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ヘーゲルの国家と初期資本主義社会

ヘーゲルは、単なる反動思想家ではなかった。「家族」といえば、当時のアジア的考え方では、「親子の関係」によってなる「縦の構成」であった。これに対して、ヘーゲルの家族は「夫と妻との関係」、つまり「夫と妻」の「横の構成」であった。

夫、妻に子供が生まれ、そしてこの子供が自立して結婚すれば、独立の家族をなす。家族が寄り集まって、市民社会を構成すると考えていた。

ただし、この市民社会は遠心分離的傾向を示しており、統一性がない。この遠心分離傾向の市民社会を1つにまとまった単位として締めくくるのが「国家」だと言うのである。つまり、ヘーゲルの哲学において、まとまりのない「市民社会」にまとまりをつけ、各「国民」にまとまりをつけるのが「国家」というのである。

これは19世紀前半の初期「近代市民社会」を論ずるのに、ある程度、正当な考え方であった。中間の「市民社会」は、まさしく「資本主義」に貫かれており、資本主義は会社の利益を追求するだけであり、全体(国民全体)の利益などは関係のないものであったからである。

ところで、ヘーゲルの「国家」論からマルクスの登場を解説するにあたり、19世紀前半の初期近代市民社会、つまり初期の資本主義社会について説明していかねばならない。

初期の資本主義社会は、次のように成立した。

第一次エンクロージャー


これは15世紀末から16世紀にかけて、イギリスで進行した地主による農地の牧場化のための囲い込み。牧場増産のため、地主が小作人から土地を取り上げ、大規模な牧羊地を作り上げた社会の流れを言う。「羊が人間を食う」、これはトマス・モアの言葉である。

第二次エンクロージャー


18世紀後半19世紀初頭の運動である。農業に資本主義が持ち込まれるやいなや、領主や地主たちは、大規模農業経営に乗り出し、小作人たちから土地を取り上げ、彼らを追い出して、資本主義的大規模農園を行うようになった。

空想的社会主義者の登場


その結果、土地を追われた農民は無一文で、都市に流れ込み、資本主義的工場に雇われるしか生きる方法がなかった。これが無一文の「プロレタリアート」の歴史的現実である。このような現実に心を痛め、プロレタリアートの解放のために努力した人々が19世紀初頭に登場する。その代表的人物がフランスのサン・シモンであり、イギリスのロバート・オーウェンであった。

サン・シモン(1760〜1825)は、もともとフランス貴族の出身である。フランス革命で爵位を返上、フランス産業社会の進展とともに、最も貧しい者(労働者階級)の地位の向上のために努力。しかしこれは挫折した。

ロバート・オーウェン(1771〜1858)は、スコットランドで綿紡績工場を経営しながら、その経営方式に疑問を持ち、産業社会の中で貧困に苦しむ労働者階級に同情、1825年アメリカのニューハーモニーで労働者階級を主体とした産業社会の実現を試みるも失敗した。

サン・シモンとロバート・オーエンは、のちに「空想的社会主義者」と呼ばれる。この後、マルクスが登場する。

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