偏在する母、遍在する家族――映画『誰も知らない』について

 この作品は、実際に起こった育児放棄と取り残された少年による兄弟の殺害・死体遺棄事件をモデルにしている。

 事件の背景には、親子の関係と責任の問題、そして庇護者を失った子どもたちを援助する社会的セーフティーネットの欠如という問題が根深く存している。そのような背景を指摘することは、起こってしまった事件を一般化し、社会問題として、構造の問題としてとらえることである。

 ジャーナリスティックにこの物語を語るなら、その問題点を鋭くえぐり出し、子どもたちはいかに発見され、いかに保護されるか、親はいかに責任を問われるか、というところまで映し出すべきである。そして、社会がいかにそれを受け止めるか(受け流すか)、ということも。

 しかし、それはあくまで、「ジャーナリスティック」に語る上での方法である。報道的に、ドキュメンタリー的にこの物語を語るのだとすれば、という仮定のもとでの話だ。

 この映画は、是枝監督の約15年の構想を経て、実現されたという。実際、モデルとなった事件の発覚から、映画の公開までは、16年間の開きがある。必ずしも期間の長短をもとにいうことはできないとしても、その15年あまりのあいだに、何が練り上げられたのか、ということを考える必要がある。

 ゆえに、この映画が、彼らが生活を続けていくさまを映し出して、終了すること、すなわちいっこうに彼らは保護されることがないことを示唆して、幕が引かれることを、問題の棚上げだ、として批判すること(実際、そのような否定的な感想は散見された)は当たらない。

 たしかに、素材となった事件は、発覚し、捜査・報道されたことで悲惨な背景が明らかになった。ジャーナリズムの成果である。映画でも、主人公の明たちが発見され、その生活の実態が白日の下にさらされたうえで保護を受けるという結果を迎えること、それが問題の解決であり、物語の結末であるべきだ、という考えもその意味で一理ある(是枝監督ののちの作品「万引き家族」は、そのような構造に近いといえる)。その方がわかりやすく、またこの映画が問うことが明瞭となるだろう。そして、このような過程に対する迅速な介入と支援を、直接的に訴えることにもなろう。

 だが、上述のような「ジャーナリスティック」な語りを求めるなら、当時の実際の事件報道でも見ているがよいだろう。それだけが映画ではない。


 
 「ジャーナリズム」とは、事後的なものである。事件が発覚してから、過去に起こったことが遡及的に掘り起こされていく。しかしこの映画が試みているのは、それを同時的に描くことである。そして、それを子どもたちの目から描くことである。

 それゆえに、彼らの母親がどこへ向かい、何をしているのかは、いっこうに描かれず、ただ家の前の通りを帰ってくるさまや、家で携帯電話への着信に応答するようすを以て示唆されるのみなのである。それは、隣人たちや同年代の子どもたちの生活についても同様だ。明たちが見ている以上の情報はほとんど映し出されることがない。

 そのことは、いわば問題を構造的に描くことを意識的に放棄していることを示している。報道的に、あるいは再現的(事件捜査的)にこの問題について語るなら、母がどこで何をしているか、隣人たちは当時何を感じていたか、ということも等しく映画のなかで明らかにしなければならない。

 だが、あくまでもこの映画は、子どもたちの見ている世界を映し出すばかりである。そのことに徹している。


 この映画の冒頭には、実際に発生した事件をモデルとしていること、一方で、登場人物の設定や心理描写がすべて「フィクション」であることが述べられた但し書きが提示される。末尾には、是枝監督の署名がある。

 ここに、この映画の目指すところが明らかとなっている。それは、あくまで「フィクション」としての描写を徹底することで、何かを訴えかけることを目的としているのである。

 そのことで、浮かび上がってくることのひとつは、たとえば、子どもたち自身が、保護を拒否しようとしていたという事実とその論理である。明たちが望んでいたことは、「4人で暮らすこと」である。彼らは保護されれば、4人が離ればなれになり、母と会うこともほとんどできなくなることを知っていた。だから、明は、警察に相談することを勧められてもそれを拒絶する。

 彼らには支援が必要である。それは間違いない。しかし、それを至上の正義として、絶対的なる論理として突きつけることを留保させることが、「フィクション」の大いなる役割である。


 この映画は、彼らの周辺に位置する、子どもたちの残酷さと大人たちの無関心を、あくまでも子どもたちの視線から映し出すなかで、浮かび上がらせている。学校に行っていない明たちを利用しつつも、仲間には入れようとしない子どもたち。明たちの家庭を支援しているようでいて、ただその状況を黙認しているコンビニ店員、部屋の異変を目撃しつつも何も言わないアパートの住人たちと大家。

 明たちは、世界から、社会から、救いの手を差し伸べられることはなかった。しかし、こうして虐げられ無視されてきた彼らのなかにもその残酷さと無関心の萌しがある。明は、重くのしかかる不安と絶望、「一家の長」であってしまうことの責任感(母親から忘れた頃に送られてくる金と、同封された一筆箋に書かれた「頼りにしてるわよ」「みんなをヨロシク」ということばは、励ましではなく、むしろ明を縛る呪いだ)に、苛立ち、焦り、きょうだいたちを放棄して、遊びに出かけるようになる。

 もちろん、彼を責めることはできない。彼を絶望させ、それでもなお、責任を負わせる構造の問題がある。しかし、それは多かれ少なかれ、周囲の人間たちにもいえることである。コンビニで細々と働く大人も、ゲームセンターに遅くまで屯する子供も、社会的な圧迫を受けている。彼らもまた、他人に構っている余裕などない。あえて言えば、それぞれ明たちと彼らが置かれた状況の差は、程度の問題でしかない。

 登場人物たちは、明たちきょうだいも含めて、等しく邪悪である。身の回りの者たちを「知らない」ことにして、無関心を決め込む。そして、気まぐれに憂さ晴らしに出かける。

 生活を維持できず、また妹を死なせてしまったことについて、明たちの責任を問うことはできない。彼らは悪くない、といってよいだろう。しかし、そのことは、彼らが純粋で無垢なる子どもであることを意味しない。一方で、彼らのなかに残酷さや無関心が萌しているからといって、彼らが彼ら自身の境遇と帰結に責任を持っているわけでもない。その至極当然でありながら、複雑で微妙な論理を、映画のなかで映し出し続けることは、容易なことではない。

 人間的な邪悪さを、邪悪な世界に苦しめられている明たちのなかにも等しく描きだしているところに現実の冷厳さが表れている。そして、製作者の胆力が。


 ところで、空港の見える岸辺で、紗希と明はいかにして夜を明かしたのだろうか。妹を埋め、その前で、ひざまずく彼らの手が重なる。夜が明ける。早朝の電車で、うつろな表情で町に帰っていく。彼らの服は土にまみれている。その土は、土を掘ったときについただけなのか。彼らの虚脱は、妹の喪失感だけなのか。

 その想像は――彼らにもまして邪悪な私の下世話な妄想だとしても――このあと、彼らがどうなっていくか、ということについて考える上で、重要な問題である。

 明と紗希が、男女関係になったとき、そして紗希が彼らの家のなかに家族の一員であるかのように入っていくとき、明は擬似的にでなく、真の意味で、父となる。

 物語の末尾で、紗希が彼らに寄り添い、彼らとともに生きているところを描いて、映画は終わる。そのとき、紗希の服は綺麗だ。彼女だけは、何年も着古して、公園の蛇口ですすぎ続けた服ではなく、しばしば買い換え、家で洗濯した服を着ているようである。すなわち、紗希もまた時折帰ってくる母として、3人の前に現れる。それがこの家族のあり方なのだ。その意味で、物語は反復される。

 そして、上の「想像」を進めるなら、紗希が新たな母として、子を宿すことも想定される。そのとき、家族として安定したかに見えた「4人家族」の関係は、崩壊せざるを得ない。紗希はその事実を自らの両親、そして明にいかに伝えるべきか苦悩するだろう。彼女は絶望する。ひとり、出奔するかもしれない。あるいは、その駆け落ちの旅路に明をいざなうかもしれない。絶望的な愛に殉ずることを選ぶということも考えられないことではない。そのとき、この家族は、またしても「母」を失い、場合によっては、「父」の存在はなかったかのようにされうるのである。

 彼らのなかに、とくに明のなかに、「残酷さや無関心が萌している」と上に述べたが、それは彼が良くも悪くも、彼が大人になりつつある、ということである。成熟しつつある、ということである。儀礼的な妹の埋葬を終えたあとで、明はイニシエーションを経て、「父」としてのありようを身につけたのかもしれない。それは、彼が真に「一家の長」として、「大人」として、振る舞うことが可能となり、またそうせざるを得なくなっていくということである。

 すると、また「子どもたち」(つまり妹と弟)は取り残され、忘れられていく。いや、ないものとされていく。「お母さんは勝手なんだよ」という、明の、母に対することばは、そのまま自らに跳ね返ってくる。明はとまどいながらもこう答えるほかない。「おれは幸せになっちゃいけないのかよ」。

 こうして、家族は増え、また分裂していく。その過程で不幸にも家族が減ることもあるだろう。彼ら家族はどのように変化し、生活していくだろうか。

 紗希が加わって自足したかに見える家族は、大人たちの無関心とその装いによって、変貌しつつ続いていく。そのきわめて小さな幸福と、深甚なる孤独と欠如について、この映画はそれ以上のことは何も語らない。

 彼らがいま何人でどのように暮らしているかは定かではない。われわれが見ないようにしている日常の狭間で、彼らは、二人か、はたまた五人かそれ以上か――明の母が、隣人たちに二人暮らしだと言いつつ、ひそかに五人で暮らしていたように――それを明らかにすることさえなく、ひっそりと生きているのである。

 その意味で、この映画のラストシーンは、全面的に肯定される。この物語のなかの「事件」は終わっていないのである。彼らは、ひっそりと、社会から隔絶されて、われわれのすぐ隣に住んでいるかもしれない。われわれは、ほんとうに隣人のことを知っているだろうか。どれだけ周囲の人々と関係を築くことができているだろうか。

 彼らは、いまなお保護を受けることなく、生活の実態をひた隠しにしながら、われわれの近くに住んでいる。作品が突きつけるのは、そのことである。

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