた、ニュートン物理学に没入し、ニュートン物理学を全宇宙まで適用してんの「カントラプラスの星雲説」を展開することにもなる。その後1770年、彼はケーニヒスベルグ大学の教授となり、さらに10年後の1781年、第一批判書と言われる「純粋理性批判」

          イマヌエル・カント(1724〜1804年)(1)