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すごーい、未来だ!

訳者コメント:
科学技術の進歩の先にある未来を信奉する態度に、いったい何が含まれているのかを考察しています。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


第1章:テクノロジーの勝利

1.1 すごーい、未来だ!

これまで少なくとも200年の間、未来学者はテクノロジーのユートピアが間もなく到来すると予測してきました。そこでは、テクノロジーが人類を労働、苦痛、病気、おそらく死からさえも解放するといいます。この見方の根底にあるのは、私たちの文明を特徴づける物語です。それは、科学が私たちを無知の状態から物理的宇宙の理解を進める状態へと導き、テクノロジーが私たちを自然の気まぐれに依存する状態から物質世界の支配を進める状態へと導いたというものです。いつか将来、私たちの理解と支配は完全なものになるのだと、その物語はいいます。

産業革命の黎明期には、間もなく石炭時代が新たな余暇時代の到来を告げるのは当然のように見えました。様々な産業が次から次へと「千人りき」の機械を導入しました。あらゆる仕事が機械化される日は間もなくやって来るでしょう。もし機械に千人の仕事ができるなら、人はみな千分の一の仕事をするだけで良くなるのが当然のように思われました。

産業革命が進むにつれ、すぐ明らかになったのが、多くの人々の仕事は減るどころか増えたことです。確かに、ジェニー紡績機ぼうせきき力織機りきしょっきは自分で糸を紡ぎ布を織る退屈な作業から何百万の女性を解放しましたが、その退屈な作業に取って代わったのは織物工場の恐怖でした。同じように、製鋼所が鍛冶屋の工房に取って代わり、鉄道車両が馬と馬車に取って代わり、蒸気ショベルがツルハシとスコップに取って代わりました。しかし労働時間や労働条件、危険、単調さという点で、産業革命が「省力装置」という言葉に込められた約束を果たすことはありませんでした。余暇の時代になれば、石炭動力の機械が仕事をする一方で、人々はそれを傍観しながらその恩恵を受けるはずでしたが、その到来は思ったより遅れそうでした。

でも未来学者は希望を捨てませんでした。もしかすると、まだその時期に達していないだけだったのかもしれない。石炭では足りないということに気付いていなかったのだろう。電気の時代になって初めて、テクノロジーのユートピアがやって来るのだ。近代人は電化された快適な楽園に暮らすだろう。電気の利用に続く大量の発明品で明らかになったのは、ほとんど全ての種類の仕事を廃絶し(その多くは身体的な労働に関係するものだったが)、かつて無いほどの余暇を大衆にもたらす力が、私たちにはあるということだ。

私たちが自然の制約をテクノロジーで超越していく力と、その必然性と望ましさを疑う人はほとんどいませんでした。そこから出てくるのが1933年の世界博覧会のスローガン、「科学は発明し、産業は応用し、人間は順応する」です。テクノロジーの発展は必然性や運命、勝利というオーラを帯びています。ジョン・フォン・ノイマンが言ったように、「人間がテクノロジーの可能性に逆らうことはできない。もし人間が月に行けるなら、そうするだろう。もし気候をコントロールできるなら、そうするだろう。」[1] 進歩を疑ったり邪魔したりする馬鹿がいるでしょうか?

第二次世界大戦後の数十年、あらゆる兆候が指し示していたのは、テクノロジーの勝利が間近に迫っていることでした。1940年代と1950年代には、抗生物質とワクチンなど医療技術の画期的な革新で、何世紀にもわたって文明を苦しめてきた大量殺人者を(目に見える限りは)退治しました。数々の勝利を得た医学研究者は、あらゆる病を根絶する日が近いと自信たっぷりに予測しました。きっと癌や心臓病、関節炎も近代医学で征服されるだろう。ポリオや天然痘、コレラ、ペストと同じように。農業では、化学肥料が記録的な収穫をもたらし、奇跡に他ならないと称賛されるDDTなど新種の殺虫剤で害虫を防除して、将来には限りない豊穣を約束してくれるように見えました。近代化学で土壌を改良し近代育種で動植物を改良すれば、遠からず農業は全く自然に依存しなくなるのが当然のように見えました[2]。またこの頃に原子力がもたらしたのは、事実上無限のエネルギー、「メーターを付ける必要もないほど安い」電気の可能性でした。石油と石炭が畜力に取って代わったのと同じように、原子力は私たちのエネルギー源を何桁も倍増させるでしょう。そして60年代が終盤にさしかかると、最後のフロンティアである宇宙も人間に征服され、まず地球を周回し、ついには1969年の月着陸で頂点に達しました。

アメリカ原子力委員会委員長だったルイス・ストローズは、1954年にこのビジョンを次のように上手くまとめています。

我々の子供たちの世代は、住む家でメーターを付ける必要もないほど安い電気を享受し、世界を襲っていた周期的・地域的な大飢饉は単なる歴史上の出来事となり、船旅の苦労はなくなり海中や空さえも危険無く驚くような速さで旅をし、人間が病気を征服し老化の原因を理解するようになれば我々よりもはるかに長生きするというのも、あながち高すぎる期待ではないだろう[3]。

その一方、地獄のようなスラム街、児童労働、伝染病の蔓延、一日16時間労働、食料も買えないほどの低賃金など、産業革命の恐怖は遠のいていくように見えました。経済学、心理学、社会学という新分野の科学が花開いて、ハードサイエンスが物理世界にもたらしたのと同じような驚異を、社会の領域にもたらすのは確実でした。機械が最大効率のために設計されるのと同じように、幸福を最大化するよう設計された合理的な社会という目標は、間もなく実現されるはずでした。

ですから、本当にテクノロジーが人類を黄金時代に導き、ついに私たちを自然から解放し、苦痛から解放し、もしかすると死からも解放してくれると私たちが信じたのも、無理からぬことです。私たちの勝利をもう少し押し拡げ、自然の理解とコントロールをもう少し正確にするだけで良かったのです。そして忠実な信者ならこう考えるでしょう。もしかすると、私たちはナノテクノロジーと遺伝子工学のおかげでとうとうその正確さを実現でき、すでに(表面上は)目に見えるレベルで自然をコントロールしているのと同じように、分子レベルでもコントロールできるようになるのだと。あるテクノロジー伝道者はこのようにいいます。「私たちは分子ロボットとナノデバイスの大群を手に入れ、自然を完全に支配できるようになるだろう。いま私たちは自然を巨視的なレベルで支配しているが、その時私たちは微視的なレベルでも支配するだろう。」[4]

理解とコントロールが永遠に高まり続けるというパラダイムには、私たちの文明の根本的な神話が現れていて、私はそれを人類の上昇と呼びます。それが最高潮に達したとき、その理解とコントロールは全体化され、自然の支配が完成します。その神話は、たとえばこのように展開します。始めに私たちは自然の力に全く翻弄されていたが、いつの日か私たちは自然を完全に超越するだろう。私たちは気象をコントロールし、老化や病気や死を克服し、細胞と遺伝子を改良し、体の一部を機械で強化し置き換えて、意識をコンピューターにダウンロードし、ついには宇宙への移住で自然を完全に捨て去るだろう。ここで考えてみて欲しいのは、たとえば次のような未来学者の妄言です。

ナノテクノロジーや、スーパーコンピュータの能力を備え自己複製する極微細ロボット、極限まで高度化された遺伝子工学、さらにはレトロウイルスによる遺伝子注入など、全てを組織的に応用すれば、生物世界がいくら自然的な外観を装っていようとも、その全体からあらゆる悪の源を根絶できる。苦痛を一掃したなら、あとは正しい遺伝子とデザイナードラッグがあれば、人生はどんどん良くなると考えない方がおかしい… [5]。

近い将来、科学者の一団が自己複製可能な初のナノサイズ・ロボットの製造に成功するだろう。あと2〜3年もすれば、50がい個[つまり5兆の10億倍]のナノロボットが製造され、現在の工業プロセスのほぼ全ては時代遅れとなり、現代における労働の概念も同様となるだろう。消費財はますます豊富で安価、スマート、丈夫になるだろう。医療は飛躍的進歩を遂げるだろう。宇宙への旅行と移住は安全で手頃なものになるだろう[6]。

ここに引用したのは未来主義思想の最極端から取ったものですが、その根底にある態度は今も健在です。それはすなわち、(1)私たちの問題に対する答は新たなテクノロジーにあり、(2)進歩とは私たちが自然に及ぼすコントロールを増大させることであり、(3)いつの日か自然に対する私たちのコントロールは完全なものになるか、少なくとも現在より遥かに高いレベルになり、病気の征服や、仕事の低減、寿命の延長、宇宙旅行などが可能になる、というものです。比較的最近の1970年代と80年代に、アルビン・トフラーのような未来学者は、西暦2000年に社会が直面する最大の課題は私たちの余暇時間をどうしたら全て使うことができるかということだと書いていました。いま、将来の退職生活を分析する人が決まって前提にするのは、人々の寿命は延び、医療技術の進歩のおかげで晩年まで健康な生活を送れるということです。私たちが毎日聞く「前進」や「進歩」という言葉は、かつてのような威信を失ったものの、医療や情報、娯楽のテクノロジーで起きる次の革命は何だろうかと、私たちは今でも期待を込めて思うのです。『ワイアード』、『ディスカバー』、『サイエンティフィック・アメリカン』のような雑誌で特に目立つのは、いたる所に現れる「すごーい!」という態度で、これは私たちの根本的な信条に刻み込まれた進歩のイデオロギーです。次に私たちを驚かせてくれるのは何でしょう? ムーアの法則が次に私たちを連れて行くのはどこでしょう?[7] 表面的にはうぶな見方ですが、先に引用した極端な意見は、広く行き渡る文化的神話のエッセンスに過ぎません。それは、私たちが自然を超えて上昇する運命へと向かう道の途上にいるということです。

「人類の上昇」という言葉が宗教的な含みを持つのは驚くに当たりません。苦痛に満ちたこの時代が、どこか未来にある完璧な状態に至る途中の一時的な段階に過ぎないという考えが、宗教以外のどこに見つかるでしょうか? テクノロジーのユートピアという神話は「天国」という宗教的信条に不気味なほど一致していて、テクノロジーは私たちの救世主なのです。「テクノロジー」という神のおかげで、私たちは避けられない死という痕跡を全てぬぐい捨て、辛い苦労もなく死や痛みを超越した領域に足を踏み入れるのです。全能のテクノロジーは私たちがこの世界に残した混乱と傷跡を全て修復し、私たちの社会・医療・環境の病を全て癒し、同様に私たちが「天国」へと昇るとき、この人生で私たちが犯した罪の結果から逃れるのです。

これがつまり、ジェイコブ・ブロノフスキーが古典的著書『人間の進歩』(原題:Ascent of Man)で言っていた人類の上昇(ascent of humanity)で、本書の題名は皮肉を込めてそこから採ったものです。それは迷信と無知という深みから科学的理性という光への上昇であり、自然の力を前にした恐怖と無力さからその力の支配へと上昇することです。神話は私たち自身と世界を理解するための雛形を与える物語であり、私たちの選択と優先順位の指針となる計画でもあります。したがって、私は上昇の神話を二つの側面に区分します。完全な理解という「科学の計画」と、完全なコントロールという「テクノロジーの計画」です。

〈テクノロジーの計画〉
石器と火に始まったテクノロジーは、私たちが自然へのコントロールを強化し続けることを可能にし、気まぐれな自然から隔離し、安全と快適さをもたらした。
過去:物理的環境へのコントロールはほとんどできず、私たちは自然に翻弄されていた。
現在:未解決問題は数多く残るものの、私たちは自然を操作しコントロールする能力という点で長足の進歩を遂げた。私たちは多くの病を征服し、生存の苦難を減らし、山を動かし湖を干拓し、コンピュータを使って私たちの脳の処理能力を増大させた。
未来:いつの日か私たちが自然に及ぼすコントロールは完全のものになる。人間の寿命をいつまでも延長し、痛みや苦しみを根絶し、労働を廃絶し、他の星々へと旅行して地球から完全に脱却する。

〈科学の計画〉
宇宙を体系的に観測し、理論を作って検証することで、私たちは神話と迷信を客観的知識体系で置き換える。
過去:私たちは宇宙の法則をほとんど理解していなかったので、世界を説明しようとして神話と迷信を頼ったが結局は無駄な努力だった。
現在:宇宙について私たちが理解していないことがまだたくさんあるが、宇宙がどのように働くかについて、万有引力の法則、量子力学、進化など、少なくとも基本的な枠組みは発見した。私たちは観測する現象のほとんどを説明でき、そうでない物事にはもっともな理論を提示できる。神話と迷信が入り込む余地はない。
未来:いつの日か私たちは自然を完全に理解する。私たちは相対性理論と量子力学を一つの数式に組み合わせた「万物の理論」を打ち立て、それを応用してあらゆる観測可能な現象を説明する。もはや不思議なことは何もない。人間の脳の働きさえ科学原理によって完全に解明される。

「科学の計画」と「テクノロジーの計画」が合わさって、私たちの文明を特徴づける神話を形作っています。この二つは密接に関係しています。私たちが世界をコントロールする能力であるテクノロジーは、私たちが世界を理解し説明する手段である科学から生じます。同様にテクノロジーは、まだ残る宇宙の謎を科学がいっそう深く探るための手段を提供します。テクノロジーは科学の正当性を証明もします。もし世界の科学的理解が神話や迷信よりましなものでないなら、その科学を基にしたテクノロジーは役に立たないでしょう。

科学哲学者は異議を申し立てるでしょう。宇宙を完全に知り完全にコントロールすることは(数学的不完全性、量子力学的不確定性、初期値に敏感な性質のような事柄のために)おそらく不可能だというのは、 従来の分野でさえ既に定説となっているのだと。仮にそうだとしても、この情報はまだ一般人の意識にまで浸透しておらず、科学者の間でさえ同じです。私が言っているのは、「科学がいつかきっと説明してくれる」という言葉に込められた信念のことです。それは、答が存在する、答が科学の手の届くところにあるという信念であり、科学それ自体にはその基本原理と方法というしっかりとした根拠があるという信念です。この科学における信念の当然の結果としてテクノロジーに現れるのが技術的対策への信頼です。問題が何であれ、解決方法はテクノロジーにある、つまり問題解決の方法を見つけ出すことにある。科学が答を見つけ出し、テクノロジーが方法を見つけ出すのだ。

「テクノロジーの計画」の根底には一種の傲慢さがあります。私たちが自然をコントロールし、管理し、改善できるという傲慢さです。「すごーい」テクノロジーという夢の多くはこれを基にしています。気象をコントロールしよう。死を克服しよう。意識をコンピューターにダウンロードしよう。宇宙に進出しよう。このような目標の全てが、自然をコントロールしたり超越したりすること、大地との関係を絶つこと、身体との関係を絶つことを含んでいます。ナノテクノロジーがあれば新たな分子を設計し、それを一つ一つ原子を繋ぎ合わせて作ることができるようになる。もしかするといつの日か私たちは物理法則そのものさえ設計できるようになるかもしれない。自然に服従していた最初の状態から離れて自然を支配する力を、「テクノロジーの計画」は私たちに与えようとしていますが、それは深い文化的基盤を持つ野心なのです。科学が私たちを「自然の支配者であり所有者」にするというデカルトの願望は、昔からある野心を言い直しただけです。「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」(創世記1章28節)

でもこれとは逆の脈絡が、世界の宗教的伝統の中に同時に流れていて、それは私たちが自然を改良しようとするのは思い上がりだという認識です。ギリシャ神話にはダイダロスという登場人物がいて、普通の人間の限界に反して空を飛ぶ力を手に入れました。自然の限界を超越する力は神だけが持つものであり、彼の息子イカロスが天に到達しようと高く昇りすぎたとき、ダイダロスは越権の罰を受けました。聖書でもバベルの塔の話に同じような警告が見られ、これは有限の手段で無限に到達しようとすることの無益さを表しています。私たちはテクノロジーを使って自然より高く昇ろうとしてきたのではないでしょうか。病や不確実性、死、身体的制約を乗り越えて、不死の園へ昇ろうとしてきたのではないでしょうか?


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注:
[1]カークパトリック・セールによる引用、『Rebels Against the Future(未来に対する反乱)』, p. 59
[2]たとえば、米国農務省などが豪語した信念は、まもなくDDTなど奇跡の化学物質で地球上から全ての昆虫を根絶できるようになるというもので、何ともご立派な目標を掲げていたものです。そうすれば昆虫などの生物に代表される制御されていない変数に煩わされることなく、農業活動を行うことができるというわけです。
[3] ルイス・L・ストローズ、全米サイエンス作家協会での講演、1954年9月16日ニューヨーク市。
[4] ジョアン・ペドロ・デ・マガリャンイス、『ナノテクノロジー』、http://www.jpreason.com/science/nanotech.htm
[5] デイヴィッド・ピアース、『快楽主義の義務』、http://paradise-engineering.com/heav22.htm
[6] ウィリアム・モホーク、『ナノ経済学』、http://www.geocities.com/computerresearchassociated/NanoEconomics.htm
[7] ムーアの法則は、集積回路チップの複雑さは約18ヶ月ごとに倍増するとします。この素朴な解釈は、コンピューターは指数関数的に賢くなっていくということです。


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-1/


2008 Charles Eisenstein


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