「悪は存在しない」のか?――映画感想文
高橋が死ななくてはならないのは、自然と人間の接触を見えないようにしようとするからである。高橋は撃たれた鹿のように立ち上がり、また倒れる。高橋は鹿である。はぐれて自然と人間の結界に踏み込んでしまった鹿である。
巧は、人を鹿が襲うことは絶対にない、という。結末から見ればそれは否認の言葉である。
鹿が人を襲うことはないというなら、わざわざグランピング場に柵を張らなくてもいいではないか、と高橋はいう。それなら、鹿はどこへ行くのか、と問う巧に、高橋は、どこか別の場所へ、と答える。巧は、それを聞いて言葉を呑みこむように煙草を吸う。
巧のいう柵とは、人と鹿を隔てるものではなく、人と鹿が限りなく接近できるようにするためのものである。どこか別の場所へ追いやるのではなく、隣り合って暮らすために。
その意味で、手負いの鹿と花の接触は、鹿と人との限りない接近である。彼らは隣り合って暮らしているのだ。そこに介入することは、鹿を「どこか別の場所」へ追いやることである。高橋が、花と鹿のあいだに割って入ろうとするのは、そのような意味において否定されるべきであるのだ。
それゆえに、巧は、そんな高橋の人間中心主義的な行為に我慢ならない。高橋は、人間(あるいは都市)の側から自然との結界に踏み込んできてしまった。彼は、自分がグランピング場の管理人になり、巧に助言を仰ぎたいと言い始める。それは、高橋の改心ではなく、資本の先兵として土地に入植することである。いうまでもなく、その行動はグランピング場という植民地開発を前提としている。
都市と地方と、あるいは中心と周縁と、が出会ってしまった。だから暴力は否応なく発動する。両者が、手負いの状況で、草原で出会ってしまったならば、相手が「どこか別の場所」へ行くまで、果たし合うしかない。その偶発的な接触によって、結果的に、花と高橋が死んだ。ただ、それだけである。たしかにそこに、悪は存在しない。
巧は花を抱えて闇のなかに消えていく。その急いた吐息が聞こえる。彼は、もはやいままでのようには、帰る場所を持たない。「自然」のなかへ帰るというのか。
悪は存在しない、という。ただ、相手を「どこか別の場所へ」追いやるために闘うだけだ。上に、「植民地主義」などと書いたが、たしかに、一方的に高橋が悪であるとは描かれていない。しかし、そうだとすれば、あの絵に描いたような社長とコンサルはなんだろうか。現代的な企業とコンサルのパロディとしては笑えるが、彼らが悪ではないというならもっと何かを描き込まなければならないのではないのか? そのパロディは、ただ紋切型の悪を提示したようにしか見えない。
悪は存在しない、などという何も言い得ていないタイトルに、まず煮え切らぬものを感じる。自然のなかには、摂理しかない、そこに善悪などないという程度の意味なのか。しかし、そうであるならば、では、その自然とは何なのか。前作『ドライブ・マイ・カー』を見て感じたことでもあるが、そこで描かれる自然・故郷とは、東京から見たものでしかない。都市の人間の紋切型の悪、それと同じ紋切型の自然、故郷。
なんとも煮え切らぬ。前作と同じように、雪に覆われた田舎と忙しない都会の二項しかなく、都市の人間と自然という図式のなかで、物語がすすんでいく。そのあいだにあるものは、高速道路からみえるのっぺりとした空間だけである。そのあいだにあるものはなんなのか。それを描かないかぎり、中心と周縁をめぐる神話的な物語の図式を出ない(そして、東京から見た「自然」・「故郷」というイメージの域を出ない)。そのような物語のなかでは、「悪」とか「倫理」というものがないのは当然である。なんとも煮え切らぬ。
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