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イマヌエル・カント(3)

カントの第三批判書である「判断力批判」は、「美」論と「目的」論とに分かれる。特に、ここでの「美」論は、カントに先行したあのバウムガルテンの美学(1758年)に背負うところ大であった。

バウムガルテンは、西洋思想史上、最初に美学を学問として独立させた思想家として知られる。しかも、カントの哲学成立以前の18世紀中期は、いわゆる古典主義時代の精神に適合するための美の追求が盛んな時代でもあった。この古典主義時代と言うのは、過去のギリシャローマ時代を模範として、それに習おうとする時代でもあった。もちろん、このような風潮は、15世紀から16世紀のあのイタリアルネサンス期に登場していた。しかし、あの時代はダヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロに代表されるように、もっぱら絵画、彫刻を直接制作することに主眼が置かれ、ギリシャ・ローマの美意識を論理として確立するところまでは行っていなかった。18世紀中期の古典主義時代は、ギリシャ・ローマの諸芸術を「論」として賛美する傾向が強くなる。

その最初の人物が、ドイツの思想家バウムガルテンであり、その成果が「美学」であることは、先にもあげておいた通りである。バウムガルテンは、美の本質を「完全性」に見ようとした。この傾向は、同じドイツの思想家、ヴィンケルマン(1717〜68年)によっても補強される。ヴェンケルマンは、あの有名なラオコーンの古典彫刻に接して、苦悶している像でありながら、いかに「高貴な単純と静かな偉大」に満ちた像であることか、と評したことで有名となる。さらにイギリスのエドモンド・バーク(1729〜97年)は「崇高と美の観念の起源」(1757年)でも有名となる。彼はこの著作で、「崇高」という用語を初めて使い、古典主義「美学」の基礎用語となる。

ちなみに、付け加えるなら「ラオコーン」とはあのトロヤ戦争のときのトロヤ側の英雄。攻めあぐねたギリシャ側が大蛇を送って、英雄ラオコーン親子を殺害したという伝説。この像は、紀元前1世紀頃の作であるらしい。

以上のような、カントに若干先行する美学の創始者たちの思想を、カントの第三批判書である「判断力批判」はそのまま継承する。この第三批判書である「判断力批判」は、「美学的判断力」と「目的論的判断力」の二部門からなっている。まず「目的論的判断力」とは何か、から始める。これは、我々の「行為の目的」とは何か。我々は「何を目的にして行為するのか」から論じはじめる。それは、我々にとっての自由とは何かを極めることである。このようなカントの発言に、フランス革命の進展を身に付けた彼の心情を読み取ることができるであろう。

我々にとっての自由とは、自然に制約されたあり方を、人間にとっての自由の実現のために、どうつないでいくかにかかっている。かくして、「自然」の「崇高なあり方」をいかに感じ取ることができるかが問題となる。この「自然」の「崇高なあり方」を感じ取ってこそ、我々の自由の完全な実現、つまり「人格」の「完全な実現」につながっていくことになる。つまり、カントにとっての美的判断の最高のあり方は、人格の崇高のあり方を実現することによってのみ完成すると考えられたわけである。

以上の通り、カントの「美学」には、ドイツのバウムガルテンやヴィンケルマン、それにイギリスのバークら、一連の美学の先行者たちの思想が、ほぼそのままの形で受け継がれていることになる。カントが第三批判書の中で使った「崇高」という理念は、あのエドモンド・バークが彼の主著「崇高と美の観念の起源」(1757年)で初めて使った用語であり、「崇高」はこの古典主義時代を代表する「用語」になっている。


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