Cool Design, Cool War――映画『ソーシャルネットワーク』について

*この記事は以前のアカウントで公開していたものを、書式を改め、再公開したものです。


 マーク・ザッカーバーグが、Facebookの構想を得てから、それを軌道に乗せるまでの映画――と言うと、よくある、成功者の伝記映画を思い浮かべるかもしれない。天才の苦悩と孤独、そして苦難の連続とその克服、そのような物語としてこの作品を読むことも可能だが、しかし、そこは、われらがデイヴィッド・フィンチャー。そんな浅薄なストーリーでは着地させない――


 ザッカーバーグがフェイスブックを興してからは、訴訟の連続だった。起業とは、企業運営とは、そういうものかもしれないと思いつつ、煮え切らないものばかりである。この映画は、そのしょうもない…否、企業の運営方針や根幹的な理念に関わる重要な問題をめぐる訴訟と、フェイスブックが東海岸の一大学の交流サイトから、シリコンバレーに進出し、ヨーロッパを含む100万人の利用者を獲得するまでの経緯を描いている。

 ザッカーバーグは、彼を大学内の交流サイトを作ろうと勧誘してきたエリートのウィンクルボス兄弟からその着想だけを「拝借」し単独でサイトを作って彼らを出し抜く。

 大学からの友人のサベリンは、それが「剽窃」だとは知らず、共同創業者として、資本金をすべて出資していたが、facebookにシリコンバレーで有力なファンドがつくと、彼の持ち株は希薄化され、社内での発言力と共同創業者という肩書きを失う。

 そして、彼に重要な助言を与え(たとえば、TheFacebook という当時の名から、冠詞をはずしてfacebookにするようアドバイスした)、西海岸に縁のなかったザッカーバーグをシリコンバレーの有力者たちに紹介したことで、社内で影響力を増していたパーカーは、ドラッグをめぐるスキャンダルで、失墜していく。彼は、利用者100万人を祝うパーティーで、コカインを所持し、未成年と飲酒しているところを警察に踏み込まれたのだった。

 このような経緯で、ザッカーバーグは、ウィンクルボス兄弟とサベリンに訴訟を起こされ、秘密保持協定と引き換えに、和解金を支払ったのだった。弁護士は、そんな金はいまのあなたにとって、スピード違反の罰金くらいでしかない、と言い、ザッカーバーグに支払うよう勧めたのだった。


 この数々のトラブルを、どのように見るべきなのか。

 サベリン失脚の根拠とされたのは、創業してまもなく、学内の新聞に些細な飛ばし記事(彼がクラブに入会した際の通過儀礼として強いられた行為を、facebook共同創業者による動物虐待だと糾弾するもの)でスクープされたことで、社の権威を貶めたということにあった。当時、サベリンは、彼らの事業に怨恨を持つウィンクルボス兄弟がリークし、掲載させたのだと考えていた。

 だが、サベリンは、社から追放された際、それがザッカーバーグによる工作だったのではないか、と思い至る。すでにその当時から、二人の間で運営方針をめぐって、対立が生じていた。
 
 パーカーの逮捕も、パーティーで狂乱し、大騒ぎしていたとは言え、それだけで、警察が複数名で踏み込んでくるというのは、間が良すぎる(パーカーにとっては悪すぎる)。

 状況証拠だけを並べるならザッカーバーグがサベリンのスキャンダルを捏造し、パーカーの犯罪を密告したと思うほかない。すなわち、彼が不要になった二人を抹殺したのだと。

 しかし、脚本家は、最後に新米女性弁護士に、訴訟を終えたザッカーバーグに寄り添わせることで、暗示してきた疑惑をオブラートに包み込んだ。彼女が、ザッカーバーグに「あなたは、悪い人間ではなく、そのように振る舞っているだけだ」と声をかけるのである。このシーンを以て、一連の物語は、無垢なる天才の孤独を描いた悲劇だったのだ、と解釈する視点が補強される。

 そして、弁護士が去り、彼はひとりになったあと、エリカ(大学時代の元恋人)のfacebookのプロフィールを眺める。彼女は、facebook創業以前に彼と交際し、その性格上の欠陥を喝破して関係を絶った(別れ話から発展した二人の口論がこの映画の冒頭のシーンであった)。

 だが、いまや、彼は、自らの作り上げたSNSに取り込むことによって、彼女を「征服」した。だが、それだけでは彼は満足できない。彼は、個人として、エリカに「友だち申請」を送るか、逡巡する。結局、彼はクリックすることなく、パソコンを閉じるのだった――。

 このラストシーンは脚本家の独創によるものであろうが、いかにもありそうであり、皮肉が利いている。そして、ザッカーバーグをめぐる観客の解釈に最後の最後まで揺さぶりをかける。欲望と怨恨に囚われた男か、不器用で不運な青年か――


 ザッカーバーグは常にフェイスブックは  cool でなければならないと説く。そのことが共同創業者との確執の種にもなっていった。一方、サベリンにも皮肉られるが、ザッカーバーグの身なりは決して「クール」であるとはいえない(この映画を観たザッカーバーグ本人は、映画のなかの自分が身を包んでいるファッションが、まさに当時の自分そのものだ、と語ったとか)。

 そしてフェイスマッシュなるサイト(エリカにフラれた腹いせにザッカーバーグが作ったもの。女子寮のサイトをハッキングして集めた女子学生の画像を二枚表示し、どちらが容姿として優れているかを選択させ、格付けする)や、エリカのプライベートの暴露と罵詈雑言を連ね、ミソジニーに満ち満ちた彼のブログも、「クール」さからはかけ離れている。

 だが、そんななかで、彼が自らの作り上げた作品たるfacebookだけは、執拗なまでに、「クール」であることを求め続けた。

 ザッカーバーグは、ウィンクルボス兄弟が制作していた「ハーバードコネクション」(facebookのアイデアの元となった交流サイト)が「クール」でないことを揶揄し、収益化を求めるサベリンには広告が「クール」さを損なうと強烈に反発し、唯一「クール」さを理解して洗練させてくれるパーカーには尊敬の念を、後に近親的な憎悪を向ける。

 兄弟は、名家の生まれで成績優秀、さらにはボート競技でオリンピックに出場、と輝かしいステータスを持ち、またサベリンはハーバードで有名なクラブに入会を許可された。パーカーはすでにカリフォルニアで華やかな生活と社交を謳歌している。

 皆、ザッカーバーグより「クール」な生活を送っているのである。だが、彼らはザッカーバーグより「クール」であるというまさにそのことによって、ある一側面において「クール」でないことを理由に(いや、「クール」でない一面を捏造されて、というべきか)、ザッカーバーグから追い落とされていく。 

 ひとが他者を攻撃する箇所は、当人にとって他者に攻撃されたくない急所である。


 この静かなる抗争、あるいは1分1秒をめぐる目まぐるしいIT業界・ビジネスの世界の競争は、それまでにフィンチャーが描いてきた連続殺人犯たちの凄惨なる暴力(『SE7EN』、『ゾディアック』)と異質なようでいて、響き合うものを持っている。前者は、ただ  cool な、すなわち、涼しげな戦いとして立ち現れているにすぎない。

 しかし、いまやテロリストでも、シリアルキラーでもないもっと「クール」な暴力によって、日々、人々は抑圧され、ときに抹殺されているのである。

 人命をも、数値化した効率性においてのみ評価し判断する、現代的な資本主義社会に対する冷ややかな視線は、『ファイト・クラブ』から一貫してフィンチャーの作品に底流している。

(『ファイト・クラブ』の主人公は、自動車会社に務めており、リコールの調査を担当している。自動車会社は製品に欠陥が見つかっても、想定される事故の件数と補償額の積よりリコール費用が高額である場合はリコールしない、すなわち、リコール手続きが、予想される賠償額の総額より高くつくなら、その欠陥でいくら人が死のうと構わぬ、というのである。多忙な毎日とそんな経済至上主義的な理念に嫌気が差し、彼は不眠症に陥っていた)

 また、ゾディアックが、新たな事件が発生するたびに異様な神話性を帯び、単なる殺人犯から異形の影の存在として、不気味にそのイメージが膨れ上がっていたのと同様に、世界的なプラットフォームを創造した男の偶像は、どんどんと神格化されまた悪魔化されていくだろう。

 鬱屈としながら、「クール」な「作品」だけを追求してきた一人の孤独な青年をそこに見出すか、 「クール」に次々と不要なものを抹殺してきた巨悪の執行人を見出すか、――その解釈は、結局のところ観客に委ねられる。しかし、フィンチャーはその深淵を覗き込むことのできる場所まで我々を連れて行くのである。

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