彼は如何にして印度國民となりし乎――映画『RRR』について

*この記事は以前のアカウントで公開していたものを、書式を改め、再公開したものです。


圧巻の舞台装置、映像効果、大迫力のスタントに、インド映画的な歌と踊りで迎える大団円― インド映画史上最高額の制作費を投じて制作されたこの映画は、それに見合う以上の完成度を持った、巨編に仕上がっている。誇張でなく、インド映画の粋を見た、と感じた。

 ところで、この作品は、英雄的な主人公たちが活躍する叙事詩的な物語でありながらも、また一方で、観る者に帝国主義と国家主義というきわめて近代的な問題を突きつける。そこには、どのように国民意識というものが醸成されていくのかということが、二人のヒーローを通して象徴的に描かれているように思われる。ここでは、その観点から、『RRR』について考えてみたい。

 この物語の主人公は、二人の対照的な英雄である。彼らがそれぞれ、人々が自分自身をある国の国民として認識する――すなわち、自らのアイデンティティを「〇〇国民である」ということに求める――上で、必要な二つの要素を体現している。

 彼らは、互いに出会うことなくして、祖国解放と故郷凱旋をなし得なかった。二人は、互いが互いの体現するものを自己のうちに取り込むことによって、初めて、具体的なる「インド国民」としての自覚を持つことができたのである(そもそも、その「祖国」とか「故郷」なる概念が近代的な発想のもとにある)。

 では、彼らがそれぞれに象徴するものとは何であったのか。それぞれが「インド国民」としての意識を完成させていく過程を見ることで、それを明らかにしたい。

1 ビームの場合

 
 妹を、英国領事に拐かされるようにして買われてしまったビームは、ただ彼女を奪還するためだけに大都市・デリーに出て、その機会を窺っていた。彼は森の民であり、「抵抗することも知らない素朴な部族」の一員であった。そのとき、彼の帰属先は森であって、彼には祖「国」というものはない。すなわち、この時点において、彼はインド「国民」ではない。それゆえ、彼にとっての敵は英国領事その人でしかなく、行動の目的もただ妹を奪還するということにしかない。

 よって、彼にとっては、妹を探す手助けをしてくれる者が味方であり、そうでないものが敵である。単純な図式だ。だから、彼には領事のもとで働き、妹の救出を阻むラーマの行為とその意図がまるで理解できない。ラーマは端的に敵である。

 しかし、ビームは偶然に出会った、ラーマの許嫁・シータから、ラーマの大義を聞いたとき、彼は妹の奪還という自身の目的がいかに卑小なものかを悟る。ラーマが「祖国」なる概念を掲げ、「国民」という数億の人々のために孤独に闘っているということを知ったとき、彼は初めて「インド」なるものを知り、彼自身が「国民」のひとりであるということを “自覚” するのである。

 そのとき、ビームは、ラーマを初めて同胞として意識する。同時に、彼の敵は、妹の誘拐犯としての領事ではなく、祖国を抑圧する大英帝国の臣民となった。ここで、彼の憎悪は、個人的な怨恨から、抽象的な国家間対立に、拡散されていくことになる。

 そのとき、すでに彼は、妹を奪還し、当初の目的を果していたのだが、彼は再び闘うことを決断するのである。――祖国のために。

 そして、晴れて大英帝国の抑圧の象徴たる領事館を爆破し、領事を殺害したとき、彼は大英帝国に対するインドとその国民としてのアイデンティティを完成させる。

 祖国を「解放」したあと、ラーマから礼をしたいと申し出を受けたとき、彼は読み書きを教えてほしいと願い出る。彼は、声の文化の中に生きてきた。彼と妹は文字を持たず、口承の文化を継承してきたのである。しかし、いまや彼は、森の民であるばかりでなく、インド国民である。インド国民たるからには、インドという国家の文字を持たねばならない。彼は、声の文化を出て、文字の文化に――すなわち、近代的公用語の世界に――生きていくことになるのである。

 そして、裏を返すなら、ラーマが彼に与えたのは、その「インド」という概念であり、また文字である。ラーマが体現するのは、近代的な教育である、と言ってもよい。では、ビームがラーマに与えたもの、ビームが体現していたものとは何であったのか。

2 ラーマの場合


 彼は、農村の生まれである。ゆえに、その土地では戦乱が絶えなかったのであろう、集落の指導者の息子であったラーマは、「戦いの部族」の血を受け継いでいる。

 彼は、同時に幼少期より学問に親しんでいる。たとえば、彼はヒンドゥーの聖典のひとつである、『バガヴァッド・ギーター』の教えをそらんじている(彼がのちに収監され、処刑を前にして看守から罵られたとき、唱えるのは『ギーター』の一文―「あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない」(第2章第47節)―である)。彼は、その経典を重んじる、文字の文化のなかに生き、その教育を施されてきた。それは、先に述べたとおりだ。
 
 そして、ビームのいた森とは異なり、都市の近郊(農村は都市の原型である)に暮らしていたため、インドのなかでは比較的早期に大英帝国の侵略を受けることとなった。「大英帝国」という「国家」の大義の下に支配を行う相手に対峙するとき、自ずとそれとは異なる「国家」という大義の下に、自らを位置づけることになる。そして、支配に抵抗するべく、銃器と戦略を導入し、近代的な科学技術と知識のもと、その意識を強めていった。

 したがって、彼には幼い頃から、大英帝国に対する「インド」なる祖国が意識され、その解放という大義を掲げて、一心に行動してきた。彼は必死に語学を習得し、身体を鍛錬した。

 だが、アイデンティティの拠って立つところの「インド」というイメージが、空疎である。同胞は何によって、同胞として団結しうるのか。その彼らを結びつけるところの旗印とでも言うべきものが、ラーマには、そして都市の人々には、共有され得なかった。

 民衆が支配者の暴挙に憤って抗議に結集しても、一枚岩になれず活動が収束してしまうのは、それが単なる一過性の衝動とその発散でしかなかったからである。それが運動として組織化されるには、彼らが団結し、そしてその目的のもとに行動しうるところの「祖国」という表象が具体的なものとして共有される必要があった。

 そんななかにあって、英国領事邸に侵入し、妹の奪還にあと一歩のところに迫りながらも捕えられたビームが、公開で拷問にかけられる。そのとき、彼は凄惨なる鞭打ちを受けながら、歌を歌う。森に住む文字を持たぬ素朴な部族が、口伝えに受け継いできた、のどかな子守歌を。そこには、デリーに生きる人々の生活からは 忘れ去られた自然と、純朴なる文化が息づいていた。都会の民衆はその歌を知らなかったはずである。しかし、それはなぜか、彼らにとって懐かしいものであった。自らの文化の源流がそこに息づいているかのような気がした。

 「気がした」というにすぎない。しかし、そのとき、彼らはたしかに彼ら自身のアイデンティティの現前を見たのである。都市の民衆たちは、ビームを通して、初めて自らの「祖国」というものを、実感を伴って認識した。かくして、彼らは皆、「インド人」という同胞として団結する。

 すなわち、ビームがラーマに与えたのは、その森の民の素朴なる自然の形象とそこに息づく文化であった。それは、西洋近代にあってはロマン主義の運動のもとに、「田舎」あるいは「故郷」――それは「都会」というものの発生により、その対比あるいは本来性を探る思考のなかで創出された概念である――を讃美し、民俗学という題目の下に民謡や民話の採録が行われて、民族としての故郷・原生自然が「発見」されていったのと同様である。

 ラーマはビームを通じて、インドという国の「風景」と「文化」を獲得し、同胞を団結させるところの祖国のイメージに肉付けをした。ラーマがビームに読み書きの教えを請われ、初めて与えた旗には、「水と森と大地」と書かれていた。どのような近代国家にあっても、祖国の美しい自然や大地がイメージとして共有される。近代的な都市に生まれても、それは国民の原風景としていつでも想起されるのである(たとえば、それは日本では、それは清き川の流れる青々とした里山的自然の風景であろう)。

3 プロパガンダ映画?

 
 このように、ラーマは近代的国家の国民意識と制度という枠組みを、ビームはインドの古き良き「自然」と「文化」というその内実を、それぞれ象徴しており、両者が出会い、その要素が統合されることによって、「インド国民」が誕生するのである。否、前者が後者を「発見」することによって、それが誕生した、という方が正確であろう。インド固有の自然とか、古来の文化などと言われるとき、それはインドという概念の要請によって、それがあとから見出されているからである。

 ともあれ、かようにして、この映画には、「国民-国家」というものの虚構性と、その形成の要素と過程というものが、見事に描かれていると言いうる。

 だが、この映画では、大団円を迎えた後、エンディングで、歌と踊りのなかでインド建国の祖(ネルー、ガンジー…)たちが称揚され、国家というものが、絶対的なものであり、完成された形態であるかのように描かれる。もとより、この物語は、悪名高き大英帝国からのインドの独立を描いたものであり、そのナショナリズム的な色彩は濃厚である。国難に直面したとき、インド国民たちが立ち返る映画となるのかもしれない、とも思える。

 しかし、私は、この映画をプロパガンダだと非難したいのでも、この作品に熱狂するインド人をナショナリストだと、批判したいのでもない。チャップリンの言うように、すべての映画はプロパガンダであるから。

 それに、この映画からは、その国家主義的な民族意識の崇高さだけではなく、(ここまで述べてきたように)むしろ「国民-国家」を基盤としたアイデンティティというものの起源を読み取ることができる。そして、その起源に関する考察を通して、その国民意識とそこに端を発する国家主義を相対化し、再考することができよう。

 作品はたえず、読み替えられる可能性とその危機にさらされ続けている。

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?