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コントロールへの依存

訳者コメント:
テクノロジーは依存症を起こす薬物のようなもの。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


1.3 コントロールへの依存

かつてテクノロジーが余暇と安全安心のある素晴らしい未来を約束した一方、現在私たちは世界がバラバラになるのをただ防ぐためテクノロジーの使用をますます増やす必要に迫られています。限界収益の逓減ていげんというパターンが物質的にも社会的にもテクノロジーのあらゆる領域に浸透したように見えます。20世紀の初頭には医学研究への比較的控えめな出費で劇的に寿命が延びましたが、現在は膨大な支出でも辛うじて現状維持するのがやっとです。農業では、かつては少量の化学肥料と農薬が作物の収量を大幅に増加させましたが、現在ではますます多くの化学物質を投入し「改良」品種を使ってさえ、収穫の減少を何とか防ぐことしかできません。日常生活では、携帯電話や携帯情報端末、インスタント食品、インターネットのような発明品を使っても、ますます速くなる現代生活のペースに付いていくのがやっとです。

最近私はワシントンDCに生まれてこのかた住んでいる人と話しました。彼は1960年代に環状道路「ベルトウェイ」が建設されたときのことを思い出していました。市街地全体をたった1時間で迂回できるようになるので皆が興奮していました。ワシントンDCでは交通渋滞が発生するようになってきて、ベルトウェイは便利で快適な新時代をもたらすはずでした。そうですね、何が起きたかは誰でも知っています。新しい道路は新たな宅地開発を促し、人々が公共交通ではなく車を使うよう仕向けました。ベルトウェイはすぐに渋滞しました。その解決策は? 道路を広くし、もっと他の道路も作ろう。もちろんその結果は宅地開発と混雑のさらなる激化です。即座の技術的解決、つまり道路に対し過剰となった車両数を収容するために道路をもっと作ることが、長期的には問題を悪化させます。それは技術的対策(テクノロジカル・フィックス)の典型例です。テクノロジーは意図せぬ結果をもたらすのが普通で、この場合のように、そのテクノロジーが解決するはずだった問題をさらに悪化させることも多いのです。一般的に意図せぬ結果は、設計ミスや計画の手抜かり、努力不足のせいではなく、コントロールを強化しても根絶できず、むしろコントロールしようという企てそのものに組み込まれているのです。

ここで、使用量をどんどん増加させても効果は減っていくというこのパターンから、「フィックス」という言葉の別の意味を思い出すかもしれません。「ドラッグ・フィックス(薬物中毒)」です。テクノロジーへの依存には薬物依存と共通する多くの特徴があります。農業の例に戻ると、天敵を殺し、表土を無くし、ミネラルなどを枯渇させてしまうと、ますます多くのテクノロジーを繰り返し使うことなく作物を育てることなど全く不可能です。ひとつひとつの対策で一時的な改善がいくらかは得られますが、まもなく収量は落ち始め、別の対策が必要になります。この時点で私たちは中毒になっています。肥料ゼロに戻せば、収量は肥料を与える前のレベルを大きく下回ってしまいます。いずれは土があまりにひどく傷付いて、どんなに肥料をやっても生命を宿すことなどできなくなってしまいます。これは依存症の成り行きと不気味なほどよく似ています。使用量が急増するにつれ高揚感はどんどん減っていき、最後には廃人になります。

先に説明した平均余命の変遷はもう一つの例です。テクノロジーの「使用量」は増え続ける他なく、生活全体にかかる負担はますます大きくなり、その結果として得られる利益は減っていきます。依存症患者が言うように、いずれはただ普通と感じるためにも大量の薬物が必要になります。同じように、人々をただ生活できる状態にするだけでも巨額の医療費が必要です。アメリカの成人の半数は何らかの処方薬を服用していて[15]、平均的な高齢者は毎日2種類から7種類を服用しています[16]。

テリー・ギリアムの陰鬱なSF映画『未来世紀ブラジル』の冒頭で、主人公の母は顔のシミを消すために軽い美容整形を受けたところです。彼女の顔には小さな包帯があります。その次に彼女が登場するとき、大きな包帯が2〜3段巻かれていたのは、最初の手術の合併症があったからです。その次は、包帯が彼女の顔をほぼ全て覆っていますが、それは合併症対策のはずだった2回目の手術の合併症を対策するため新たな手術が必要になったからです。最後には彼女の頭は包帯でぐるぐる巻きになってしまいます。手術のたびに、「もうほとんど完璧よ」とか「もうあと1〜2回手術するだけと先生がおっしゃるのよ」と彼女はいいます。一連の段階的な改善で、最終的には全てが台無しになります。

なぜ技術的対策はそんなに魅力的なのでしょう? それは短期的な視点なら本当に効き目があるからです。最初の掘り棒で根っこを手に入れるのは本当に簡単になりました。一杯のコーヒーで私たちは本当に活気に満ちたと感じます。質の良い強い酒を一杯飲めば本当に痛みは去って行きます。エアコンは暑い日にも涼しく感じさせてくれます。車で私たちは速くそこへ行けます。肥料で収穫は増えます。建設が一段進むごとに、塔は高くなります。ほら、効果があるでしょう! 私たちは空へと近付いているのです。

最初に見えていないのは、その対策が罠だという事実です。結局のところ、コーヒーは副腎を疲弊させ、私たちの疲れは減るどころか増えてしまいます。エアコンで快適範囲の狭さが習慣になり、私たちを屋内に閉じ込めます。車が必然的にもたらすのはもっと多くの道路、もっと多くの車、もっと多くの移動時間であって、これらが減ることはありません。食糧生産のテクノロジーは人口増加を引き起こし、やがて食糧の安全は脅かされ不安が増します。

最終的には、対策がもっていた即座の効果さえ落ちていきます。かつてそれが緩和した問題は圧倒的な大きさに成長します。いま新しいテクノロジーは、加速する現代生活や、新たな脅威の蔓延、新たな病気、新たな不確実性についていくのがやっとです。いずれアルコール依存者はあまりにも具合が悪くなり、1杯飲むごとにそれが取り除くより多くの苦痛をもたらすようになります。

技術的対策の特徴である限界収益の逓減という原則は、考古学者ジョセフ・タインターが古典的著書『複雑社会の崩壊』で探りました[17]。社会が複雑さに投資すると、その利益はどんどん少なくなり、ついにはその維持だけであらゆる資源を消費するようになるとタインターはいいます。官僚制度や、司法制度、テクノロジーのシステム、複雑な分業は、社会の直近の問題を解決し劇的な初期利益をもたらしますが、そこには隠れたコストが付いてきます。このようなコストを未来へ先送りすることもありますが、それはつまり成長と征服によってコストの実体化を遅らせるのです。でもいずれは、古代シュメールからローマ、そして現在のアメリカ帝国まで何度も繰り返してきたパターンをなぞって、社会は自分の築いた構造物の重みで崩壊します。まず負担が大きくなり、やがて次から次へと降りかかる危機を避けるのがやっとになります。資源をめぐって戦争が起き、指導者層は汚職にまみれ、環境は荒廃し、ついには若い文明なら簡単に乗り越えられるような危機の一つか二つが、とどめを刺します。社会は複雑さが大幅に下がった状態へと「崩壊」します。

バベルの塔の物語の中にこの過程を言い表す寓喩ぐうゆがあるのを私は見ます。どんどん複雑化する計画を管理するために必要な組織上のコストは、誤解が増え、広範囲の専門家の間で意思疎通ができなくなり、下部組織の間で調整を取れなくなるという形で現れます。この聖書の物語では、建築家たち自身がめいめい違う言葉を話し、意思疎通できず、共通の仕事のために一致団結できないことに気づきます。この状態が薄気味悪いほどに予見するのは、専門的な業界用語が科学や職業の様々な分野を切り離し、有意義な進歩を妨げてしまうことです。物語の中で、けっきょく塔は放棄されます。私の心の目に映るのは、塔を放棄する前に、最終的な崩壊の前ぶれとなってそこら中に広がるひび割れや陥没を、懸命に補強し修理しようとする姿です。最初の急な進歩が鈍ってついに止まると、天に達する野心は単なるドグマとなり、誰も信じないイデオロギーとなります。これと同じなのが、第1節で私が説明したテクノロジーのユートピアに対する私たちの態度です。もうそれを信じている人は誰もいません。確かに、塔を今の高さに保つだけでも私たちの努力を全て吸い取っています。あちこちに何か付け足したところで、他の部分が崩れ落ち、広がる無気力は塔の土台を掘り崩します。

これは依存症者の人生と気持ち悪いほど似通っています。始めのうちは簡単に暮らしを保てますが、依存症のせいで暮らしを支えるにはどんどん複雑化する仕組みが必要になっていきます。依存症者は短期的な利益のために長期的なものを犠牲にし、嘘を網の目のように繰り広げますが、いずれは上手く行かなくなり、ますます多くの資源を依存の維持に注ぎ込みます。今日はハイになろう、その結果は明日なんとかしよう。でもその結果は雪だるま式に膨らみ、人生の負担は大きくなり、やがて脆い仕組みの全体が崩壊します。崩壊を起こす直接の原因が人それぞれなのと同じように、文明崩壊もその直接の原因の奥にあるものに目を向ける必要があります。一つのレベルでは、そう、エネルギー危機や不景気、敗戦、環境危機、またはこれらの組み合わせ、あるいは全く違うものが文明の終わりを告げるでしょう。直接の原因は予測不可能ですが、結果から逃れることはできません。

〈テクノロジーの計画〉に欠陥が内蔵されているという兆候は何千年にもわたって文明を悩ませてきた一方、それが否定も回避もできなくなってきたのは現代をおいて他にありません。過去には、たとえば生態系破壊の影響は局地的でした。金持ちや幸運な人たちはいつもどこか他所よそへ引っ越すことができました(これ自体がある種の一時的対策でもあります)。いま生態系崩壊が地球全体に及ぶと、「他所」はもう存在しません。他に行く所は無いのです。人々が外界との関わりを断って精神的に自分の砦に立てこもったとしても、私たちを取り巻く社会と環境の全体的な問題はその中へと押し入ってきます。

どんな依存症でも、最初その依存は素晴らしく効果があるように見えます。人生の召使いであり、痛みを和らげ、その代償は何とかなる程度です。最初、その犠牲には見合う価値があり、その辺に放っておいて後で始末すれば良いように見えます。でも遅かれ早かれその代償は生活全体を飲み込むほどに大きくなり、逆に痛みを麻痺させる効力は減少していきます。

技術的対策は問題を未来へ先送りしますが、これは飲み騒ぎで人生の問題を明日へと先送りするようなものです。それはもうできません。その未来は今で、もう長くは延ばせません。〈テクノロジーの計画〉のいう「未来」では全ての問題が完全に解決されますが、今ここで私たちが目覚めつつあるのは別の未来で、二日酔いでムカムカします。床に吐き、アパートは散らかり、世界は目茶苦茶です。

どんな人でも依存症になると、家族の絆や、友情、仕事など世界と関わる全ての人間関係を引き裂くのが避けられないように、テクノロジーへの依存は私たちの自然環境と社会環境をじわじわと破壊してきました。また他の依存と同じように、テクノロジーの輝かしい約束が色あせ始める前は、このような破壊は簡単に見過ごされてしまいます。19世紀のゾッとするような汚染は現在の汚染より(局地的ではあっても)実際に人間の生活の質をひどく破壊するものでしたが、それは一時的な問題、進歩の代償として簡単に片付けられ、もっとテクノロジーを使えば必ず解決できるとされました。現在多くの人々にとって、汚染の影響はより遠くにあり、より分かりにくく、単一の具体的な原因のせいにするのは確かに難しいものですが、一方でよりシステム全体にわたる脅威、地球全体に対する脅威でもあります。オゾン層破壊から地球温暖化やあらゆる細胞に浸透したPCBに至るまで[18]、現代の破壊は隅々まで行き渡り、避けることができません。

現在の危機のもつ不可避性は、分断の道のりの下にある根本的な錯覚を解体しつつあります。私たち自身が環境から根本的に切り離された個別ばらばらの存在だと信じるかぎり、原理の上では社会環境と自然環境の悪化から自分たちを隔離する能力に限界はありません。世界は〈他者〉であり、そこから自分を隔離する技術が十分ありさえすれば、他者が苦しんだところで自分とは関係ない。現在、その残骸が急増し、影響を抑え込むのはますます難しくなります。この習慣的な対応は、もっと頑張ることです。新しいテクノロジーを発明して昔の問題を片付けるのだ。目茶苦茶な世界からもっと上手に自分たちを隔離するのだ。でもこれが不可能になり、急増する危機が私たちを圧倒すると、別の可能性が現れます。隔離とコントロールという計画と、それが依って立つ別々の自己という概念を、放棄するのです。

アルコホーリクス・アノニマスの「12のステップ」に書かれている依存症からの回復過程から、興味深い類似点が見えてきます。最初の3段階を要約すれば次のようなものになります。「依存症に対して私たちは無力だったこと、私たちの人生が手に負えなくなっていたことに、私たちは気付きました。したがって、私たちの人生と意思を大いなる力に差し出す決意をしました。」テクノロジーについての文脈では、最初の文は〈テクノロジーの計画〉の失敗を認めるという意味になります。自然を管理しコントロールしようとすればするほど、問題は手に負えずコントロール不能になっていくという認識です。二番目の文は私たちを超えた存在に対する明け渡しと信頼の表明です。この文脈で12ステップ宣誓の宗教的な内容は、私たちの物理学と生物学、経済と政治、哲学と宗教に内在する限定的で妄想的な自己概念を超越することと読み取れます。

私たちの世界との関わり方は、私たちの最も基本的な神話ミトス、宇宙論、存在論に書き込まれています。それらは科学と宗教という上部構造を下支えする信念体系です。それは私たちが何者かということについての、また私たちの知る人間の命と私たちが体験する世界を生み出した宇宙の本質についての、根本的な信念です。もしこのような信念が変わらなければ、それらが私たちを導く方向も変わりません。そのとき私たちが絶望するのはもっともです。私たちの知るテクノロジーと、それに付随するコントロールの計画が、人類の上昇という約束を果たすことはありません。でもここに大きな希望があるともいえるのは、絶望から明け渡しが生まれ、明け渡しから新たな信念への開眼が、自己と世界の新たな概念への開眼が生まれるからです。ここから生まれるのは世界への新たな関わり方かもしれません。それはつまり、新たなテクノロジーのあり方で、自然を物扱いしてコントロールし最終的な自然の超越に尽くすことは、もうありません。

私たちがいま直面する崩壊は「私たちが今いる文明」にとどまらず、文明そのもの、私たちが文明と思うもの全体に及びます。それは世界との関わり方全体の崩壊であり、人間存在のあり方全体、自己の定義全体の崩壊です。なぜなら、テクノロジー依存の根本には私たち自身の宇宙からの分断があり、個別ばらばらの存在という自己認識があって、それが私たちをコントロールへと追い立てるからです。歴史上の数々の文明の崩壊は、いま私たちを襲いつつある原型的な崩壊が過去へと投影された予告編だったのです。

何が私たちのテクノロジー依存を突き動かしているのでしょう? あらゆる依存の根底には本物の欠乏があり、依存はそれを満たすと約束します。薬物依存者は「痛みを消すのだ」と言います。でももちろん、その約束は嘘で、本当の欠乏を満たすことはありません。同じことがテクノロジーにも当てはまり、自然をコントロールせよという命令に突き動かされていますが、それ自体もまた満たされぬ欠乏から生じたものです。私たちはみんな、その欠乏を様々な形で感じます。現代生活に蔓延する不安として、ほぼ普遍的な無意味さの感覚として、一時的な気晴らしでもまぎらすことのできない「カッたるさ」として、そこら中に充満する浅はかで偽物っぽい感覚として。それは何かが足りないという感覚です。それを魂に空いた穴だという人もいます。私たちがテクノロジーに依存することで探し求めているのは、私たちの失われた全体性ホールネスに他ならず、その回復が、分断の体制の間近へと迫った崩壊の向こう側に待っているのです。

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注:
[15] ボウマン, L [Bowman, L.] 51% Of U.S. Adults Take 2 Pills or More a Day, Survey Reports (Scripps Howard News Service). San Diego Union-Tribune, Weds., Jan. 17, 2001:A8.
[16] “Seniors and Medication Safety”, Minnesota Poison Control System, http://www.mnpoison.org
[17] タインター, ジョン [Tainter, John.] The Collapse of Complex Societies. Cambridge University Press, 1988.
[18] “Conspiracy of Silence”, エリック・フランシス [Eric Francis,] 初出はSierra magazine, cover story, Sept./Oct. 1994.  PCBがあらゆる生物の細胞に存在するという主張は1998年のその記事への紹介(http://www.planetwaves.net/silence.html)に現れている


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-1-03/


2008 Charles Eisenstein


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