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小説『EGOILL』Chapter.2

二、詩と音楽

 打算や妥協の産物としての疑似恋愛、としか思えないような男女関係に、とりあえず満足している様子の友人たちを横目に見ながら、若かりし頃の私はいつも思っていた。私は、運命の人を絶対に探し出してやるぞ、と。
〈運命の人〉というからには、やはりそれなりの根拠――その人でなければならない明確な理由――がなければならない、と私は思っていた。が、具体的にそれがどういう理由なのかは、まるで見当もつかなかった。だから、とりあえず、しらみつぶしに女性をあたってみるしか術がなかった。
 以来、あまたの女性たちが私の目の前に現れた。しかし、女性たちの中にそれを見出すことは出来なかった。そもそも、私には彼女たちを区別することさえ出来なかった。みな同一人物なのではないか、という疑念を抱いたほど、彼女たちには個性がなかったからである。
 彼女たちが持ち出してくる話題の大半は、どこかろくでもないところに一緒に行こうという提案であり、そのろくでもないところで、あれをしたいとかこれをしたい、などという妄想話であった。その他のレパートリーはといえば、誰それの言動が信じられない、というような、彼女たちの身近にいる気障りな人々に対する愚痴ややっかみ、もしくは極めて他愛もない話――主に最近の流行事情のこと――ぐらいであったろうか。とにかく、彼女たちはみな、判で押したように同じようなことしか話したがらなかった。
 彼女たちの個性を引き出そうとして、少し突っ込んだ話題を私から切り出した場合にも、返ってくる反応はみな同じであった。例えば、「ところで、君にとってのやるべきこととは一体何だろう? やりたいことではなく」とか、「ところで、君が思い描く理想の大人像とは、一体どんなものなんだろうか?」などと聞いたりすると、彼女たちはみな怪訝そうな顔をして、私の話を聞かなかったことにしようとした。まるでヤドカリのように、ひょこっと殻の中に閉じ籠もってしまうのである。
 ただお互いに独り言を言い合っているような錯覚に、私は度々襲われた。確固たる存在として彼女たちを認識することが出来なかった。彼女たちには顔がない、と私は思った。みんなのっぺらぼうだ、と。
 あるとき私は、彼氏持ちの女性ばかりを執拗に口説く、という試みを実践したことがある。確たる理由もなく、とりあえず男性と交際をしている世間の女性たちも、その事実に気がつけば考えを改めるかもしれない、と思ったからである。
「――で、彼でなければならない理由は何なの?」
 私がそう問うと、相手は必ず言葉に詰まった。そんなとき、彼女たちは、いつも決まって「そんなこと、今まで考えたこともなかった」と言った。私はその答えを聞くたびに、ハッ、適当なやつだぜ、と内心ほくそ笑んでいた。
 私の一言によって根底を覆された彼女たちは、いとも簡単に元彼を捨てて、コロッと私の手中に落ちた。しかし、程なくして彼女たちは気づくのである。そもそも理由なんかないほうが良いのだ、ということに。
 彼女たちが男性に求めているものは、〈凡庸さ〉であった。人並なルックス、平凡な経済力、月並みなデート、他愛のない会話、ありふれたセックス。どこかが突出していたり、何かが欠落していたりする男性を、彼女たちは必要としていなかった。そんな彼女たちにとって、私は最も敬遠すべき存在だったようである。なにしろ、かつての私ときたら、彼女たちが男性に求める条件の、真逆を地で行っていたのだから。
「滝夫くんのいいところは、顔だけね」という捨て台詞を残して、私のもとから足早に逃げ去っていく彼女たちの後ろ姿に向かって、私はいつもこう呟いていた。「やはりのっぺらぼうは、のっぺらぼうを求める、という訳だ」と。
 若かりし頃から現在に至るまで、私が一貫して突出させようとしてきたもの、それは私のパーソナリティーである。その手段として、私は長年芸術活動に打ち込んできた。〈その人でなければならない明確な理由〉を持った運命の人との出会いを物語る前に、彼女との出会いのきっかけにもなった私の活動――活動を始めるに至った経緯と、一度は断念せざるをえなくなった経緯――について書き記しておこうと思う。

 少年時代の私は、周囲の大人たちに不信感を抱いていた、と書くと、何だかありきたりで、陳腐な回想のように聞こえるかもしれない。が、事実だから仕方がない。大人たちの顔を見上げながら、少年時代の私は常々こう思っていた。大人たちは何も考えていないくせに、いつも知ったような顔をしている、と。
 例えば私の母は、年の瀬になると毎年のようにこう呟いた。「あれから、もう一年が過ぎたなんて、月日が経つのは早いものねぇ。去年の大晦日がまるで昨日のことのようだわ」
 父は、いつも訳知り顔で人生訓をたれた。「頑張るということと、無理をするということは違うんだ。どうしても無理なようなら、いつでも逃げ出したって構わないんだぞ、滝夫」
 叔父は、私と会うたびに感嘆の声をもらした。「まだほんの子供だと思っていたけれど、ちょっと見ない間に滝夫も随分と大きくなったもんだなぁ。お前が小さかった頃は、ほれ、こんなだったんだぞ。そりゃあ叔父さんも歳をとるわけだよ」
 時間の感覚が麻痺してしまっている母や、酒と博打と女に明け暮れ、頑張っている姿を私に一度も見せたことがない父や、年に二、三度欠かさず会っているにもかかわらず、いつまで経っても私の成長を認識することが出来ずにいる叔父をみて、大人たちはみな頭の中のネジが一本緩んでいるのではないか、と子供の頃の私は訝しんでいた。子供はあらゆることに敏感である。日常のどんな些細なことも決して見逃さない。変化を受けいれることを厭わない。しかし、大人はあらゆることに鈍感である。見て見ぬふりをしようとする。頑なに変化を受けいれようとしない。
 大人たちは、いつも何かを見落としている。そう思った私は、落とし物を拾ってあげるつもりで、純粋な親切心から、良かれと思って、ネジの緩みをたびたび大人たちに指摘した。「お母さん、目先のことだけにとらわれていちゃ駄目だよ。生活するために生活するなんて本末転倒じゃないか」とか、「お父さんは毎朝四時頃に酔っぱらって帰って来て、いつもお昼過ぎまで寝ているけど、そろそろ生活を改めたほうがいいんじゃないの」とか、「叔父さん、また同じこと言ってる。ついこの間会ったばかりじゃないか」という具合に。そんな時、彼らは決まって私に向かってこう言った。「お前はまだ子供だから分からないんだろうけど、いつかお前が大人になったら、今の私の気持ちがきっと理解できるようになるよ」と。
 大人たちは、いつも適当なことばかり言って、子供の僕をはぐらかそうとする。大人に何を言っても無駄なんだ、と思った私は、早々に大人たちに見切りをつけた。そして、牛に焼き印を押すように、自身の心に固い誓いを刻みつけた。僕は絶対にネジの緩んだ大人にはならないぞ、と。
 周囲の大人たちを信用することが出来なかった私は、自然と同年代の友人たちに心の共鳴を求めた。しかし、彼らも大人たちと大して変わりがないということに気がついた。彼らは、大人たちのご都合主義の是非を問わないばかりか、むしろその姿勢を積極的に取り入れようとし、自らに備わっている天性の美質を、いとも簡単に唾棄してしまうような愚か者たちばかりであった。みなで奪い合うように早熟さを競い合っているその様は――迎合主義的で盲目的なその有様は――私にとっては滑稽以外の何ものでもなかった。
 当然の帰結として、私は周囲から孤立した。誰も理解することが出来ず、誰からも理解してもらえない。人々とまるで話が噛み合わない。人目を避け、自室に引き籠もるようになった私は、そこで読書の喜悦と音楽鑑賞の愉悦を覚えた。小説に登場する主役級の人物たちは、現実世界の人間たちに欠けている理性的な判断を私に示してくれたし、音楽は理屈抜きに私を忘我に導いてくれた。高校生にもなると、それまで好んで読んでいた英雄譚以外の、物語性の少ない難解な書物も多少は理解できるようになったし、それまで何気なく聞いていた歌詞の深意を、多少は汲み取れるようにもなった。私は学校の授業をそっちのけで読書に耽り、家に帰ってからは相変わらず音楽ばかり聴いていた。
 その頃、私は発見した。私のお気に入りのアーティストたちには共通点がある、ということを。彼らはみな、各々の表現で「ネジを緩めてはいけない(それは諸悪の源だから)」と間接的に説いていたのである。

 まずは、ジョン・レノン。
 「目を閉じていれば人生なんて容易いものさ
  全てを誤解してしまうのだからね」
          Lennon / McCartney『Strawberry Fields Forever』より

 お次は、太宰。
 「甘さを軽蔑する事くらい容易な業は無い。  そうして人は、案外、甘さの中に生きている。他人の甘さを嘲笑しながら、自分の甘さを美徳のように考えたがる。」
    太宰治『かすかな声』青空文庫より

 極めつけは、ボードレール。
 「われらの罪はしぶとく、悔悟の情はだらしがない。
  告白をしただけで、お釣りがくるほどの気持ちになり、卑しい涙に一切の穢れを洗い落としたつもりで、浮き浮きと、泥濘の道に舞いもどる。」
『ボードレール全詩集Ⅰ/悪の華(第二版)』阿部良雄訳、ちくま文庫より

 世の中には、自分と似たようなものの考え方をする人たちがいる、と私は狂喜した。アーティストたちは、その言葉をもって、死してなお永遠に生き続けているように私には感じられた。彼らとの交流(交霊と言うべきか)は、例え一方通行と言えども、私がこの世で初めて体感した心と心の共鳴であった。
 アーティストたちとの交霊を私が密かに楽しんでいると、それを嗅ぎつけた周囲の大人たちは、「若気の至りだ」と言って私を小馬鹿にした。例えば、父は私に向かって何度もこう言った。「お父さんもお前の年代のころはそうだった。誰しもが文学やロックに一度はかぶれるものなんだ。それは大人になるための通過儀礼のようなものだ。ただ、お前ももう高校生なんだし、いつまでも夢みたいなことばかり言っていないで、ちゃんと現実と向き合いなさい」
 父がいつも、『○○○殺人事件』や『○○○事件簿』というようなタイトルの大衆小説ばかり読んでいることを、私は知っていた。飲み屋のカラオケでホステスたちに披露するために、けばけばしい歌謡曲を風呂場で練習していることも知っていた。偉そうに、何が現実だ、と私はその都度思っていた。自分のことを棚にあげて他人を非難する大人たちの基本姿勢を、私は激しく憎悪した。
 心ない友人たちも野良犬のように私の交霊を嗅ぎつけ、「時代遅れだ」と言って私を嘲笑した。彼らの大半も私と同じようにロックに目覚めてはいたものの、その嗜好は私とはまるで正反対のものであった。彼らは古いものには全く興味を示さず、巷で流行っているものだけを流行っている期間だけ愛聴し、廃れたと聞けばたちどころに放りだし、また新たな流行に臆面もなく追従する、といった資本主義的な音楽の聴き方をしていた。ズンズンと重たく歪んだギターの音色に、今日の朝は快便だったぜ、というような無内容の歌詞をのせ、粗野で暴力的なライブパフォーマンスを得意とするような、全身タトゥーだらけのメンバーが奏でる、いかにも悪そうなやつ選手権大会みたいな音楽を好む友人たちに、私は心底うんざりしていた。
 周囲の大人たちや、心ない友人たちからのプレッシャーへのカウンターとして、私は左手にギターを握った。今に見ていろ、と心に念じながら、私は昼夜を問わずひたすら練習に励んだ。やがて、ギターを弾きながら歌を歌えるようになった私は、バンドを組んでみようと思い立った。高校二年の頃に、地元のライブハウスでバンドデビューを果たして以来、私はバンド活動に専念した。大学時代には軽音楽部に所属して、三カ月に一度のペースで開催されるライブイベントで腕を磨いた。
 バンド活動は、私の周囲の大人たちや、心ない友人たちからのプレッシャーをけるのに十分な効果を発揮した。大人たちは、「どうせすぐに諦めるだろう」という臭いを言葉の端々に漂わせながらも、実際的な行動をとっている私に対して傍観の姿勢をとるようになったし、友人たちは、ミュージシャン志望という私の肩書きに対して、あたかも一目置いているかのような素振りを見せるようになった。
 当初は周囲からのプレッシャーに対するカウンターに過ぎなかった私の音楽活動であったが、プレッシャーから開放されると、それは次第に別の意味合いを帯び始めた。私は、それまで自分を導いてくれたお気に入りのアーティストたちに恩返しをしたい――つまり、彼らの遺志を受け継いで、ネジの緩みが諸悪の根源であるということを、音楽を通して広く世間に知らしめたい――と願うようになったのである。それまで他人の曲ばかりカバーしていた私は、自分の言葉で自分の歌を歌いたい、という強い欲求に駆られた。
 いざペンを執ってみると、詩を書くことは私にとって呼吸をすることのように簡単なことであると気がついた。かつて目撃したことのある緩んだネジや、周囲のいたるところで緩んでいるネジを、ただ拾い集めていけばいいだけなのだから。大学卒業と同時に上京し、フリーターをしながら音楽活動を続けていた私は、書きためていた詩を歌詞としてリニューアルさせ、今度はその歌詞にメロディをつける作業――つまり作曲――に没頭した。
 だが、ようやく自分の言葉で自分の歌を歌えるようになった矢先に、周囲からの新たなプレッシャーが私を待ち構えていた。私が構築してきたミュージシャン志望という肩書きは、有効期限が切れた防虫剤のように、いつの間にか無用の長物と化していた。志望を聞き入れてもらえる年齢を、私はとっくに通り越していたのである(このとき私は二十五歳であった)。
 夢追い人が許されるのは、社会に出るまでの期間に限定された話であって、一度社会に出てしまうと、夢想家はまるでゴキブリか何かのように毛嫌いされ、「往生際のわるいやつ」とか「甲斐性なし」などと言われて、社会人たちから疎まれる。
 勿論、周囲からのプレッシャーをものともせず、仕事を〈食いつなぐための一時的な手段〉として割り切って、夢の実現に向けて黙々と努力している人も中にはいるであろう。だが生憎、私にはそのようなガッツは備わっていなかった。稼いだお金の大半を音楽の機材購入資金に充てていた私が、勝手気ままなフリーター生活を三年間も続けることが出来たのは、ひとえに親戚のおかげであった。東京にある母の実家に、私は居候させてもらっていたのである。
 いつまでも親戚の家にご厄介になる訳にもいかず、徐々に身の置き場を失いつつあった私は、起死回生の逆転弾を狙うべく、それまで作りためていたデモテープをレコード会社に送りつけた。世に名高いアーティストたちの後継者である私の曲だ、万が一にも断られることはないだろう、と私は余裕綽々であった。だが、結果は惨たんたるものであった。「歌詞が説教くさい」「売れ線ではない」「プロデューサー的な目線が足りない」「今現在、何人ファンを抱えているかが全てであって内容は関係ない」という、まさに冷水のような言葉の数々を浴びせかけられた私の自惚れは、現実という名の寒風にさらされて、一夜にしてかちかちに凍結した。
 夢破れた私が、親戚の家で心の風邪をこじらせていた頃、私の実家の事情が一変した。私に何の相談もないまま、突如として両親が離婚をしたのである。離婚翌日に母から私あてに電話があり、相も変わらず放蕩三昧であった父に対して、ついに堪忍袋の緒が切れた、という予想通りの経緯を聞かされた。長年父に悩まされ続けていた母の気持ちは、痛いほどよく分かっていたし、私も既にいい歳になっていたので、両親の離婚話には大して驚かなかった。けれども、次に母の口をついて出た話題――私の出生の秘密――には、流石に度肝を抜かれた。長年培ってきた私のアイデンティティが、一瞬にして崩壊したような心地がした。失意のドン底にたたき落とされた私は、ここが潮時だと思った。
 帰郷した私は、ある中小企業に就職した。母や友人たちには、「サラリーマンになってみなければ、サラリーマンを批判する権利がないってことに気がついた」などとうそぶいてはみたものの、すぐに私の見通しが甘かったということを痛感させられた。
 そこでは、権力を笠に着た人々による悪質な弱い者いじめが、これ見よがしに、いたるところで横行していた(その代表的な手口は、手柄の横取り、責任転嫁、流言、恫喝、無視等である)。ドラマ『はいすくーる落書き』の主題歌であった、ブルーハーツの『TRAIN-TRAIN』の歌詞に出てくる「弱い者たちが夕暮れ さらに弱い者をたたく」が、ハイスクールではなく一般社会で、真っ昼間から平然と――しかも組織的に――行われていたのである。
 夕暮れ時に、悄然として家路につくサラリーマンたちの生気のない後ろ姿は、シャミッソーの『影をなくした男』を私に連想させた。

 困窮に喘いでいた青年ペーター・シュレミールは、悪魔から持ちかけられた取り引きに応じて、自身の影と引き換えに〈幸運の金袋〉を手に入れた。金袋から無尽蔵に沸き出るお金のお陰で、一夜にして大金持ちになったペーターであったが、以来世間の人々から影がないことを理由に迫害される、というのが『影をなくした男』の大まかなあらすじである。

 サラリーマンたちの境遇は、ペーターよりも更に酷いと私は思った。
 当初、社員は勤労の対価として給料を受給するという契約を会社と結ぶ。しかしその実、会社が社員に要求するものは、勤労だけに留まらなかった。会社は社員に忠誠心を強要する。この忠誠心の定義が、〈影(人間性)の放棄〉だったのである。会社が黒いと言えば、社員は白いものを黒いと言わなければならない。上司による部下いびりの現場に偶然立ち会わせていたとしても、黙ってそれを見過ごさなければならない。社員には、「NO」と発言する権利が一切与えられていなかった。
 影を放棄することはネジを緩めることと同義である、と私は思った。だから私は、影を手放すまいと必死に食い下がった。だが、そんな私の身に降りかかったのは、上司からの陰湿な報復行為であった。「空気を読めないやつ」「大人げないやつ」「世間知らず」などというレッテルを貼られた私は、部署内で浮いた存在になり、やがて完全に孤立した。サラリーマン社会においては、影を所有し続けている人間は、迫害の対象と見なされてしまうのである(ペーター・シュレミールも、サラリーマンになれば迫害されずに済んだであろう)。
 もしかすると間違っているのは自分のほうなのかもしれない、と思う夜もあった。そんな時には、万年筆を手にとって、真っ白いノートの中に答えを求めた。

 「人に使われている人間は、奴隷根性の持ち主だ。
  人を使っている人間は、選民思想の持ち主だ。
  人に使われている人間は、見て見ぬふりをする人間だ。
  人を使っている人間は、人を見る目がない人間だ。
  人に使われている人間は、会社(社会)に画一化されてしまった人間だ。
  人を使っている人間は、他人を支配(マインドコントロール)しようとする人間だ。
  人に使われている人間は、虎の威を借るキツネだ。
  人を使っている人間は、井の中の蛙だ。
  人に使われる人間にはなりたくない。
  人を使う人間にもなりたくない。
  人は使われたり、使ったりするような〈もの〉ではないのだ。」

 しかし、月日と共に、私の人間性は徐々に影を潜めていった。あまりにも理不尽なことばかり起こるので、感覚を麻痺させていないと、やっていられなかったのである。
 年の瀬に部屋の大掃除をしていたら、ベッドの下で埃を被っているギター・ケースが横目に見えた。しかし、私はそれを見なかったことにした。
「あれから、もう一年が過ぎたなんて、月日が経つのは早いものだ。去年の大晦日がまるで昨日のことのようだ」と、かつて聞いたことのある母の口癖を、いつの間にか呟いている自分がいた。そんな私の右手には、最後の頼みの綱であったはずの万年筆の代わりに、会社から支給された〈薄運の給料袋〉が、しっかりと握りしめられていた。

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