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禿げ山に 春が来たのか あお芽ふき

この句は、中学校の同級生、青山さんが、国語の授業で作った俳句である。
国語の若い教師は、洟垂はなたれ小僧同然の生徒に、5、7、5の形式と季語なるものを説明して、俳句を作るように言った。
クラス中が面食らったが、幾つか、それらしきものができた。
教師は、青山さんの句を取り上げてほめた。
私は、(そんなものでいいのか)と思ったが、自作の記憶はない。多分、できなかったのであろう。

1945年、日本の国は戦いに敗れた。
それから10年もしない頃の話である。

人々は、日々の暮らしに汲々きゅうきゅうとして、子供達のまとう衣服は、貧しかった。破れをつづって着ている同級生もいた。
長崎の山々は、伐採ばっさいされたまま山肌をき出しにして、放置されていた。
青山さんの禿げ山の句は、そんな時代の記憶と共に、長く私の中に生き続けることになった。

仕事と子育ての暮らしの中で

私はその後、俳句とは無縁で、仕事と子育ての暮らしが長く続いた。ホッと一息ついた時、偶然、有名な松尾芭蕉の俳句に出合った。

古池や 蛙とび込む 水の音

(蛙がポチャンと池に入った、それがどうした)と思った。
すぐに、青山さんの俳句を思い出した。
禿げ山の句を口にすると、狭い教室にひしめき合っていた中学校の教室のさわがしさが鮮明に蘇ってきた。
この時は、禿げ山の句の方が鮮烈であった。

そして晩年

晩年になって、高浜虚子の本を手にする機会があった。
「俳句はかく解し かく味わう」という本*である。
“古池や 蛙とび込む 水の音” の句と再会した。
(*岩波文庫 1998年4月6日第14刷)

虚子は、この句が、松尾芭蕉の句作りの大きな節目になったと言っている。しかし、この句自体は、そう大した良い句と考えられないとも述べている。私は、「そうかな?」と思った。
“古池や”が気になったのである。
芭蕉は、詠歎詞 “や” を使っているが、それは、それほど重い “や” ではなく、「古池や」と見たままをそっと冒頭に持ってきた観がある。私は、
(この池はどれほどの歳月を経てそこに存在するのだろうか)と受け取った。鎮守の森の中にある古い池を思い浮かべた。
その時、あれほど比べた青山さんの禿げ山の句は、遠くに霞んでいた。
“禿げ山に 春がきたのか あお芽ふき” の句は、14歳の少女の句となっていた。
私は、静まりかえる古池に、自分の年齢を実感した。

読む側の年齢によって、句の意味が違ってくる。私も幾らかの人生の苦労を経て、句のどこを見てそれをどう味わうか、観賞の幅が広くなった。年齢と共に、味わい深くなる句がある。

by Tajima Shizuka


健康塾

私はすべての職業を辞して退職後、家事以外、何もすることがなくなった時、NPO法人「健康塾」の活動に出合った。

「健康塾」は、会員制で、マンションの1室を拠点に、絵手紙教室、詩吟の会、書道教室、仮名書道教室、健康麻雀道場などの活動をしていた。仮名書道の会は「フジタ会」と称していた。名前のとおり、初めは、フジタ光華師匠の主催する会であった。
師匠が高齢になり、会への参加が間遠になってからは、会員5人であれこれ相談して作品つくりを続けていた。

私が関わった時は、丁度、芭蕉の「奥の細道」をテーマにした作品つくりが終わったところであった。
会員に器用な人がいて、各自の作品を綴じて冊子にし、布張りの表紙まで付けて、塾内に飾っていた。「奥の細道」の冒頭、
『年月は 百代の過客にして 行き交う年も また旅人なり』
のくだりが、美々しく力強く墨書されていた。
「有名な書き出しのところは、練習を重ねました。後の句は、半紙に自由に表現しました」とメンバーの1人が自慢げに語った。
私は、共鳴する思いから「フジタ会」に参加することにした。

次の作品作りも同じ要領で、俳句を各自で自由に表現して行くという。メンバーの持ってきた「評釈ひょうしゃく 猿蓑さるみの幸田露伴こうだろはん・著** が次のテーマに決まった。私は、さっそく、その文庫本を購入した。
(**岩波文庫 2001年2月22日第9刷)

ところが、石川県で、新型コロナウイルス感染が拡がり、「健康塾」は、狭いマンションの1室に集まることを危惧きぐして活動を休止した。また私の方でも不要不急以外の外出を余儀無くされた。そこで「フジタ会」のメンバーから「奥の細道」の仮名作品集を借用し、幾つかの散らし書きのパターンを参考にしながら自宅での自習に努めた。

『寄り道、迷い道』の始まり

コロナ禍で「評釈 猿蓑」の句を散らし書きをするほかなく孤軍奮闘こぐんふんとうした。ところが「評釈ひょうしゃく 猿蓑さるみの」のページり、載っている俳句を追っていると、「はて」と筆が止まった。
「評釈ひょうしゃく 猿蓑さるみの」は、馴染なじみの俳句よりも、やくの分からない俳句の方が多い。句の続きにある露伴の評釈を読むと「なるほど」と次第にやくかってくる。
しかし露伴の漢語的表現はかなり手こずった。「なるほど」と納得するものの、漢語的表現や理解できない用語が次々に出てくる。こうして筆を持つ手が止まってしまい散らし書きどころの段ではなくなった。


こうした次々に出てくる手こずりから私の『寄り道、迷い道』が始まった。
露伴の評釈に出てくる難解な語句や表現を、愛用の電子辞書で調べることに夢中になってしまったのである。
ついには、分厚い古語辞典にまで持ち出すことになった。

仮名の散らし書き***も、構成に工夫がいるなど、それなりに楽しいが、知らない語句の追求はもっと楽しく面白い。
わけのわからない語句を、辞書にうまくたずね当たり、全容が解明した時の喜びは何ものにも替え難い。
また、露伴は俗事やひな(いなか)の言葉にも精通している。
そんな言葉に出合うと、幼い時、3年ばかり父祖の地で暮らした思い出に繋がって行く。(ああ、それもそう、これもそう)と、筆を置いて、『寄り道』をする。気が付けば、思い出にひたり切りになっていた。
俳句を楽しみ、露伴の評釈を追いかけ、アレコレと『寄り道』をし、とんでもない思い出の中に迷い込むという展開となった。

***かな書道の散らし書きについて
散らし書きとは、色紙・短冊などに歌の文句を、行を整えず、とびとびに、また草仮名、平仮名などを混ぜ、濃く、細く太くなど様々に散らして書くこと、と辞書にはあります。
例えば、句の最後に、”夜半の月”とあったら、その月をどこに置くか、太くするか、かすれた月にするか工夫します。月という漢字の形も様々です。句全体を、大きな円で描いた作品にも出会いました。それはまるで一幅の絵のようになります。

by Tajima Shizuka 一部、出典:日本事典

「評釈 猿蓑」の墨書

私は3年の歳月をかけ「評釈 猿蓑」文庫本の内容全文を墨書することにした。
その内、俳句は、大きく散らし書きにした。
こうしてできた私の仮名作品は、「健康塾」の本作り達人にまとめてもらうには気が引けるレベルのしろものである。
自分で、春夏秋冬に分けて糊付けし、簡単な表紙を貼って冊子らしき体裁にして収め仮名作品とした。


手元に残った『寄り道、迷い道』をした数々

できたばかりの自分の仮名冊子を読み返した。冊子としてくくった後、墨書とは別に手元に残った物があった。
『寄り道、迷い道』をした数々である。露伴の評釈の漢語的表現を手こずって調べた内訳うちやくたちです。露伴がよく知る俗事、ひな(いなか)の模様などにも関心があります。俳句の内容、言葉にもアレコレと言いたいことがあります。これを、墨書とは切り離して、エッセイとして書き起こすこと決めました。いわばエッセイは副産物です。
(このままに捨てておけない)
別の文として引っ張り出し、名付けて、「猿蓑」のエッセイ『寄り道、迷い道』とします。

俳句に関心のない方もある方も、私の「猿蓑」エッセイ、『寄り道、迷い道』をご一緒にお楽しみ下さい。ひょっとしたら、あなたも私とは違う『寄り道、迷い道』を辿たどるかもしれません。



⚪︎次回は、さっそく、「猿蓑」の冒頭の句を取り上げます。
初時雨はつしぐれ 猿も小蓑こみのをほしげ也」を取り上げて、「みの」を語ります。
事情通の方は、「蓑」と聞くとピンと来ることでしょう。
はてさて、いかなる話になるでしょうか。お楽しみに。




余計なことですが、私が手こずって、少しばかり調べた句集「猿蓑」、松尾芭蕉のことなど、ゴタゴタした話を参考として、下段に記すことにします。
関心が無い方はどうぞスキップしてください。

<参考>

猿蓑《さるみの》は、向井去来と野沢凡兆が編集した俳諧撰集。半紙2冊(乾・坤)。1621年(元禄4年)7月3日、井筒屋庄兵衞刊。
書名は巻頭の松尾芭蕉句、「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」の句に由来する。 芭蕉が監修者として全面的に関与し、「おくのほそ道」行脚後の新風を具現した傑作として名高い。

出典:wikipedia

評釈 猿蓑《ひょうしゃく さるみの》
初しぐれ猿も小簑をほしげ也.巻頭の1句により猿簑と名づけられたこの集は,芭蕉七部集中の白眉であり,蕉門の許六らによって俳諧の古今集と自讃せられた.古来多くの評釈,注釈を生んだが,この露伴評釈は,単なる評釈にとどまらず,評釈自体がひとつの文学的世界を形づくり,連句の付合にも似て,本文と微妙に響き合っている.

出典:岩波書店

おくのほそ道
元禄文化期に活躍した俳人、松尾芭蕉の紀行及び俳諧。元禄15年(1702年)刊。
日本の古典における紀行作品の代表的存在であり、芭蕉の著作最も著名な作品である。
「月日は百代の過客にして行き交う年も又旅人也」という冒頭より始まり、作品中に多数の俳句が詠み込まれている。

出典: Wikipedia

幸田露伴
慶応3年7月23日(1886年8月22日)―昭和22年7月30日(1947年)は、日本の小説家、考証家。
江戸(現東京都)下谷生まれ。第1回文化勲章を受章。
「風流物」で評価され、「五重塔」「運命」など文語体作品で文壇の地位を築いた。
「芭蕉七部集評釈」など古典研究などを残した。旧来、「露伴、漱石、鷗外」と並び称され、日本の近代文学を代表する作家の1人である。
29歳の時に結婚し、長女 歌(うた)、次女 文(あや)、長男 成豊(しげとよ)が生まれた。1912年に歌が若くして亡くなる。1926年、成豊が結核で亡くなる。次女 文は、露伴の死の直前に随筆を寄稿し、さらに露伴没後には、父に関する随意筆で注目を集め、その後小説も書き始め作家となった。文のひとり娘・青木玉も随筆家、又その子、青木奈緒はドイツ文学畑のエッセイストである。

出典: Wikipedia


(エッセイ)「猿蓑 の 寄り道、迷い道」#0 はじめに 
をお読みいただきましてありがとうございました。
2024年2月16日#0  連載開始
著:田嶋 静  Tajima Shizuka
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