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ニーチェ(1844から1900)

ボンおよびライプツィヒ大学で古典文献学を学ぶ。24歳の若さでバーゼル大学教授となり、この頃からワーグナーの楽劇に心酔。しかし、ワーグナーの楽劇が反キリスト教的なものから、キリスト教受容に変化する頃、ニーチェは反ワーグナーの立場に変わる。

ニーチェの基本的姿勢は、西欧の近代を培ってきた「理性的なもの」「合理的なもの」に対する批判であり続けた。初期の代表作「悲劇の誕生」では、ギリシャ悲劇の本質を論じ、ワーグナーの楽劇理解につないでいく。

つまり、ギリシャ悲劇を「ディオニソス的なもの」と「アポロン的なもの」との対立に求め「ディオニソス的なもの」の活躍とその敗北に、真のギリシャ悲劇の「悲劇たる所以」を求めた。つまり、ニーチェが求めたものは、あくまでも芸術的「美」へと昇華される「ディオニソス的なもの」であった。

中期か、後期にかけての彼の思想は、前期の「ディオニソス的なもの」への讃歌をもとに、西洋の基本を培ってきた「理性的なもの」「合理的なもの」に対する全面的挑戦へと転ずる。

「神の死」と「永劫回帰」の思想が、晩年の彼の代表的考え方である。「ツァラトゥストラはかく語りき」(1885年)が晩年の代表作である。1889年、トリノの路上で発狂し、翌年1900年に死亡した。

ニーチェの思想を解釈する際の注意点

ニーチェは、西洋キリスト教的思想に真っ向から、歯向かった思想家である。キリスト教的伝統に代わって、ギリシャ的「永劫回帰」の思想を持ってきて、ニヒリズムを回避しようとしたとされている。

しかし、日本におけるニーチェの受容でまず考えるべきは、永劫回帰という思想は、むしろアジア的なものの本質であるということである。春夏秋冬が巡り、巡るという思想の中で、アジア人は生きている。

したがって、ニーチェの思想の日本の受容者が、晩年のニーチェはこのようにニヒリズムを回避したなどと得々と語るのはバカげている。いかに日本のニーチェ紹介者、受容者が自分の立場を持たない単なる紹介者にしか過ぎないものであるかが、これによってわかるだろう。

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