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まえがき(後)

訳者コメント:
「まえがき」の後半では本書全体のあらましが紹介されます。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


前半からの続き)
◆◆◆

地球の危機は(自然ではなく)人間に起源をもつと私たちが言うとき、それは何を意味しているのでしょう? 人間は結局のところ哺乳類であり、生物学でいう動物で、他の動物より不自然ということはありません。ある意味、人間と自然は区別できませんが、それは人間が自然の一部だからで、したがって私たちのすることは全て「自然」なのです。しかし、私たちは区別をします。自然の中にはある種の調和、バランス、本物感、美しさを認めますが、それはテクノロジーの世界に欠けているものです。「人工的」という言葉が暗示するものを考えれば分かるでしょう。事実としてであれ認識の上であれ、私たち現代人の生き方はもう自然ではありません。

人間の本性ほんしょうを特徴づけるものの核心にあるのがテクノロジーで、これは人の手により作られるものです。他の動物も道具を作り使いますが、物理的な環境を作り変えたり破壊したり、自然の営みをコントロールしたり自然の限界を超越したりするような人間の能力は、他のどの生物種も持っていません。精神と魂の領域では、テクノロジーに対応するのが文化で、テクノロジーが物理的な本質を改変するのと同じように人間の本性を改変し、それに取って代わることさえあります。こうしてテクノロジーで自然を征服し、文化で人間の本性を征服することで、私たちは自身を他の生命から区別して、人間の領域を打ち立てます。これが良いことだと信じ、私たちはこの分断を上昇だと考え、元の動物よりも上に登るのです。このような訳で、何千年にもわたる文化とテクノロジーの蓄積を、私たちのお気に入りの言葉で「進歩」と呼ぶのです。

ならば、テクノロジーと文化という形で人間を定義しているのは分断であり、また現在の世界に集中する危機を作り出したのも分断ということになります。宗教的な信念を持つ人は根本的な危機の原因を神から切り離されたことに求め、生態系に信念を持つ人は自然からの分断に求めるかもしれませんし、社会運動に関わる人はコミュニティーの解体(つまり互いからの分断)に注目するかもしれません。私たちは精神的な側面、つまり失われた自分自身の一部からの分断も調べてみるかもしれません。良くも悪くも、このような私たちを作り上げたのは分断なのです。

長く曲がりくねった道のりを経て、このような形の分断がいま私たちの知る世界を作り出しました。人生と世界はもっと大きなものであるはずだという私たちの直感は、その分断が突き詰めれば錯覚に過ぎないという感覚を映し出しています。でもそれは強力な錯覚で、いま私たちが目にするような、政治、環境、医療、教育、経済、宗教、その他多くの領域で集中的に起きている危機を引き起こしたのです。本書で私はこれらの危機へと至る道筋をたどります。私が絶えることなく驚いたのは、イラク戦争、知的財産、抗生物質耐性菌、酸性雨、民族浄化、ジャンクメール、郊外スプロール化、米国民の識字率の低下のような一見して無関係な数々の現象の根底に、自分というものについての同じ根本的な誤解が隠れている様相です。(私は全てを「資本主義」のせいにするつもりはありません、なぜなら私たちの経済システムもまた分断の原因というより症状だからです。)

分断の根源であり典型なのが、個別ばらばらの自己という近代の理解です。デカルトの「われ」、アダム・スミスの「経済人」、ダーウィンのいう「資源をめぐる競争」の個人的表出、アラン・ワッツのいう「皮膚に閉じ込められたエゴ」。それは他者、つまり自然と他人に対し、条件付きで依存するけれど根本的には切り離された自己です。自分自身を個別ばらばらの存在と見るなら、私たちは自己でないものを最大限まで利用するためあやつろうとするのが自然の成り行きです。特にテクノロジーはある種の個別化や環境からの概念的な分離に基づいていますが、それは物質界を操作とコントロールの対象と見なしているからです。テクノロジーの態度は「世界をもっと良いものにしてやろう」ということになります。

もしも、先に書いたように、個別ばらばらな存在という私たちの自己認識が錯覚ならば、文化とテクノロジーの種族である人類の上昇という企ての全体もまた、錯覚に基づいていることになります。それが理由で、現在起きつつある自分自身のとらえ直しがもつ意味は非常に大きなもので、その結果として間違いなく起きるのは、少なくとも人間とはどういう存在か、我々は互いにどう関わるのか、世界とどう関わるのかという理解の根本的な再定義です。

テクノロジーは自然からの概念上の分断に基づいているだけでなく、その分断を強化するものでもあります。テクノロジーは私たちを自然から遠ざけ、そのリズムから遮断します。たとえば、ほとんどのアメリカ人の生活は季節の影響をほとんど受けません。私たちの食べる物は一年を通じて変わらず、カリフォルニア州から運ばれてきます。エアコンで夏は涼しく、冬は暖かく保たれます。体力による自然の物理的制約はもう、私たちが移動できる距離や、建築できる高さ、意思疎通できる距離を制限することはありません。テクノロジーが一歩一歩前進するごとに私たちは自然から遠ざけられはしますが、自然の限界から解き放ってもくれます。これが「上昇」というものです。でもどうして、このような改善を全て積み重ねると、いま私たちのいるような世界になってしまうのでしょうか?

私たちが向き合っているのは逆説です。一方では、テクノロジーと文化を基礎とするのは人間と自然の分断で、これが現代に集中する危機の根本にあります。もう一方では、テクノロジーと文化はあからさまに自然を改良しようとします。生活を簡単、安全、快適なものにします。最初の掘り棒が手と爪に比べれば改善だったのを否定できる人はいないでしょうし、自然状態の原始生活に比べれば、私たちを火が暖かく、薬が健康に保ってくれることを否定できる人はいないでしょう。少なくとも、それがこのようなテクノロジーの目指したことです。でも私たちは実際に世界を良くしたのでしょうか? そうでないなら、なぜテクノロジーは目指す目的を達成できなかったのでしょうか? もう一度問います。どうして改善の積み重ねが危機につながるのでしょう?

第1章では、このような問いに答えることを始めます。その手がかりとして、テクノロジーの前提そのもの、さらには「コントロールの計画」というテクノロジーの一般化に内在する、重大で本質的な欠陥を説明します。依存というレンズ越しに検討することで、先に述べた絶望がもっともなもので、私たちの問題解決への取り組み方全体が私たちを無力にし、集中する危機を悪化させるだけなのが見えてきます。底なし沼に捕まった動物のように、激しくもがけばもがくほど私たちは速く沈んでいきます。

第2章では私たちがそもそもどうしてこの泥沼に落ちたのかを説明します。工業や農業といういつもの犯人の下をもっと深くまで掘っていき、私たちを人間にしているあらゆるものの中に分断の起源を特定します。言語、芸術、計測、宗教、テクノロジーから、石器時代のテクノロジーまで。これらは互いの上に築かれ、いま地球を飲み込む疎外と苦境という高波となって合流します。それでも、現在の危機の原因となった分断を先史時代や人類以前の時代までたどることで、私たちは分断を(ジョン・ザーザンの言葉を借りれば)「とてつもなく間違った選択」などではなく、おそらく人類と自然の発達における新たな段階へと導く、私たちに内在する本質的な必然だと見るようになります。

ガリレオ、ニュートン、ベーコン、デカルトの科学革命とともに、分断というイデオロギーが完全な姿を現しました。ここに現れたものを私たちは「科学」と呼びます。第3章では、自己と外界の概念的な区別が、私たちの思考の語彙そのものにどれほど深く組み込まれているかを説明します。近代科学の方法や技法は、私たちが合理的とか客観的、科学的と呼ぶ考え方の全体と合わさって、いくら改善しようとしたところで分断の体制を強化します。親方の道具で親方の家を壊すことはできないのです。この一例が「環境を救おう」とか「天然資源を節約しよう」という訴えで、その言い方が再確認するのは、環境は外部にあるもので、私たちとは根本的に切り離されていて、私たちはそこに条件付きで依存しているに過ぎないということです。この声は古典科学の宇宙論にこだましていて、それは時代遅れとはいえ、今も私たちの直感の基礎を形作っています。私たちは孤立したばらばらの存在で、人格を持たない力と無個性な質量からできた宇宙を客観的に見下ろしているのです。

いっぽう宗教も、私たちが科学と結び付けた世界から魂を抜き取ることに加担しているのが分かります。ますます縮み続けるスピリットという非物質の領域に引き下がるか、あるいは基礎的な科学知見を露骨に否定することで、宗教は物質界を実質的にニュートンとデカルトの科学に譲り渡してしまいました。物質とは別の魂と、世界創造とは別の神を与えられ、私たちはフリッチョフ・カプラのいう「ニュートン的な世界マシーン」の中に無力で孤独な存在として放り出されます。

言語と計測が世界を名付けて数値化し、科学がそれを対象物に変えたなら、次の一歩はそれを商品にすることです。第4章では、あらゆる富(社会的な富、文化的な富、自然の富、魂の富)をお金に換えることの重大な影響を説明します。コミュニティーの解体、友情の弱体化、知的財産の台頭、集中力の持続時間の短縮、音楽と芸術の職業プロ化、環境の破壊といった様々な現象は、私たちの貨幣と所有財産のシステムに共通の起源をもちますが、他者からなる客体的な宇宙にいる個別ばらばらの存在という私たちの自己認識から生じ、またそれを強化します。強欲であることを単にめようとするだけだと決して十分でないのは、利己心が何ともできないほど深いレベルで組み込まれているからです。しかし、この利己心は「人間の本性」ではなく、むしろ人間の本性の否定で、私たちが何者であるかについての誤解によって人間の本性がねじ曲げられているのです。

第1章で紹介した自己と世界についての根本的な誤解の影響は、第5章で目いっぱいまで描かれます。自然と人間の本性に対する私たちの敵対は、テクノロジーがそれらの改良を使命としていることに暗示されるように、「コントロールされた世界」を生み出すほかありません。それが宗教から法律、教育、医療に至るまであらゆる領域に現れ、私たちは世界をコントロールのもとに保つため、ますます高い代償を払い続けます。しかたなく、私たちはコントロールが失敗するたびにもっと多くのコントロールで対応し、やがて来る最後の審判を先延ばしにしますが、結局はさらに悪化させてしまうのです。第4章で説明する社会的な資本、文化的な資本、自然の資本、魂の資本が枯渇し、迫り来る危機を回避するのに私たちのテクノロジーが無力なことが判明すると、コントロールされた世界の崩壊がますます近くに見えてきます。この崩壊こそ、現在に集中する危機が予告することで、それが第7章で説明する「再合一ごういつの時代」の土台作りをするのです。

古典科学は分断という錯覚を事実として提示しますが、前世紀の科学の発展によって「ニュートン的な世界マシーン」は時代遅れになりました。第6章では、客観的、還元主義的、決定論的な世界観の崩壊によって、新たなテクノロジーのあり方だけでなく、神聖さや目的、意味を物質の根本的な特性と見る精神性スピリチュアリティにも扉が開かれる道筋を説明します。私たちの分断の一部はスピリットを物質とは異なるものと見ることにあり、自然の枠外にいる神によって外部から押し付けられたか、あるいは単に想像の産物と見なします。量子力学についてのニューエイジの決まり文句をひたすら避けて、第6章では物理学はもちろん、進化生物学や生態学、数学、遺伝学の最近の成果を引き合いに出します。ここでは物質と魂の再合一はもとより、人と自然、自己と他者、仕事と遊び、その他全ての「分断の時代」の二元論を再合一するための科学的な土台を作ります。

私たちがこの時代に目にしているのは、限界点まで強まっていく分断であり、先に述べたようにこの一点に集中する危機が、新たな時代を生み出そうとしているのです。私はそれを「再合一の時代」と呼びます。第7章では、もはや個別ばらばらの自己という錯覚を基にしない生活がどんなものになるかを描きます。第6章の新たな科学パラダイムを引きながら、自然のコントロールや超越ではなく、私たちがもっと完全な形で自然の営みに参加することを目指す、貨幣や経済、医療、教育、科学、テクノロジーの制度について説明します。しかしそれは、過去へと戻ったり、私たちを人間にしている手と心という賜物を捨て去ったりすることではありません。むしろ「再合一の時代」は人類の新天地であり、より高いレベルの組織化と意識で狩猟採集民の調和と全体性に立ち戻るのです。それは逆戻りではなく、これまでの分断の道のり全体を取り込んで、それを私たちは最悪の大失敗ではなく自分探しの冒険だったと認め始めるでしょう。

私たちの文明に崩壊が迫っているという全般的な兆候の高まりは認めますが、それでも私たちが生みだした計り知れない苦境と破壊は無意味なものではありません。ニューヨーク市のスカイラインをご覧なさい。あるいは集積回路の拡大写真をご覧なさい。それらはみんな無駄なのでしょうか? 私たちの文明の信じられないような複雑さや、猛烈な努力、膨大な科学知識はただ、シェイクスピアの言葉を借りれば「響きと怒りに満ちているが、何の意味もありはしない」のでしょうか? 私の直感はその逆で、第8章では、私たちが分断の極みまで「上昇」するのは宇宙的な目的あってのことだという私の信念を説明します。宗教、神話、宇宙論のたとえを引いて、第8章は分断と再合一の潮目を広大な文脈の中に位置づけますが、そこでは全体性ホールネスと美しさの世界を創り出す私たちのあらゆる努力は、現在どれほど見込みが無いように見えても、無駄で愚かで無意味なものなどではありません。

最も暗い日々でさえ、人々がみな感じ取っているのは、もっと高い可能性、本来あるべき世界の姿、本来生きるべき人生のあり方です。何千年もの間、垣間見える「全体性ホールネスと美しさの世界」の姿に理想家たちは触発され、天国や、水瓶座の時代、エデンの園、あるいは永遠の黄金時代という概念となって私たちの集団精神の中にこだまします。神秘主義者が遠い昔から教えてきたように、このような世界はこれ以上ないほど近いところに、「私たちの中、私たちの間に」ありますが、同時にそれは途方もなく遠いところにあって、現在の自己認識をもとにいくら努力したところで永遠に手の届かないところにあります。そこへ至るには、私たちの現在の自己認識とそれがほのめかす私たちと世界との関係が崩れ落ちる必要があります。そうすると私たちは本当の自己を発見し、ひいては私たちの本当の役割、使命、そして宇宙との関係を発見するでしょう。

本書が暴き出すのは、世界をコントロールし、名付けて数値化し、分類して我が物にし、自然と人間の本性を超越する計画が、無益で欺瞞に満ちていること、そして突き詰めればそれが事実無根であることです。こうして暴き出すことで、その計画は私たちへの支配の手を緩め、地球上に残っている命と美しさの最後の痕跡まで全て食い尽くしてしまう前に、私たちはその計画を手放すかもしれません。広範囲に及ぶ科学について書いた各章が、個別ばらばらの自己でできた機械論的で客観的な世界は現実ではなく、私たち自身の混乱のイメージが投影されたものに過ぎないことを、読者に納得させてくれるでしょう。

『人類の上昇』は単にもう一つの現代社会批評ではなく、私が探る解決方法は、「我々はこれをすべきだ」とか「これをすべきでない」というパターンに沿ったものではありません。いったい「我々」って誰ですか? あなたと私はただ、あなたと私です。これが理由で(「我々」がすべきことについての)政治論議は往々にして失望させられるようなものになります。これが理由で多くの活動家はそういう絶望を、落胆を経験するのです。あなたと私は、お互いにどれだけ意見が一致しているとしても、「我々はもっと持続可能に暮らさなければならない」とか「我々は外交的選択を追求しなければならない」というような、集団行動の「我々」ではないのです。私たちが知っている人生と世界は何か間違っているという私の直感に共感する人が大勢いることは分かりますが、その人々の反応は力のこもった憤りではなく、絶望、無気力、無能の感覚です。一人で何ができるというのでしょう? 実際このような感情もまた全ての危機の裏にある同じ分断の症状なのです。私が個別ばらばらの個人なら、私が何をしたところで大差ありません。でもこの理屈は錯覚に基づいたものです。私たち、あなたと私は、実際には想像できないほど力強い存在なのです。

ばらばらに孤立しているという錯覚が崩れ落ちつつあるので、その代わりに私が示すビジョンは実際的で、自然で、まったく必然的なものです。現代の破壊と暴力は、変えることのできない「人間の条件」の典型などではありません。それらの源は自己と世界についての混乱にあって、その混乱が私たちの科学と宗教の根本原則に組み込まれ、政治と経済から医療と教育に至るまで、現代生活のあらゆる側面に当てはめられます。社会と環境の破壊がこの世界観の必然的な結果なのは、若返りと全体性ホールネスが、これまでもこれからも、別の世界観の結果であるのと同じです。それは原始的な文化と宗教に起源を発していて、20世紀科学が必然的にたどり着く、これまで一般に知られなかった含意なのです。

私たちが現在している自己と外界の区別と、その結果として世界の全てを個別の存在とする解釈は、主流のパラダイムとしては有効期限切れです。私たちが個人として、また自然から切り離された生物種としての個別化は完成の域に達し、じっさい過剰に完成してしまいました。農業とそれ以前から始まり、石器と火のテクノロジーに向けた人類以前の手探りの模索から始まったものが、ギリギリの限界まで達しました。それが私たちをこの分断の極みまで導き、奇跡を作り出す営みを加速しました。この分断が錯覚であり私たちが自然の一部であるのと同じ程度にまで、その錯覚は自然の新たな力を解き放ち地球を作り変えました。でももし手と心という人間の賜物もまた自然であるなら、テクノロジーの世界には欠けていると皆が感じられる「調和と美と真正さ」に何が起きたのでしょう? 魂が結ばれるひとときに可能だと感じるその生き様、人間の条件を、私たちは手に入れることができるのでしょうか? 本書は私たちが到達した分断の極みを詳しく見るとともに、私たちを人間にしている賜物を捨て去るのではなく充足させる、再合一の可能性を探っていきます。


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原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/introduction/

2008 Charles Eisenstein


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