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なぜ博士は水爆を愛するようになったか――キューブリック『博士の異常な愛情』について

上  そのタイトルと宣材写真から連想されるものとは異なり、博士は物語の中盤までまったく登場してこないし、物語のいちばんの鍵を握っているとも言いがたい。映画を観ているあいだは、散りばめられたブラックユーモアに口角を上げつつも、博士はいつ出てくるのだろう、と考えずにはいられない。  そうであるならば、なぜ博士がこの映画の主題として提示されているのか考える必要があるはずだ。  博士はいまだ総統ヒトラーへの崇拝と畏敬の念が抜けないナチスである。しかしそのことが明らかとなるのは、

    • 偏在する母、遍在する家族――映画『誰も知らない』について

      1  この作品は、実際に起こった育児放棄と取り残された少年による兄弟の殺害・死体遺棄事件をモデルにしている。  事件の背景には、親子の関係と責任の問題、そして庇護者を失った子どもたちを援助する社会的セーフティーネットの欠如という問題が根深く存している。そのような背景を指摘することは、起こってしまった事件を一般化し、社会問題として、構造の問題としてとらえることである。  ジャーナリスティックにこの物語を語るなら、その問題点を鋭くえぐり出し、子どもたちはいかに発見され、いか

      • 汝自身を演じよ――アッバス・キアロスタミ『クローズ・アップ』について

         舞台はイラン。不可解な事件である。ある青年が、国民的な映画監督マフマルバフを騙って、ある邸宅に出入りしていた。彼は、その家に住む家族とその邸宅を舞台に映画を撮りたいといって、何度もその家にやってきた。ところが、ある日彼はマフマルバフではないことが明らかになる。彼は高名な映画監督とは縁もゆかりもない、名もなき一人の青年だった。ただちに、青年は不法侵入で逮捕される。  この動機不明の奇妙な事件は世間の注目を集めた。本作の監督、アッバス・キアロスタミもそれに興味を持った者の一人

        • Cool Design, Cool War――映画『ソーシャルネットワーク』について

          *この記事は以前のアカウントで公開していたものを、書式を改め、再公開したものです。  マーク・ザッカーバーグが、Facebookの構想を得てから、それを軌道に乗せるまでの映画――と言うと、よくある、成功者の伝記映画を思い浮かべるかもしれない。天才の苦悩と孤独、そして苦難の連続とその克服、そのような物語としてこの作品を読むことも可能だが、しかし、そこは、われらがデイヴィッド・フィンチャー。そんな浅薄なストーリーでは着地させない―― 1  ザッカーバーグがフェイスブックを興

        なぜ博士は水爆を愛するようになったか――キューブリック『博士の異常な愛情』について

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          不本意なる英雄——映画『タクシー・ドライバー』について

           トラビスは日記を書く。彼は言葉を持っている。しかし彼は想像力に欠ける。直情的に振る舞う。それは矛盾ではないのか。彼は本を読むこともないようだ。なぜ、彼は日記を書くようになり、今もなお、書いているのだろう。そのあたりは内面性ということと書くということの関連として非常に興味がある。  ところでその想像力と自制心にやや欠けているがゆえに、彼は孤独とさみしさにとらわれていく。その演出と演技は素晴らしかった。都会の暗部を日々目にしながら、次第に荒廃し、急進化していく彼の感情と行動。

          不本意なる英雄——映画『タクシー・ドライバー』について

          自慢にならない自慢――これまでの記事の紹介

           1   自己紹介という言葉が嫌いだ。自己PRという言葉はもっと嫌いだ。紹介すべき自己などない。紹介することがないのだから、もちろんPRする自己などあるはずがない。  しかし、新しい環境に身を置こうとすれば、自然とそれを求められる。受験、就活、転職、あるいはマッチングアプリなんかを利用したりするにも。1日わたしと働いたり、ご飯でも食べたりしたらわかりますよ、などといってもだめらしい。効率がわるいんだろう。  昔話と自慢話は「老害」の悪い癖だ、と言われる。それは傲慢な振る舞

          自慢にならない自慢――これまでの記事の紹介

          都会の実存――映画『SE7EN』について

          *この記事は以前のアカウントで公開していたものを、書式を改め、再公開したものです。  連続殺人犯ジョン・ドゥは、自らが選ばれし者たることを僭称し、神に変わり七つの大罪を犯したものに裁きを与えるという大義のもと、街の人々を周到に、陰惨に殺害していく。  とりあえず、彼の言うことをいったん認めるとしよう。彼は、七つの大罪を犯したものを裁く神の使徒であるのだと。  しかし、そうであるとしても、彼の計画は破綻していると言わざるを得ない。ひとまず、彼が5人に裁きを与えたところまで

          都会の実存――映画『SE7EN』について

          (B面)村田沙耶香『消滅世界』について――母の呪縛への抵抗

           *(A面)とセットでお読み頂けると幸いです。  この作品の主題は、「正常さ」を強いる母親の呪いに抵抗し、反逆する子の物語である、と言おう。  衝撃的な、狂気的なラストシーンの意味は、母親に対する主人公の反逆の戦略を追うことによって、明らかになるであろう。 主人公・雨音の恋愛時代  1  この物語のなかには、恋愛や結婚をめぐるさまざまな「正常さ」が主張されている。  物語世界においては、夫婦間のセックスが「近親相姦」であるとされ、生殖は人工授精によって行われること

          (B面)村田沙耶香『消滅世界』について――母の呪縛への抵抗

          (A面)村田沙耶香『消滅世界』について――「家族」という制度、その消滅

             この作品の主題は、家族制度がいかに解体されていくか、という問題である、と言おう。  大家族から核家族へ、そして一人暮らし世帯へ。こんにちの日本の世帯数はそのような移り変わりを見せている。  そうした流れのなかで、そしてその先で、何が起きるのか、そのことがこの物語のなかで描かれている。 効率的なる同性婚 1   この物語の舞台は、近未来の日本を感じさせる。そのなかで、興味深い設定は、物語の世界において、同性婚が法的に認められていない、という点である。近未来的な日本

          (A面)村田沙耶香『消滅世界』について――「家族」という制度、その消滅

          彼は如何にして印度國民となりし乎――映画『RRR』について

          *この記事は以前のアカウントで公開していたものを、書式を改め、再公開したものです。 圧巻の舞台装置、映像効果、大迫力のスタントに、インド映画的な歌と踊りで迎える大団円― インド映画史上最高額の制作費を投じて制作されたこの映画は、それに見合う以上の完成度を持った、巨編に仕上がっている。誇張でなく、インド映画の粋を見た、と感じた。  ところで、この作品は、英雄的な主人公たちが活躍する叙事詩的な物語でありながらも、また一方で、観る者に帝国主義と国家主義というきわめて近代的な問題

          彼は如何にして印度國民となりし乎――映画『RRR』について

          なぜゴダール映画のカップルはみんな「ああ」なのか――アニエス・ヴァルダ『ラ・ポワント・クールト』について

          1  アニエス・ヴァルダ監督『ラ・ポワント・クールト』は、1955年公開のフランス映画である。この作品は、のちに最初のヌーヴェルヴァーグ作品と評価される。  ヌーヴェルヴァーグがどういう映画潮流かは、説明しない(いや、できない)。「ああいう」感じである。そう。ゴダールとか見たことある人にはわかる。ああいう感じ。  ところで、この作品を見ていたら、主人公たちのカップルについて、町の人が「バカンスだって行って帰ってきたのに、あの二人散歩してるだけね」「ほんとに。しゃべってるだ

          なぜゴダール映画のカップルはみんな「ああ」なのか――アニエス・ヴァルダ『ラ・ポワント・クールト』について

          〔後篇〕芥川はなぜ革命家の問題となるのか――宮本顕治「「敗北」の文学」(1929)

          〔前編からの続き〕  3.4 自己否定への意志    しかし、それだけなら、凡百のブルジョア作家たちと何ら変わることがない。革命家たちの心を動かすのは、そのような凡庸な道徳律、あるいはそこに留まらざるを得ない自己を超克していこうという芥川の意志である。  そのような転回をもたらしたのは、1925年における《日本プロレタリアートの全面展開の時代》だったと宮本は言う。芥川の自殺の二年前のことである。  宮本はいちいち説明してはいないが、1925年は、治安維持法が制定され、

          〔後篇〕芥川はなぜ革命家の問題となるのか――宮本顕治「「敗北」の文学」(1929)

          〔前篇〕芥川はなぜ革命家の問題となるのか――宮本顕治「「敗北」の文学」(1929)

          1 文芸批評家・ミヤケン   のちの共産党委員長として悪名高いミヤケンが世に現れたのは、新進文芸批評家としてであった。その最初の文芸批評が、この芥川論であり、1929年の『改造』の懸賞論文で、小林秀雄「様々なる意匠」をおさえて一等となったことは、文学史上の有名なエピソードである。  共産党員として活動をはじめたあとも、宮本は文芸評論を書き続けることになる。いま、その成果は重厚な『宮本顕治文芸評論選集』全4巻に見ることができる。  さて、宮本は当時、東京帝国大学在学中の20

          〔前篇〕芥川はなぜ革命家の問題となるのか――宮本顕治「「敗北」の文学」(1929)

          われら故郷なき者――小林秀雄「故郷を失つた文学」について

             ここで、「江戸っ児」といわれているところのものを、「シティボーイ」とでも読み替えてみれば、現代の東京生まれの人々にも、いやほかならぬ私(東京出身)自身にも共感できる文章である。  東京を出ると、東京出身だというだけで、人から「シティボーイ」だね、などと言ってもらえる。そこでは、僕がたとえば「山の手」の生まれか「下町」の生まれかなどということは問題にされない。その「シティボーイ」たる本領がどこに存するのか全く不明瞭であるように、「江戸っ児」ということばも、当時その実態を

          われら故郷なき者――小林秀雄「故郷を失つた文学」について

          とまどう狂信者――森達也『A』について

          A とまどう狂信者1  なぜ、オウム真理教・広報部長の荒木は、一連のオウム真理教によるテロや殺人が明らかとなり、裁判が始まっても、家に帰らず、謝罪もしないのか。それが、この映画を観る「市民」的な問題意識であろう。  その問題提起に、私なりに簡潔に答えるならば、それは、誰ももはや彼の言葉を、彼の言っている通りに聞いてくれないからである。カメラを向ける森達也に、地下鉄サリン事件をはじめとする一連の事件がオウム真理教によって引き起こされたことを認めるか、と問われ、荒木は言葉を濁

          とまどう狂信者――森達也『A』について