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ユートピアの先延ばし

訳者コメント:
テクノロジーが約束するユートピアは決して到来せず、私たちは明日のために今日を犠牲にするのです。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


1.2 ユートピアの先延ばし

1960年代は多くの意味で私たちの文明の頂点でした。そのとき私たちはポリオと天然痘とペストを撲滅していました。きっと癌やその他の病気もやがては屈服するだろう。私たちはナチスを打ち負かしていました。きっと次は「アカ」も退治されるだろう。貧困や人種差別、非識字、犯罪、精神病のような社会の問題は、技術的手段で根絶されるだろう。あらゆる物事が指し示していたのは無限の成長と勝利の連続でした。原子力、ロボット、宇宙、人工知能、もしかすると不死身の身体。でもパトリック・ファーリーの言葉では、未来の歩みはちょっと予定より遅れているのです。[8]

テクノロジーがユートピア行きの乗り物ではないというきざしは、産業革命の初期に現れ始めましたが、あまりに目覚ましい成功を収めていたので、社会と環境の問題は一時的な障害、技術的な課題に過ぎず、私たちが以前の問題を解決したのと同じ方法、物の見方、技法を使って乗り越えられると、簡単に信じてしまいました。つまり、もっと多くのテクノロジー、もっと多くのコントロールです。現在、成功は以前ほど目覚ましいものではなくなり、危機は否定しがたくなり、ユートピアが「すぐそこまで来ている」という約束はますます空虚になりましたが、私たちは今でもまるでコントロールをもっと強めることが答であるかのように振る舞っています。

たとえば、緊急医療を唯一の例外として、40年にわたる医療の「進歩」は人間の健康と死亡率にほとんど影響を与えなかったという事実を、医学界は隠しきれなくなっています。成功といわれるものの全般的な効果について考えてみましょう。臓器移植は大躍進でしたが、その恩恵を受けるのは年間2〜3千人の患者に限られています。新薬のほとんどは症状をコントロールするだけで、しばしばひどい副作用を伴います。更年期のホルモン補充療法は最悪の方法だと判明しつつあります。同じことが、コレステロールを下げる薬、抗鬱剤、多くの鎮痛剤についても言えます。新薬を発表するとき、「多数の患者集団の治療成績で20%の改善」があれば、それは大成功と見なされます。何十年も巨額の投資をしてきたのに、劇的な治療法の時代は終わってしまったように見えます。筋ジストロフィー症や乳がんのような耳目を集める病気のどれにも、「治療法」はありませんでした。19世紀の恐ろしい殺人者を克服して以来、大きな病気は確かにどれひとつ根絶されていません。冠状動脈疾患は、この30年で全くとは言えないまでも、ほとんど減少していません。おかげさまで、癌は健在です。関節炎は相変わらず猛威を振るい、脳卒中はあたりまえで、アルツハイマー病は増加しています。その一方で以前は珍しかった数多くの病気が蔓延するようになり、従来の医療ではせいぜい緩和療法しかできません。糖尿病、自閉症、アレルギー、多発性硬化症、紅斑性狼瘡、肥満、慢性疲労、線維筋痛症、多種化学物質過敏症、炎症性腸症候群、慢性真菌感染症、などなど。以前は希だった病気が蔓延しただけでなく、エイズのように全く新しい病気が、降って湧いたように現れました。ついには傷口に塩を塗るように、結核など「征服した」過去の病気のいくつかが再び流行するようになり、たいていその原因は抗生物質耐性なのです。この状況は医学における口に出せない巨大な危機を成しています。前代未聞の数十億ドルという資金を医薬研究に投じたにもかかわらず、「病との戦い」で医学の形勢は不利になりつつあるようです。これへの典型的な対応は、もっと多くのテクノロジーを使い、遺伝子や分子のレベルまでもっと正確にコントロールすることです。「治療法」を探し続けるのです。

平均余命も同じく予測に沿うことができていません。これまで半世紀にわたり、未来学者は平均余命が劇的に伸びると予測してきました。120歳が一般化しない理由はないし、もしかすると遺伝子療法を使えば無限に延ばせるかもしれない。しかし統計を一目見れば、最も劇的な平均余命の延伸が起きたのは全て20世紀の前半で、1970年以降ではなかったのが分かります。1900年から1950年の間に、誕生時の平均余命は21年という目覚ましい延伸を達成しましたが、それ以降での伸びはわずか9年です[9]。さらに、この改善の大部分は乳幼児死亡率の低下と緊急救命医療によるとみて間違いなく、それは65歳での平均余命を見れば過去半世紀でわずか4年の延びしかなかったことから明らかです[10]。

平均余命の延びは限界利益の逓減ていげんという見覚えのある同じパターンを示していて、これは農業での肥料の使用にも見られるものです。テクノロジー(肥料)を初めて使うときは劇的な効果がありますが、その後に繰り返し使うと利益はどんどん減っていき、最後には収穫をほんの少し増加させるため、あるいは収穫が減るのを防ぐために、大量投入することが必要になります。医療費の急増が示すように、現在私たちは膨大な技術努力を医療に注ぎ込んでいますが、その結果得られるのは、20世紀の初期には比較的に控えめな出費で劇的な改善だったのに比べると、ほんのわずかなものです。医療テクノロジーの基本的な方向が変化しなければ、平均余命は停滞し、10年以内にはおそらく低下を始めると予想されます。[11]

テクノロジーもまた、余暇の時代をもたらすという約束を果たすことができていません。米国では、余暇時間は20世紀を通じて増加するように見えましたが、1973年頃から減り始め、それ以来ずっと減少を続けています。それ以後30年にわたり余暇時間が減少したことは、多くの研究者が認めるところです。私たちが労働に費やす時間は増え、通勤に費やす時間は増え、雑用をする時間は増え、生きていくための義務を果たす時間は増えました[12]。肉体労働に代わって機械がしてくれた(はずの)ことと同じように、精神労働をしてくれる最後の重要技術だと宣伝されたコンピューターは、その逆をもたらしました。机に向かいキーボードを叩いてオフィスで働く時間は増えました。コンピューターが事務仕事の苦役を廃絶しなかったことは今や明らかで、蒸気機関が肉体労働の苦行を廃絶した以上のものではなかったということです。「情報革命」とは裏腹に、過去30年間で事務仕事がより知的刺激や意味のあるものになったなどと主張する人はほとんどいないでしょう。この解決方法は? またもやそれは、もっと多くのテクノロジー、もっと多くの省力機器、もっと高い生産性、より良い「時間管理」です。

テクノロジーは豊かな世界を実現することもありませんでした。食料供給は確かに増加し、倍増した世界人口を養うのに十分だった一方、飢餓と飢饉の発生が減らないのは、昔から変わらない政治と環境の理由があるためです。それは戦争と弾圧と干ばつです。さらに、かつては農業生産性の高かった広大な土地が砂漠となったので、私たちは豊穣どころか食糧危機の可能性に直面します。(執筆時点で、世界の穀物備蓄量は減少しつつあり[13]、大漁場ぎょじょうの多くはほぼ枯渇しています。)第三世界で最近40年に起きた「開発」が約束どおりの繁栄をもたらすことはありませんでした。その反対に、貧富の格差は世界的にも第三世界の国内でも拡大しました。「第三世界」を旅してみれば、私たち自身の「産業革命」時代にあった貧困と病と混乱が、そこでは今も普通のこととしてあるのを、自分の目で簡単に確かめることができます。それを正当化する理由は、またしても同じです。それは我々のような「先進国」になるまでの一時的な段階に過ぎないのだ。我々がそこを通り抜けなければならなかったのと同じように、あなた達も通る、それが当たり前なのだ。そうすると、処方箋はまたもや同じで、農業のさらなる「進歩」と精力的な経済開発です。いま、世界中の人々がこのドグマを疑い始めているのは、第三世界の生活水準の低下があまりにも長い間弱まることなく続いてきたからです。そんなことが起きるはずではなかったのです。多くのラテンアメリカ諸国で、中流階級はほぼ完全に消滅しました。

宇宙では、1960年代と1970年代の勝利が、2000年までに実現されると自信たっぷりに予測されていたスペースコロニーや火星着陸、恒星間宇宙旅行に繋がることはありませんでした。およそ70年前に開発されたロケット以後、推進技術の大きな進歩は全くといっていいほどありませんでした。私が大きくなった1970年代の初めには、宇宙への熱狂が私と同世代の子供たち全員の心をつかんでいました。私たちが持っていたのは、宇宙ボードゲーム、宇宙ランチボックス、さらにはロケット型のシャンプーボトルまであったのを思い出します。私たちは月に着陸し、再び着陸しました。そしてもう一度。しかし1970年代以降、私たちが月へ戻ることはなく、いまではそのような計画に対する熱意もほとんどありません。そこへ行って、それをやって…、それでどうなったの? 本書の執筆時点で、ブッシュ大統領が恒久的な月面基地と有人火星探査計画を実現するための新たな活動を提案しましたが、私の子供時代にアメリカを魅了した興奮は影ほどもありません。

余暇と豊穣の時代、テクノトピアの時代は、永遠に「もう少し先」にあります。最初は石炭時代で、私たちを労働から解放するはずでした。19世紀の黄金時代の夜明けには、石炭を焚く蒸気動力の機械があらゆる仕事をすると思われました。その代わりに私たちが手にしたのは、労働搾取工場、炭鉱、鋳物いもの工場、(ただの比喩ではなく)悪魔のような製鋼所と地獄のような鍛造所、週80時間の労働、児童労働、労働災害、飢餓すれすれの賃金、途方もない富と対照をなす悲惨なスラム街、炭鉱で過ごす子供時代、背筋が寒くなるような汚染、荒廃したコミュニティーと破滅した人生。でも心配ご無用! 黄金時代はもうすぐそこまで来ています。ほら、電気だ! 化学製品だ! 自動車だ! 原子力だ! ロケットだ! コンピューターだ! 遺伝子工学だ! ナノテクノロジーだ! 残念ながら、このどれも期待に沿うことはありませんでした。

そして今私たちのいる21世紀は、もう余暇時代、情報時代、知識経済になっているはずでした。この最後の言い方には上昇神話の重要な先入観が露わになっています。それがほのめかすのは、物質的な実体にまみれた工業時代から、知識という分離された人間だけの領域へと進んでいくことです。物質的生産という卑しい関心事は低開発国に委ね、我々の社会はそれを超えて上に昇り、心の産物を扱うようになるのだ。ロボット工学が完成した暁には、あらゆる社会が我々の後に続くだろう。

物質的な実体を超えて上に昇るという野心は現代の宗教を規定し、それと同じくらいに現代の経済とテクノロジーをも規定します。これは決して偶然ではありません。この全てが発する共通の根源は、私が本書を通じて議論するものです。全ては人類の上昇というテーマのバリエーションなのです。「物質的実体」とは、結局のところ自然を表す軽蔑語に過ぎず、私たちは人類の上昇を自然の漸進的な超越と同一視するのです。かつては自然の奴隷で、今はその支配者です。ですからもちろん、卑しい物質生産の場にいるよりも心の領域にいる方が、より高く、より良く、より偉いのです。

これが理由で、「経営者」や「コンサルタント」のような職業は「生産技術者」や「配管工」にはない名声を帯びています。過去20年以上にわたって、若者たちは実際の対象分野が何なのかを気にすることもなく、このような役割を熱望してきました。ビジネス、マーケティング、金融を専攻し、どこでもいいから「経営者」になるのを望みました。その一因はこのような職業に与えられる富と地位ですが、もっと深い原理も作用しています。それは、魂と物質、心と体、人間と自然の分断で、文明と同じぐらい古くからあります。最初に社会的な分業が始まった時から、名声は手が泥で汚れていない者のところへ行きました。泥とは、始めは農耕の土でしたが、やがて物質世界全体を意味するようになりました。ですから古代の王の足が土に触れることは許されませんでした。現代の知識労働者はその傾向の完成形であり民主化された姿のはずでした。誰もが王なのです。

「知識経済」という言葉に込められた野心の破綻は今や明らかになりつつあります。事務仕事は工場の組立ラインや単一栽培の野菜農場に劣らず退屈なもので、私が第2章で述べるのと同じ系統的な理由から発しています。現在の知識経済のほとんどはデータ入力です。さらに、技術やプログラミングのような「知識集約型」職種がインドや中国など新興工業国に移転される最近の傾向が示すのは、心の領域と物質の領域が私たちの期待するほどには分離されていないことです。

現在の犠牲を正当化するための、ユートピアがもうすぐそこまで来ているという約束は、テクノロジーの計画のあらゆる応用を結ぶ共通の特徴です。私たちはそれを石炭時代に目にしましたし、現在のコンピューター革命でも見えています。私たちはまずあらゆるデータを入力するという壮大な計画に取り組む必要があり、そうすればコンピューターがあらゆる事をもっと効率的に実行してくれるようになります。また、第三世界でIMF(国際通貨基金)が行う財政緊縮計画に見ることもでき、それは明日の繁栄をもたらすため今日を犠牲にすることを求めます。IMFの政策は、既に富を持つ国の利益になるグローバル化の道具だとしてしばしば批判されますが、それが制度的に必要なのにはもっと根深い原因があります。犠牲は有利子の通貨に基づくあらゆる資本主義体制に組み込まれた特徴です。お金を生むお金をかき集めるため今を犠牲にするのです。さらに根本的には、それは農耕を特徴づける物の見方です。農耕では、明日の収穫のために今日は種を蒔く必要があります。同じ精神構造メンタリティーが宗教に作用し、仮想的未来の「天国」のために世俗的な快楽を犠牲にすることを私たちに求めます。この全てにある問題は、第三世界であれ果てしないデータ入力作業であれ、 犠牲は永遠に続くらしいということです。天国はけっして到来しません。産業革命の奥深くから、ウィリアム・ワーズワースは至言を残しました。

この大きな変化の暗黒面を見る時に、
私は貴方とともに悲しみ、そこに…
その侵害された権利の仕返しをしようとして、
義憤を起こさせるような非道が、自然に加えられるのを
見ます。…
そこでかつてはそんな穏やかな憂いに満ちた
静かな飾り気のない、落ち着いた地域であった
多くの場所で、決して休むことのない労働者たちの、
目のために用意された人工的な光が、
多くの窓を持つ巨大な建物から発せられます。
そして定まった時刻に、…鐘の音が聞こえます。
絶えざる労働への地方の召集がかかり、…
男たち、乙女たち、若者たち、
母親、幼ない少年少女たちが、
この神殿に入り、めいめいいつもの仕事を
始めます。この神殿ではこの王国の最上の偶像である
利得に対し、絶えざる生け贄が献げられます。[14]

絶えざる生け贄。それは私たちの生活のほぼ全ての側面に侵入しているイデオロギーです。何を生け贄にしているのでしょうか? その共通の特徴は何でしょうか? 最も根本的なのは、未来のために現在を犠牲にすることです。今日節約すれば明日のために十分蓄えられる。遊びより仕事が先だ。痛み無くして得るもの無し。自分を抑えるのだ。食事であろうと、教育や自己啓発であろうと、私たちは同じ悲しい処方箋をそこに見つけます。なぜこんなにも多くの人々にとって、体の健康や、経済的自立や、依存症からの脱出という天国が、テクノロジーのユートピアと同じぐらい遠くの、永遠に手の届かないところにあり続けるのでしょうか? あなたの新年の抱負はどれほど長続きしますか? そうですね、もっと頑張ってください。地平線まで歩いて行こうとしたけれどたどり着けなかった男が、本当は走る必要があったのだと結論するように。本書が明らかにするのは、天まで届く塔を築く企ての中で耐え忍んできた絶えざる犠牲という体制の、起源と進化です。

人を陽気にさせるテクノロジーの「すごーい!」側面が、私たちみんなの1960年代に期待していた未来主義的な「驚異の展望」を実現できなかったので、テクノロジーの暗黒面がますます無視できなくなりました。確かに、テクノロジーが無条件に善だとはいえないという証拠は何世紀も前からありましたが、20世紀までは進歩のイデオロギーが、独立独歩の思想家を除けば全てに対して優位に立ってきました。産業革命の身の毛もよだつような状況は、ユートピアに至る途中の一時的な犠牲に過ぎないと説明できるかもしれません。幾人かのロマンチストだけがこのイデオロギーに抵抗するビジョンを持っていました。ウィリアム・ブレイク、ワーズワース、バイロン卿、ヘンリー・デイヴィッド・ソロー、メアリー・シェリーのような人々は、大衆工業社会の中にあった破壊が、一時的な段階や技術的課題ではなく、根本的な特性だと見ました。

この全てが変わり始めた1914年、世界はついに工業化の結果が戦争に応用されるのを目の当たりにしました。戦場での工業的規模での大虐殺で、若い男たちが一世代丸ごと全滅し、30年後には一般市民全体を全面戦争の炎に巻き込むまでに拡大し、その終わりには20世紀科学最大の勝利、原子爆弾が初めて使われました。時を同じくして、それと同じ分析とコントロールの科学的な道具と、理性、論理、効率を基にした産業革命の組織原理が、ヒトラーやスターリンとその模倣者たちの下で、罪無き人々の意図的な大量虐殺に応用されました。

皮肉にもそれはまさに、人類をもっと高貴な地位へと高めてくれるはずだった、論理と理性と効率という原理だったのです。世界大戦に使われた物理学や化学工学のテクノロジーが、人類の物質的な快適さや、健康、安全を新たな高みに引き揚げるはずだったのと全く同じです。この皮肉が芸術家や文筆家など文化に鋭敏な人々に通じないはずはなく、その結果生じた裏切りと絶望の感覚に、それ以来ずっと取り組んできたのです。

プラトン以降、ユートピア主義の哲学者は、物質的テクノロジーが物質領域に進歩をもたらしたように、理性と計画と方法があれば、同じ進歩を社会の領域にもたらすと考えました。テクノロジーが物理的な自然の荒野を征服したように、社会的計画が人間の本性ほんしょうという荒野を征服するはずでした。この両方とも、上手く行かないのは単に私たちが同じことをもっと多く必要としている証拠だと見ます。ナノテクノロジーの野心は、物理的なコントロールを今度は顕微鏡レベルの精密さへと拡張することを狙いますが、教育と法律という社会的テクノロジーに似ていて、こちらは人間の行動をこれまで以上に精密に規制するべく邁進まいしんします。

物質的テクノロジーと社会政治的なコントロール手法の双方には、同じ概念的な基礎があるのが分かります。この基礎をもとに、人間と自然という二つの領域で同じような大量殺戮さつりくが襲ったのは、単なる偶然でしょうか? 明らかなのは、テクノロジーは中立で善に使うか悪に使うかは私たち次第だという共通の立場には、欠陥があることです。民族虐殺と政治的虐殺、民族浄化と絶滅戦争、地球の略奪と土着文化の破壊、これら全ての原因はテクノロジーの使い方を誤ったのであって、テクノロジーそのもののせいではないとされます。でももしかすると、この立場は間違っているかもしれません。もしかするとテクノロジーという物の見方そのものにある何か基本的なものが、社会と環境の領域で双子の危機を作り出したのかもしれません。

所によってはテクノロジーへの信奉が続いています。オゾン層破壊? 新たなオゾンを作ればいい。土壌流失? 土壌なしで食料を生産する方法を見つければいいし、もしかすると食料を合成すれば良いのかも。環境の全面崩壊? だいじょうぶ、他の恒星系へ移住すればいい。自然なんて無くても平気だよ。私たちをここまで導いた「やれば出来る」という精神で、将来の障害もきっと乗り越えられる。人間の知恵は無限だ。もし事態が好転せず悪化しているようなら、もし人々が病気で、忙しく、不安になっているようなら、もし人生のストレスが増え環境の健全性が悪化しているようでも、ご安心なさい! これは一時的な犠牲で、大きく飛躍するには一歩後退することが必要なのだ。

けれど現在、進歩という言葉は擦り切れつつあります。まるで、未来はいつもすぐそこにあるけれど決して到来しそうもないように見えるのです。20世紀の中盤以降、裏切りと絶望の感覚は芸術家や知識人を超えて広がり、全人口を飲み込んでしまいました。表面的には、多くの人々はテクノロジーの前進でいつか現在の問題が時代遅れのものとなると今も認めていますが、もっと深いレベルでは科学とテクノロジーの両方とも信用できなくなっています。長らく約束されてきた驚異、つまり私たちが自然を超越する次の一歩は、実現することがありませんでしたが、一方で予期せぬ新たな問題が、解決するより速く増殖します。失われたのは60年代の楽観主義で、それが貧困に対する戦争、癌に対する戦争、宇宙の征服の火付け役となりました。いま私たちが望むのは、私たちを圧倒しつつある問題、つまり環境、健康、教育、経済、政治の分野で発生した危機の集結に、歯止めをかけることだけです。


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注:
[8]ファーリー, パトリック. 『私がなり損ねた男』. www.e-sheep.com/almostguy
[9] アメリカ疾病管理予防センター, 国立衛生統計センター『国家人口動態統計システム』. http://www.cdc.gov/nchs/fastats/lifexpec.htm
[10] 同上
[11] それは私個人の推定ですが、既に主流研究者の中にも、新たな世代はこの200 年で初めて自分の親より平均余命が短くなるとと主張する人がいます。ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディスンの2005年3月17日号で公表された論文で、肥満の流行は次の数十年で寿命を最大5年短縮する可能性があると、科学者の一団が主張しています。他の権威は「近代医学の進歩」がこのような損失を打ち消すことを引用して異議を唱えます。
[12] ジュリエット・ショア. 『過労のアメリカ人:余暇の予期せぬ減少』. ベーシック・ブックス, 1993年.
[13] 『過去最高の生産高にもかかわらず穀物備蓄量が減り続ける』, 米国農務省『海外農業サービス・サーキュラー・シリーズ』, 2004年5月.
[14]『逍遙』第八巻、150行以降より。カークパトリック・セールが同じ一節を『未来への反乱』の中で引用しており、それで私の知るところとなりました。[訳は田中宏訳(成美堂1989年)を参考にした。]


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-1-02/


2008 Charles Eisenstein



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