〔前篇〕芥川はなぜ革命家の問題となるのか――宮本顕治「「敗北」の文学」(1929)

1 文芸批評家・ミヤケン

 
 のちの共産党委員長として悪名高いミヤケンが世に現れたのは、新進文芸批評家としてであった。その最初の文芸批評が、この芥川論であり、1929年の『改造』の懸賞論文で、小林秀雄「様々なる意匠」をおさえて一等となったことは、文学史上の有名なエピソードである。

 共産党員として活動をはじめたあとも、宮本は文芸評論を書き続けることになる。いま、その成果は重厚な『宮本顕治文芸評論選集』全4巻に見ることができる。

 さて、宮本は当時、東京帝国大学在学中の20歳。日本共産党入党は、卒業後の1931年であるので(すでに思想的には共産主義であろうが)、指導者ミヤケンの本領を発揮する以前である。しかし、すでにその相貌は伺える。

 言うまでもなく、宮本は、芥川龍之介(1892-1927)の作品を批判する。しかし、批判の俎上にあげることは、それは批判的にであれ、作品への検討の余地を認めることであり、むしろ最大限の評価を与えることである。実際、宮本は、芥川の全集を渉猟し、処女作から遺稿まで、小説から随筆まで、芥川が書き残したあらゆる文章に目を配りながら、丹念に論を進める。

2 なぜ芥川龍之介か


 2.1 なぜ有島武郎、ではないのか

 
 ところで、なぜすでにマルクス主義に傾倒している宮本顕治が、芥川をかくまで熱心に読みこみ、一篇の批評文まで書き上げたのか。当時、すでにプロレタリア文学とよばれる新たな作品群が登場しており、またマルクス主義に接近する文学者も少なくなかった。

 そのなかで、なぜ芥川なのか。

 たとえば、有島武郎(1878-1923)は? 

 有島は、マルクス主義やクロポトキンの理論に共鳴し、大杉栄を支援するなど、勃興しつつあった日本の左翼運動にシンパシーを抱いていた。一方、実業家の父を持つ有島は、膨大な財をもつ有島家の長男としての立場に、葛藤を感じていた。有島が、クラーク博士の精神を継ぐ札幌農学校に入ったのも、父の所有する農場の経営を将来的に担うためであった。しかし、その特権階級的な立場に甘んじることのできなかった有島は、のちに農場を農民たちに無償で解放し、一家の財産も放棄しようとした。そして、(そのほかにむろん、さまざまな理由はあれど)、「不倫」相手の波多野秋子との心中に至ることになる。

 有島と芥川のあいだには、共通点も少なくない。東京に生をうけ、高等教育を受けていること。在学中から文学を志していたこと。プロレタリア運動とマルクス主義に、いち早く共鳴し、自らの階級的な立場との葛藤に悩んだこと。そして何より、破滅的な死を迎えたこと(芥川も、自宅での自殺の直前に、不倫相手との心中を計画し、実行寸前まで至っていた)。

 では、両者の違いとは何か。宮本は、有島について言う。《有島氏の持った苦悶は、未だ苦悶の中にも殉教者的な稚気を帯びている》。あるいは、

痛み多い苦闘を見せた末年のニヒリズムの萌芽にもかかわらず、とまれ、有島氏の歩みには最後まで「愛」と「人道」についての確信らしいものが匂っていた。遺書にある「私達は自由に歓喜して死を迎へる」という言葉は偶然に書かれたものではない。

宮本顕治「「敗北」の文学」

 有島は、自由・平等・博愛というフランス革命の理念を、死に至るまで捨てきれなかった。フランス革命とは、ブルジョア革命であり、そこで確立された経済体制(=下部構造)こそがブルジョア的な道徳(=上部構造の一形態)を規定している、とされる。

 しかし、20世紀に入ったいま、目指されているのは、そのブルジョア資本主義の打倒であり、もはやそれを基盤とする「愛」と「人道」という理念も、その体制とともに棄却されるべきものだ。

 それゆえに、プロレタリア革命を切望する宮本は、そのようなブルジョア的な理念に対しては、徹底した批判を加えるのである。

 2.2 なぜ芥川龍之介、であるのか

 
 一方、宮本が芥川に向ける視線は対照的である。いま芥川を論じる意義を次のように語る。

やがて「実践的自己否定」に到達せずにはいられない後悔に満ちた自己批判が、末期の氏の中に磅礴している。その批判の中にもインテリゲンチアに課せられた重荷である懐疑や、自尊心から脱することが出来なく、それを決裂に至るまで神経の先に凍らしている氏こそ、ブルジョア文芸史に類稀な内面的苦悶の紅血を滲ませた悲劇的な高峰であると言えるだろう。それこそ市民的社会の開化期から凋落期に及ぶ文化的環境に育まれた記念碑的な存在の一つであろう。こうした芥川氏の文学を批判の対象とすることは、単に私の個人的なインテレストのみでなく客観的にも無意義でないことを信じている

宮本顕治、前掲書

 ミヤケン弱冠ハタチの文章である。微笑ましく思えるほどに、過度にも思えるレトリックだが、その高い評価は伺える。

 有島との違い、という点で言えば、ブルジョア的な理念を疑い得なかった有島に対して、芥川は、徹底した懐疑を向け、それが必然的に「自己(=小ブルジョアたる私)否定」に至った「悲劇的な高峰」であるのだ。

 2.3 革命戦士と芥川

 
 さらに、芥川の氏の報に触れて、「大層可哀そう」という心からの念にとらわれた中野重治や、《氏の生涯とその死とは、私の心をとらへて離さないものがある。……私たちは芥川氏を批判することは出来る。だが、芥川氏をすてて顧みないことは出来ない。自分の中にも芥川氏があり、芥川氏の死が在るからである》と述べた青野季吉の例を出して、芥川龍之介が、革命に共鳴する青年たちのこころを捉えるさまを描き出している。

 ほかにも、宮本は「駄目だ! 芥川の『遺書』が――『西方の人』が、妙に今晩は、美しく、懐かしく感じられるのだ」という、無名のある同志のことばを引いている。

 革命戦士たるもの、芥川なんぞに心引かれてはならないのである。そんなことでは「駄目だ!」。しかし、どうして、反革命・芥川に、革命家たちは心引かれてしまうのか。要するに宮本の問題意識は、そこにある。

3 芥川の文学的生涯


 3.1 プチブル的「自我」


僕はイゴイズムを離れた愛の存在を疑ふ(僕自身にも)。僕は時時やりきれないと思ふ事がある。/何故こんなにして迄も生存を続ける必要があるのだらうと思ふ事がある。そして最後に神に対する復讐は、自己の生存を失ふ事だと思ふ事がある。/僕はどうすればいいのだかわからない

芥川龍之介 井川恭宛書簡(1915年3月9日付)

 これは、宮本が引用している、芥川の親友宛の書簡の一節である。革命家、いや憂鬱なる青年たちを捉えるのは、このような芥川の苦悩である。しかし、宮本は鋭く指摘する。《この表現の中においても我々は小ブルジョアジーの諸属性の中で、「自我に関する思索」こそが基本的な一線であることを知るのである》。

 プチブルは自我に拘泥している。該博な知識や高度な語学力を備えても、彼らの問題意識が回帰するところはつねに、「自我」の問題なのである。

だが、彼の豊富な知識が著しく小ブルジョア的狭隘性を含んでいることを鋭く指摘しなければならない。こうして「彼」の行為、思索は、常に自我を中心として回転している。彼の問題にするのは、本質的には自己である。「彼」はそれに没頭し、現実はともすれば自我のみであるように思って来る。そして最後に、「彼」は自我を愛する。しかも、外界は激しい刺戟と動揺を「彼」に浴びせかける機会に満ちている。「彼」は自己を防衛しつつも、ともすれば、孤独感や、空虚感に苛まれるのである。

宮本顕治、前掲書(強調は引用者――以下同様)

 ここで、「彼」というのは、晩年に発表された芥川の自伝的小説「大道寺信輔の半生」の主人公のことである。芥川自身をモデルとしているため、「彼」は、この論では、ほとんど芥川本人に重ねられている(作中人物=作者として論じることの問題はここでは問わない)。

 宮本の言に従うなら、プチブル・インテリゲンツィアは自我の問題に没頭しつつも、その問題に苦闘するところの自己を愛し、閉鎖性に陥るのである。自我に絶望していながら、「自己が自己自身であろうと欲する」(キルケゴール)のである。その問い自体は誠実である。この段階を経ずして、この問題系を脱することはできない、「信仰」には至れない、とキルケゴールは言っている。


(裏を返せば、現代の私たちが、絶対的な問題であるかのようにとらわれづけている、「私が私であるところのもの(=アイデンティティ)とはなにか」、「私が私を愛する(=自己肯定感の上昇)にはどうするべきか」というような問題は、「一億総中流」によって肥大し、通俗化したプチブルという階級によって規定されたものでしかない。すなわち、まったく普遍的な問題などではないのである。)


 しかし、そのような卑小な自己に内向し、そこに閉じこもることは、(とくに革命家たちには)強く批判されなければならない。《もし、彼が何物かに安んじていたとするならば、それは落莫とした孤独であったであろう》。

 3.2 モラルか、芸術至上主義か

 
 そして、芥川は、よきモラリストであった。芥川はしばしば、芸術至上主義者である、と評される。しかし、宮本は、そのような主義にすら芥川はつけなかったのだ、と言う。

 例えば、『地獄変』(1918)。

 主人公の天才絵師・良秀は、絵を描くためなら、何ごとも厭わない。目に見たものしか書けないから、「地獄変」の絵を描け、と命ぜられれば、弟子を縛り上げて、禽獣に襲わせ、その様子をまじまじと見て、絵の参考にする。最後には、(これは、良秀が自ら用意したのではなかったが)、自分の娘が乗った車に火がかけられ、娘がもだえ苦しみ、車がごうごうと炎上していくさまを、はじめは茫然としつつも、すぐに恍惚として見上げる。

 この作品を通じて、良秀こそ、そしてそれを描いた芥川こそ「芸術至上主義者」とするのが、世間に流布した見方であるが、宮本は、その結末に着目し、その評価に異議を差し挟む。

道徳的な芥川氏の一面は、やっぱり、良秀に縊れ死にの結末を与えずにはいられなかったのだ。その前には一切を蹂躙して悔いない芸術的気魄を示しながら、氏のヒューマンな半面は、その蹂躙を妨げるのだった。芸術は氏にとっては最上の城砦ではあっても、氏の全部とは成り得なかったことを、いみじくもここに知らされるのである。氏は芸術上の至上主義者とはなり得なかった。畢竟、氏は、芸術的な――甚だしく芸術的な気質に住んでいながら、それに安住することが出来なかった。

宮本顕治、前掲書

 「地獄変」は、良秀が縊死しているところを描いて幕を下ろす。すなわち、「芸術至上主義者」には、作者によって、死の運命を与えられるのだ。 

 芥川は、芸術至上主義に与することさえできなかった。それは、「小ブルジョア」的な道徳から、そして芸術に対する懐疑(それは前者によって生じる想念であるかもしれない)から、逃れることができなかったからなのである。

 3.3 民衆の方へ

 
 芸術は至上である。いや、芸術は、道徳を超えてあるものなのか。しかし、その道徳さえ、自らの階級的な意識によって刻印されたものではないのか。

 (宮本が描き出すところの)芥川の苦悶とはこのようなものである。

(1)文芸上の作品もいつか滅びるに違ひない……ボードレールの詩の響きもおのづから明日異なるであらう。……しかし一行の詩の生命は僕等の生命よりも長いのである。 

(2)シエクスピアも、ゲエテも、李太白も、近松門左衛門も、滅びるであらう。しかし芸術は民衆の中に必ず種子を残してゐる。

(1)「文芸的な、余りに文芸的な」、(2)「侏儒の言葉」(ともに1927)、

 芸術至上主義の相対化、ともとれる一節。そのあとで、絶対化されるのは、「民衆」である。

氏の軽蔑していた民衆こそ、偉大なる想像力をもって、ゲエテを――そして氏をも乗り越して突進するものであることを認めたとき、芥川氏は小ブルジョアジーのイデオローグにすぎない氏の文学も、いつかは没落しなければならないという告知を、新興する階級の中に聴いたであろう(・・・)。/あらゆる天才も時代を超えることは出来ないとは、氏の度々繰り返したヒステリックな凱歌であった。こうした絶望そのものが自我を社会に対立させ小ブルジョア的な魂の苦悶でなければならない

宮本顕治、前掲書

 そのとき、芥川の念頭に置かれていたものこそ、プロレタリア階級の民衆であると宮本は言うのである。

 芥川が晩年にマルクス主義に接近し、プロレタリア文学にも共感を向けていたことは、知られている。そのことが、マルクス主義者に好意的に受け入れられた一つの要因でもあるだろう。よって、宮本の見解は、「民衆」という芥川のことばを肥大化して捉えているとはいいがたい。

 芥川は、そののちも古典的な素材を通じて、封建的な権威をリアリスティックに、ときにアイロニカルに描き続ける。ブルジョア的封建制度は、徹底的に批判されなければならない。


(ちなみに二段階革命論を唱える日本共産党の歴史認識によれば、まだ日本は「半封建主義」の段階に存するのであり、ブルジョア的な封建制度はアクチュアルな批判対象である。日共に近い講座派と労農派とのあいだで行われる、日本資本主義論争は1930年代から本格化し、党の指導者に上り詰めていく宮本は前者のイデオローグとなる)。


 しかし、そのような封建制とそれが保証するところの権威に対して芥川が向ける、アイロニカルな視線も、プロレタリアートによる革命を唱える者たちにとっては生ぬるい。《氏の嘲笑が封建的なものに向けられている場合にすら、氏は小ブルジョア的な節度を脱することができないのである。氏は結局爆弾を手にした実践的な嘲笑者とは遙かに遠いものであった。》

 芥川の小ブルジョア的節度とはいかなる態度か。

芥川龍之介氏もまたあらゆる孤独な小ブルジョアインテリゲントのように「善悪の彼岸」に立つことを愛していた。「矛盾する二つのものが自分にとって同じ誘惑力を有する也。善を愛せばこそ悪も愛し得るような気がする。」「自分は醜い物を祝福する。」――(『書簡集』)――善悪を同一的範疇に見ようとする心理的根拠を、我々は、現在社会にたいする小ブルジョアジーの絶望的な不調和の中に見る。

宮本顕治、前掲書

 ここでいう、「善悪の彼岸」とは、二項対立の優位と劣位の差異を無化することである。善が悪に対して、真であり美であることによって優位にあるのではなく、それは等価であり、両者が両者を互いに規定しているという考え方である。

 あるいは、芥川が「醜い物を祝福する」と述べるとき、ロマンティックアイロニー的な優劣の転倒が行われている。

 いずれにせよ、それぞれの価値は変化しても、何が善で、何が悪かということは、芥川的な思考の中で揺るがない。ここでの「善悪の彼岸」とは、善=真かつ美、悪=偽かつ醜、という一般的な思考様式から、川を隔てた地点のことである(むろん、ニーチェ的な「善悪の彼岸」とはかけ離れている)。

 しかし、宮本は、それでは不徹底であると批判するのである。宮本は、ブハーリンのことばを引いて言う。(ブハーリンは、ソ連の共産党の理論家であり、宮本の執筆当時はコミンテルンの執行委員会議長であったのだが、その後、大粛清のなかで銃殺されることになる)。

「善悪の彼岸に立つとは何を意味するのであろうか。これは一定の社会秩序の地盤の上に発生した善悪に関する一定の観念の領域において判断することが出来ないやうな偉大なる歴史的事業を遂行することを意味するのである。」〔ブハーリン――引用者〕/ かくて、氏の善悪を超えようとする努力が如何に不可抗的な矛盾に立っていたものであるかが理解出来るであろう。氏は芸術の前には、冷然と道徳をも踏み躙ろうとした。

宮本顕治、前掲書

 ブハーリンが言う「善悪の彼岸」とは、宮本が芥川を評していう「善悪の彼岸」とは異なる。ブハーリンは、善悪の優劣どころか、何が善で何が悪か、ということさえ明らかでないような地点を「彼岸」と呼んでいる。

 そこでは、「悪を愛する」ことも、「醜い物を祝福する」こともできない。何が善で、何が醜かも、もはや自明ではないからである。そのような地点に至らしめることこそ、革命なのである。

 芥川の「道徳をも踏み躙ろう」とするひとつの試みが、「地獄変」であり、また殉教者の「情熱」を描いた「奉教人の死」であったわけだが、彼はやはり最終的には、《一時代の一階級の道徳律を超えることの出来な》い《古風な人情家》たらざるを得なかった。その道徳律とは、いうまでもなく、(プチ)ブルジョア道徳のことである。

 ここにおいて、芥川は、自らの出自の問題、階級の問題に直面するのだ、と宮本は指摘するのである。しかし、その問題は、多かれ少なかれ、作家も革命家も向き合わざるを得ないもので、それ自体、特別なことではない。

 宮本が芥川を最大限に評価し、また完全に否定しようとするのは、以後、貫かれる芥川のその問題に対する真摯な姿勢であり、また限界を迎えざるを得ない方法においてであった。(後篇に続く)

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