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イマヌエル・カント(1724〜1804年)(1)



「大陸合理論」と「イギリス経験論」を統合、新しい人間のあり方示す

カントはドイツ本国を遠く離れた東プロイセンのケーニヒスベルク(現在、ロシアのカリーニングラード)に生まれながら、ドイツ本国の誰よりもドイツ哲学の先駆者となっている。彼もまた、ニュートン物理学に没入し、ニュートン物理学を全宇宙まで適用してんの「カントラプラスの星雲説」を展開することにもなる。その後1770年、彼はケーニヒスベルグ大学の教授となり、さらに10年後の1781年、第一批判書と言われる「純粋理性批判」を、1788年には第二批判書と言われる「実践理性批判」を、1790年には第三批判書と言われる「判断力批判」を出版している。この3批判書が、あのフランス革命の時期と全く重なっていることに注意のこと。つまり、彼にとっての哲学的思索は、とりもなおさず真に「近代」に向けての思索の営みであったということである。

もちろん、それ以前のイギリス経験論も、大陸合理論も「近代」に向けての営みでなかったわけではない。しかし、イギリス経験論は、これまで見てきた通り、我々の認識、知識は、全て「経験」に由来するとは言いながら、我々の知識の確実さという点では、ヒュームがそうであったように、全くの懐疑論に陥ってしまった。他方、大陸合理論のほうは、我々の認識、知識の確実さを主張するにあたって、あのライプニッツがそうであったように、我々の個体から神様に至るまでの「モナド」などと言うあられもないものを考えだし、まったくの独断論に陥ってしまった。

「懐疑論」と「独断論」の表出。これがカント登場以前の西欧思想の現場であった。そこで真の意味での近代を迎えるにあたってのカントの関心は、いかにして以上の両者の思想や伝統を取り入れ、新しい人間の認識のあり方を示すことができるかにあった。

「認識」を超えたものを論ずるのはムダである

カントの「純粋性批判」は、大雑把に言って「感性論」「悟性論」「理性論」の3分野にわたって論じられる。我々が認識するというのは、まず「感覚」を通してである、「感覚」を通して得られた対象物を次に、悟性と言う識別をする能力を通して認識する。

したがって、「感性」「悟性」「理性」の認識を超えるような「霊魂」であるとか「全宇宙」であるとか、伝統的な「神」などという概念に対して、我々の認識は及ばないのであるから、判断を差し控えるべきである。これが、カントの基本的な考え方である。カトリック、プロテスタント諸派を通して争われてきた「神の存在」など論じてみても無駄だからやめろ、と言うのである。

これに対して、第二批判書の「実践理性批判」は、我々の実践はどうあるべきかを論じたものである。第一批判書が、我々にとって神の認識とは何かを論じたものであるのに対して、この第二批判書は、我々にとっての実践とは何であるかを論じたものであるとも言える。そしてまた第三批判書の「判断力批判」は、「美学」と「目的論」の両者によって成り立ち、特に前者の美学では、バウムガルテン(1714〜1762)によって基礎づけられた美学をさらに推し進めたことになる。要するに、第一批判書では、人間にとって「神」とは何か、第二批判書では、人間にとって「善」とは何か、第三批判書では、人間にとって「美」とは何かを論じたものであり、当時の人間にとっての基本的な、人間とっての「真善美」とは何であるかのすべてに応えようとしたことになる。

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