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まえがき(前)

訳者コメント:
 チャールズ・アイゼンスタインは最初の本格的な著作として2008年に『人類の上昇(The Ascent of Humanity)』を発表しました。人類文明は進歩の階段を上昇し、動物よりも神よりも上に登りつめようとしてきました。この流れの頂点として現在に数多くの危機が集中して起きているという認識を、2018年の『気候:新たなる物語』に先立って、より広い視点から書いています。まさにチャールズ・アイゼンスタインの原点と言うべき作品です。
 訳者とチャールズ・アイゼンスタイン著作との出会いは、2013年頃に『聖なる経済学』を読み、次に2018年頃に『気候:新たなる物語』、そして2022年に『コロネーション』、2023年になって『人類の上昇』『モア・ビューティフル・ワールド』という順番で読み進めてきました。この順序は私にとって良かったように思います。私は企業で働く技術者でしたが、 自然農やパーマカルチャー への傾倒を始めていましたので、当時の私は「ギフト経済」に共鳴しました。退職して今の地に引っ越してから、地域の環境運動に関わるようになり、その哲学的指針を求めていた私は、『気候』に共鳴しました。それが私の中に眠っていたスピリチュアルな直感を呼び覚まし、私の論理的な思考とスピリチュアリティーの架け橋となりました。『気候』を訳し終えた頃にコロナ禍が襲い、私の周囲のコミュニティーは権威主義と陰謀論に分裂しました。私は陰謀論をどう捉えるべきか知りたくて『コロネーション』へとつながるエッセイ群を訳し始めました。そして今『人類の上昇』を読み、より広い文脈と深い精神性があるのに打たれました。これは翻訳されるべき書物だと思いました。原書は500ページを超える大著なので、一人で翻訳に着手すべきか躊躇しましたが、ともかくやってみることにしました。完成までにどれだけ時間がかかるか分かりませんが、少しずつ進めていきます。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


まえがき

他のどの生物種にもまして人間に与えられた賜物たまものは、環境を操る力と、何世代にもわたって知識を蓄積し伝達する能力です。この賜物の前者を私たちはテクノロジーと呼び、もう一方を文化と呼びます。それらが私たちの人間性の中核をなしています。

数千年にわたって蓄積された文化とテクノロジーは、私たちを他の動物とは別の人間世界に導きました。動物と違って、私たちは人間の作り出したものに囲まれて生きています。その中にあるのは美や複雑さや力が際立つ作品で、人間の祖先の時代には存在し得ず、思い付くことさえなかったような創造物です。私たちが成し遂げたことの価値をあらためて認めることは滅多にありません。コンパクトディスク、ビデオ通話できる携帯電話、航空機のようにありふれた物でさえ、わずか2〜3世紀前なら絵空事だと思ったでしょう。私たちが作り出したのは魔術と奇跡の世界です。

それと同時に、テクノロジーと文化を賜物ではなく呪いと見るのも非常に簡単なことです。何千年にもわたる発展の末に、環境を操る力はそれを破壊するまでになった一方、知識を伝達する能力は、憎しみや不正、暴力といった負の遺産も伝えます。破壊と暴力がどちらも狂おしいほどの最高潮に達した現在、世界が危機的状況にあることを否定できる人はほとんどいません。危機の性質の正確なところは様々な意見があります。主として生態系の危機だという人がいる一方、道徳的な危機、社会・経済・政治的な危機、健康状態の危機、さらには霊的な危機でさえあると言う人もいます。しかし、その危機の源は人間だということに意見の食い違いはほとんどありません。その結果は絶望です。いま進んでいる世界の破壊は私たちの人間性に組み込まれているのでしょうか?

大量殺戮や生態系の破壊は壮麗な文明の避けがたい代償なのでしょうか? 美術や音楽、文学、科学、テクノロジーの最も目覚ましい成果は、自然界の残骸とそこに住むものたちの悲惨な運命の上に築かれなければならないのでしょうか? マイクロチップは、海を汚す油膜や、露天掘り鉱山、有毒廃棄物処分場がなければ作れないのでしょうか? あらゆる大聖堂の影の下には、柱に縛りつけられ火刑に処された女たちがいる必要があるのでしょうか? 言い換えるなら、テクノロジーと文化の賜物を、その呪いからどうにかして切り離すことはできるのでしょうか?

これまで2〜3世紀にわたって見続けてきたユートピアの夢は打ち砕かれ、もう望みはほとんどありません。私たちは奇跡を作り出しはしましたが、キリスト教原理主義から環境活動家まで様々なイデオロギーの人々が共有するのは、世界がますます深刻化する危険の中にあるという予感です。一時的で局地的な改善はあっても、その周辺では間違いの感覚を隠すことができず、それが近代社会の縦糸と横糸に行き渡り、しばしば私たち自身の生活にもみ込んできます。私たちは目の前の問題を一つ一つ乗り切り、予見できるリスクの一つ一つをコントロールするかもしれませんが、心の底には不安が残ります。私は「これは何かが間違っている」という感覚のことを言っているだけです。何かが極めて根本的に間違っているからこそ、より良い世界を作り出すための何世紀にもわたる最も善く最も輝かしい努力が失敗し、裏目にさえ出たのです。この認識に納得するとき、私たちは絶望や皮肉、麻痺、無関心で応じるのです。

しかし絶望がどれほど完全なものであっても、皮肉がどれほど苦々しいものであっても、いま私たちが知っているよりもっと美しい世界と、もっと高貴な人生という可能性が手招きします。それを私たちは合理的な心で捉えようとするかもしれませんが、それは合理的なものではありません。私たちがそのことに気付く瞬間は、追い立てられるような現代生活に開いた隙間です。このような瞬間が訪れるのは、独り自然の中にいたり、赤ちゃんと過ごしたり、愛し合ったり、子供たちと遊んだり、死にゆく人を世話したり、音楽のために音楽を作り、美のために美を作り出したりする営みの中です。そのようなとき、単純で簡単な喜びが私たちに示してくれるのは、生命を食い尽くす管理とコントロールという巨大な計画が、無益だということです。

私たちが直感するのは、集団的にも同じようなことが可能だということです。そのような体験は、自分が苦もなくおのずと助け合っているのに気付くとき、自分自身より大きい目的の担い手になっているのに気付くとき、やってくるかもしれません。その目的に私たちが身を委ねると、逆説的に個人としては小さいどころか大きなものになります。「音楽が楽団をかなでた」と音楽家が言い表すのはそのようなことです。

別のあり方が可能で、それは私たちの目の前の、これ以上ないほど近いところにあるということだけは、明々白々に確かです。しかしそれはいともたやすく逃げていくので、それが人生の基礎となり得るなどと、私たちはほとんど信じられません。ですから私たちはそれを死後の世界へと追いやって天国と呼んだり、未来へと追いやってユートピアと呼んだりします。(ナノテクノロジーが問題を解決してくれたら…、私たちみんながお互い仲良くすることを学んだら…、私がこんなにも忙しくなくなれば…。)いずれにせよ、それを私たちはこの世界とこの人生から切り離し、そうすることで、それが今ここで実際に実現できるということを否定します。しかし人生が「単にこれだけ」以上のものだという理解を、永久に押し留めることはできません。

私自身について、あるいは世界について、夢想家や、ユートピア主義者、ティーンエージャーと私が共有する不合理な直感は、生命と世界は私たちが思うより大きなものであり得るという壮大な可能性です。

では、いま生きている卑小な命と卑小な世界を私たちが受け入れたのは、どんな間違い、どんな妄想のせいだったのでしょう? 過去数世紀の間に出現し地球を飲み込んだ醜さ、汚染、不正、そして紛れもない恐怖にあらがおうにも、何が私たちをこれほど無力にしたのでしょう? どんな災難のせいで私たちはあきらめに打ちひしがれ、それを人間の条件と呼ぶようになったのでしょう? 愛、自由、静けさ、遊びの時に訪れるそのような瞬間。いったいどんな力のせいで、これが実生活から離れた一時いっときの休みに過ぎないなどと、私たちは信じるようになってしまったのでしょう?

このような瞬間に触発され、私がこの10年理解しようとしてきたのは、心では存在するはずだと分かっているもっと良い世界から、私たちを、そして私自身を遠ざけているものは、いったい何なのかということです。私が絶えることなく驚かされたのは、近代の様々な危機の全ての下に横たわる共通の根源が次々に見つかったことです。私たちの文明が作り出した広大な廃墟の下にあるのは人間の本性ほんしょうではなく、その逆です。人間の本性が否定されているのです。この人間の本性の否定はさらに錯覚、つまり自己と世界の誤解というという土台の上に乗っています。私たちは自分自身を本来の自分ではないものとして定義してきました。私たちを取り巻く世界から切り離された個別ばらばらの主体として。ある意味これは良い知らせです。本書で私が説明する深い変化は、いま進みつつある自己の再認識から流れ出すもので、それはもう流れているのです。いっぽう悪い知らせは、私たちの現在もっている自己認識があまりに深くこの文明に、テクノロジーと文化に織り込まれているので、それを捨てるのは慣れ親しんだものの多くが崩壊すること無しにあり得ません。それが、今この一点に集中する多くの危機の指し示していることです。

私たちの文明について先の段落に書いたことは全て、私たち一人一人にも当てはまります。聖人や神秘主義者たちは、私たちが何者であるかについてどれほど妄想にとらわれているかを何千年にもわたり教えようとしてきました。この妄想は必然的に苦しみを、そしてついには危機を引き起こし、それを解決するには崩壊と明け渡し、そして従来の自己規制を超えた生き方への扉が開かれることによる以外あり得ません。彼らはこう教えます。あなたは「肉体に封じ込められた自我エゴ」ではなく、その自我エゴの計略を達成しようとしたところで長続きする幸せが得られることはない。こういったスピリチュアルな教えが、少なくとも幾分か私に気付かせてくれたのは、仕事や、愛、人間関係、健康がどんなもので有りうるかという私の直感です。しかし、それらは本書の主題ではなく、また私自身の人生でそれらの例を示そうというわけでもありません。それでも、私たちの集団的な自己認識に起きている変化は、並行して私たちの個人的な自己認識に起きている変化と、密接に関係しています。言い換えれば、この全地球的な危機にはスピリチュアルな次元があるのです。

この全地球的な危機が私たちの個人生活に侵入してくると、避けようもなく、個人的であれ集団的であれ、私たちが何者であるかについての誤解を維持することはできなくなります。個人と集団は、その起源と、影響と、解決において、互いを鏡のように映し出します。それが理由で、集団としての人類が自然から分離する物語と、個人として私たちが人生、自然、魂、自己から疎外される物語を、本書は織り交ぜています。

◆◆◆

生命はもっと大きなものになるはずだという私の信念とは反対に、私の頭はおかしいぞと耳の中で小さな声がささやきます。その声はこう言います。何も間違ってなんかいない、世の中とはこんなもんなのだ。文明と同じくらい昔から続く、人間の窮乏化と生態系の破壊という潮流は、単に人間の条件なのであって、利己心や怠惰のような人間に組み込まれた欠陥の、避けがたい結果なのだ。その欠陥をあなたは変えられないのだから、あなたが窮乏をまぬかれた幸運に感謝することだ。地球の大部分を覆う窮乏は、自分とその所有物を守れという警告なのだと囁くその声が、身の安全を最優先するよう私を追い立てます。

それに、状況が私の思うほど悪いなんてあり得ません。もし全て本当だとしたら…、生態系破壊、大量虐殺、子供の飢餓、迫り来る数限りない危機が本当だとしたら、人々はみな大騒動になるはずではありませんか? ここアメリカにいる私の周りで平常通りの日常が続いていることが語るのは、「そんなに悪いはずがない」ということです。その囁き声は文化の全体にこだましています。あらゆる広告チラシ、あらゆる有名人のニュース記事、あらゆる製品カタログ、あらゆる熱狂的スポーツイベントの裏に隠された意味は、「こんなことを気にかける余裕があなたにはある」ということです。火事で燃える家にいる人がこのようなことを気にすることはないでしょう。私たちの文化が、ほとんどそのようなことだけを気にしているということが暗に示すのは、私たちの家は燃えていないということです。森は枯れていない。砂漠は広がっていない。大気の温度は上昇していない。子供たちは飢えていない。虐待者は野放しにされていない。民族は丸ごと虐殺されていない。このような人道に対する罪や自然に対する罪が本当に起きているはずはない。おそらくニュースが誇張されているのだろうし、どのみちそのような出来事は他所よそで起きているのだ。第三世界の災難が私の身に降りかかる前に、私たちの社会は解決方法を考え出すだろう。見ろよ、他に心配している人など誰もいないだろう? こうして日常生活のモーターがうなり続けます。

私自身の人生に壮大な可能性があるという直感は、そうですね、高望みし過ぎているのです。大人になれ、人生とはこういうものだと、その声は言います。理不尽なほど壮大な人生に、その可能性が見える時があったからといって、私は何の権利があって期待するのだろう? そう、私の直感など信用することはできないのだ。人生がどんなものかという実例は私を取り巻き、何が正常なのかを規定します。私の周りにいる人たちの中に、仕事が自分の喜びだと言う人がいるでしょうか、時間が自分のものだと言う人がいるでしょうか、愛が自分の情熱だと言う人がいるでしょうか? そんなことはあり得ません。その声はこう言います。自分の仕事がそこそこ刺激的なのに感謝しなさい、少なくともしばらくの間は「愛している」と感じることに感謝しなさい、痛みは処置でき人生の不確実性は管理されていることに感謝しなさいと。そこそこで十分とするのだ。そのとおり、人生は重荷かもしれないが、少なくとも私にはそこから時たま抜け出す余裕がある。人生には仕事と自制心と責任感が必要だが、もし私がこれらを素早く効率的に片付けられれば、私は休暇や娯楽や週末を楽しみ、もしかすると早く引退さえできるかもしれない。こういう声に耳を傾けるなら、長年にわたって私のエネルギーと活力のほとんどを人生から抜け出すために注いできたのは、無理もないことではないでしょうか? ペンシルベニア州立大学で私の教える学生の非常に多くが、21歳でもう引退の時を楽しみにしているのは、無理もないことではないでしょうか?

もし人生と世界が「ただこういうもの」ならば、私たちは最大限の努力をする他なくなります。もっと効率を上げて、安全安心を確保し、人生の不確実性を管理下に置くのです。このことを語る声もあります。それはテクノロジーと自己改善の伝道師で、基本的にはもっと頑張ることで人間の条件を改善するよう私たちに呼びかけます。私の内なる伝道師が言うのは、自分の人生を管理下に置くように、毎日運動するように、時間をもっと効率的にやり繰りするように、食生活に注意するように、もっと自制するように、もっと頑張ってい人になるように、ということです。集団のレベルで同じ態度が言うのは、材料や社会の次世代テクノロジー(新たな薬、より良い法律、もっと高速なコンピュータ、ソーラー発電、ナノテクノロジー)が、おそらく私たちの運命を最終的には改善できるだろうということです。私たちはもっと効率的に、もっと知的に、もっと有能になり、ついには人類の長年の問題を解決する能力を持つようになるだろう。

現在ますます多くの人々にとって、このような声は虚しく響きます。「ハイテク」や「近代的」といった言葉は、地球上で数多くの危機がこの一点に集まると、その威光を失います。運が良ければ、このような危機が私たち個人の生活に侵入してくるのを、一時的にでも避けられるかもしれません。でも環境が悪化を続け、雇用の安定が消えて無くなり、国際情勢が悪化し、新たな不治の病が出現し、変化がますます加速すると、のんびりしていることなど不可能なように見えます。世界ではますます競争が激化し、危険が増大し、楽な生き方は許されないようになり、安全安心を得るためにますます多くの努力が必要になってきます。一時的な安全安心を獲得したとしても、見えない不安が心の城壁の中に潜み、現代生活という背景の中で押し殺された不安感となります。それはテクノロジー社会の隅々に行き渡り、テクノロジーの歩みが加速したところで不安は増すばかりです。新たなテクノロジー、新たな法律、さらなる教育、さらなる努力といった解決に向けての方法が、問題を悪化させるだけのように見えるので、私たちの希望はせ始めます。多くの活動家にとって、どんなに努力したところで、破局の時がますます近付いているように見えるので、失望は絶望へと変わります。

本書では、もっと努力しても無駄だという理由を説明します。私たちの「最善の努力」は、そもそもこの危機の原因になったのと同じ物事のあり方に基づいています。オードリー・ロードが言ったように、「親方の道具で親方の家を壊すことはできない」のです。しかし間もなく、この物事のあり方は終わりを迎え、全く異なる自己理解と、全く異なる人間と自然との関係が、これに取って代わるでしょう。本書のテーマは、人間存在のあり方についての、高まりつつある革命です。

後編に続く


目次
次> まえがき(後)


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/introduction/


2008 Charles Eisenstein

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