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(小説)#5 「Re, Life 〜青大将の空の旅」

第1章 とみ爺の家の青大将④

止夫父さんの出征 


意外に早く志津ちゃんは、とみ爺の家に住むことになったネ。
志津ちゃんは6歳の時、椿の里にやってきたよ。
 志津ちゃんの父さん、止夫とめお父さんに召集令状が来て出征したンだ。
軍艦を作る造船所で働いていたが、最後の戦艦が長崎の港を出て、すぐに、止夫とめお父さんに赤紙が来たンだよ。
 出征の時、止夫とめお父さんは、モミ母さんにとみ爺の家に家移りするように勧めたと言うことさ。自主的な疎開だよ。田舎がある人はどんどん引っ越ししていったよ。
国は、大本営発表として連日、勝った、勝ったと報道していた。が、国民は本当にしていなかったネ。
止夫とめお父さんの集合地は大村駐屯地で、そこで短時間、家族との面会が許された。
それぞれの家族は、重箱にご馳走を詰めて持っていったよ。
中庭で家族ごと座って、お別れの宴だ。モミ母さんは暗い表情をしていた。どこの家の子供たちも跳ね回ること無く静かにしていた。
その後、止夫とめお父さんの属する部隊は大陸方面に向かったという噂が流れたネ。
昔むかし、1944年のことだ。

志津ちゃんは背中に小さな風呂敷包みを背負ってとみ爺の家にやってきたよ。
4月、八重国民学校に入学したネ。夏休みになるまでは、戦争でつらい思いをしたようだ。空襲警報と解除の繰り返しが続いたんだ。
こんな陸の孤島と言われている処まで敵機がくるンだよ。

西ノ浜の遙か沖合の五島列島上空には飛行機の編隊まで出現したよ。
島影に沿って進む大型輸送船が攻撃された。編隊は繰り返し飛来して、船の上空で一斉に反転、垂直降下して爆撃した。味方の応援はなかったよ。
船は航行不能となり黒煙を上げた。
敵機の襲撃が止むと、浦々から手こぎの小舟が沖へ向かって漕ぎ出した。
(空しいネ)五島列島は遙か遙か沖にあるんだよ。
ポンポン船でも2時間は掛かる。東シナ海の波は荒い。
それでも、小舟を漕ぎ出して何とかしようとしたんだ。辛いね。

8月9日、長崎市に新型爆弾(原子爆弾)が投下された。
炸裂した閃光は、志津ちゃんの胸元までピンク色に染めた。爆風は西の浜の小石を吹き上げ、とみ爺の家の庭を埋めた。家の戸障子は倒れ、天井の すすがまき散らされた。
志津ちゃんたちに、平穏な暮らしが戻ったのは8月15日以降さ。

戦争が終わっても、椿の里には、はかばかしいニュースは入ってこない。
ラジオも新聞もない。
八重本村の役場の人が、
「戦争は終わったらしか(らしい)」と言った。
「そういえばピカドンの後は、急に静かになった」と、集落の人々は思った。
てんのうさんの放送など誰も聞いていない。それでも、何時とはなしに、
(負けたげな)と、思うようになった。
椿の里集落からもたくさんの男たちが戦争にかり出されていた。
どうなったのか。ニュースが入ってこない。

 椿の里東の寺守婆さんの拝みがよく当たると言う噂が広まった。
拝屋婆さんに、出征した人の名前を半紙に書いて差し出すと、婆さんはそれを仏壇に供えて長い経を読んだ。そして、向き直ると、
「仏様は何も言われません。生きている気配がしません」と言うんだそうな。
その頃になって、戦地からの遺骨が帰って来るようになった。しかしね、中身は石ころが納められているだけ、という。
モミ母さんも戦後6ヶ月位して、止夫とめお父さんの消息を拝屋婆さんに聞きに行ったネ。
拝屋婆さんは、「仏様は何も言われません」とだけ言った。
生きているのか、死んでいるのか分からない。モミ母さんは、拝屋婆さんが “生きておいでの気配がしません” と、伝えなかったことに頼った。
夫は、必ず帰って来ると信じたよ。




( #5 第1章 ⑥ へ続く。お楽しみに。)



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