われら故郷なき者――小林秀雄「故郷を失つた文学」について

私は人から江戸っ児だと言われるごとにいつも苦笑いする。何故かというと、 そういう人が江戸っ児という言葉で言い度い処と、私が理解している江戸っ児という言葉との間にあんまり開きがありすぎるからだ。東京に生まれた私ぐらいの歳頃の大多数の人々は、私ぐらいの歳頃で東京に生まれたという事がどのくらい奇っ怪なことかよく知っている。それは到底江戸っ児などという言葉で言い表わせるものではない。

小林秀雄「故郷を失つた文学」(1933)

 
 ここで、「江戸っ児」といわれているところのものを、「シティボーイ」とでも読み替えてみれば、現代の東京生まれの人々にも、いやほかならぬ私(東京出身)自身にも共感できる文章である。

 東京を出ると、東京出身だというだけで、人から「シティボーイ」だね、などと言ってもらえる。そこでは、僕がたとえば「山の手」の生まれか「下町」の生まれかなどということは問題にされない。その「シティボーイ」たる本領がどこに存するのか全く不明瞭であるように、「江戸っ児」ということばも、当時その実態を失いつつあったらしい。

 小林は1902年(明治35年)の生まれである。彼が生まれたときにはすっかり「江戸」は「東京」になっていて、彼らの親世代ももはや「江戸」を知らないであろう。すでに、「江戸」はすっかり遠い昔のものとなっていた。かくして、伝統的な「江戸」と隔絶された「奇っ怪な」東京に小林は生まれ、育ってきたのである。

 では、そのとき、感じられる「奇っ怪」さとはなんなのか。

私の心にはいつももっと奇妙な感情が付き纏っていて離れないでいる。言ってみれば東京に生れながら東京に生れたという事がどうしても合点できない、又言ってみれば自分には故郷というものがない、というような一種不安な感情で、この感情には、ロマンティックな要素は微塵もない、という事は容易に解ってもらえそうに思われるが、それと同時に、この感情には、本当にリアリスティックな要素も少しもない、という事はそう容易に解って貰えそうに思われない。

同上

 小林は、これに続いて、先輩作家の滝井孝作とのエピソードを綴る(滝井は1894年生まれで、小林の8つ年上である)。京都からの帰路、同車していた滝井がふと外に現れた山際の小径を見て、《子供の頃の思い出が油然と湧いて来て胸いっぱいになる》などと語った。それを聞いて小林は《自分には第一の故郷も、第二の故郷も、いやそもそも故郷という意味がわからぬ》と感じたという。

 それを踏まえて、上の引用に目を向けよう。小林は「故郷がない」という不安な感情に「ロマンティックな要素は微塵もない」と同時に、「リアリスティック」な要素もないと言う。それはいかなる意味においてなのであろうか。

 小林は、自らの幼年期を振り返って、《物事の限りない雑多と早すぎる変化のうちにいじめられて来たので、確乎たる事物に則して後年の強い思い出の内容をはぐくむ暇がなかった》という。

 彼は、成長の過程で、都会のめまぐるしい変化に晒されつづけてきた、と言うのである(近代化・都市化著しい東京の街のめまぐるしい変化に晒され続けることから来る疲労とアンニュイとでも呼ぶべき感情は、再開発なるジェントリフィケーションの波押し寄せる現代の都市に育った者にも、容易に想像しうるものであろう)。

 それは、通りがかった田園風景の中に、自らの幼年期を見出す滝井とは、はっきりとした対照をなすものである。すなわち、《思い出はあるが現実的な内容がない。ほとんど架空の味いさえ感ずる》と。故郷がない、という感覚がリアリスティックな要素を持ち得ないのは、思い出が「現実的」でなく、「架空」であるかのようにさえ感じられるからである。都市の時空間は、すべて均質化されていき、表面だけ書割のように次々と入れ替わっていく。


 その現実性、具体性の欠如から来る人々の空疎な感覚とその渇望はさまざまな事象に見て取れるのだ、と小林は言う。たとえば、登山ブーム。

 小林は、登山を趣味としていた(「日本百名山」で知られる深田久彌とは旧知の仲で、深田との登山を回想したエッセイもある)。しかし、自然の美を見出すべく山に入っていくことは、《実はそれは日常観念的な焦燥の一種の現れに過ぎないのではないか》と考える。《山の美しさに酔うことと抽象的な観念の美に酔う事》とは実によく似ている、と。そう考えれば、《近頃の登山の流行などには容易に信用が置けない。年々病人の数が増える、そんな気がする》。

 "山の自然美" に触れたくなるのは、たとえば筑波山の樹木に文字通り触れて、筑波・常陸という土地と直接繫がる、というような経験を欲しているのではない。休暇になると、都会から逃亡するかのように「田舎」に帰り、「自然の美しさ」に触れたい、と望む。そこには、「田舎」とか「自然」とかいったものの「抽象的な観念」しかなく、それは具体的な対象を欠いている、というのである。

 あるいは、ドストエフスキーの長編『未成年』にも、主人公が「西洋の影響で頭が混乱して、知的な焦燥のうちに完全に故郷を見失っているという点で、私たちに酷似している」ことを見出す。

 浮かび上がってくるのは、その現実性の欠如というものが、「西洋-近代-抽象的-観念的」という図式で捉えられていることである。

 そして小林は同時代の日本の文学に、その図式を援用して、分析を試みる。

今日の新文学はただ青年の文学だというだけではないようだ、青年の文学、而も青春を失った青年の文学だと言えやしないかと思う。その特徴は、企図はどうあろうとも出来上った処は等しく観念的であり、即物的な味いが自然主義以来益々欠如して来た処にあるのではないか

 そして、その背景には、「今日の社会経済問題」に加え、《急激な西洋思想の影響裡に伝統精神を失ったわが国の青年達に特殊な事情、必死な運命を読む事もできる》という。漱石が「現代日本の開化」(1911)でいうところの《皮相上滑りの開化》を想起してもよい。漱石は、《こういう開化の影響を受ける国民はどこかに空虚の感がなければなりません。またどこかに不満と不安の念を懐かなければなりません》と述べていた。ついにその感情が、世代的に通底する実感として、浮上しはじめたのである。

 ロシアの青年たちと連関するのは、その時代的・地政学的条件が規定するところの病理である。そのとき、上記の「西洋-近代-抽象的-観念的」という系列に対して、「東洋-前近代-具体的-現実的」という対立項が想定される(このとき、前者にインテリゲンツィア、後者にナロードニキを置くのが、ロシア的な問題意識であり、日本の若いインテリにも共有される図式である)。

 故郷の喪失とは、《皮相上滑りの開化》が推し進められたことによる、伝統や民衆(ナロード)との紐帯の喪失のことだ、とひとまず言ってよい。ここでいう、伝統とか民衆というものも、アナクロニスティックに想定されるところの仮構的なものでしかないのではないか、ということは、ひとまず措く。小林は、「伝統」とか「民衆」ということについて、この文章の中で、何と言っているのか、はあとで触れる。

 
 故郷を失った者たちを「病人」と表現する小林は、故郷という具体性、現実性をもった「健康な」者たちについて語る。《確乎たる環境が齎す確乎たる印象の数々が、つもりつもって作り上げた強い思い出を持った人でなければ、故郷という言葉の孕む健康な感動はわからない》。

 あるいは、自身の母親について、《別に何んの感動もなくごく普通な話をして、それでいて何かしらしっかりとして感情が自ら流れている。何気ない思い出話が、恰も物語の態を備えている》。小林は、彼等がこのような「架空」でない「現実性」を帯びた思い出を持っていることを、率直に「羨ましい事である」と述べている。

 ここで、故郷喪失者たる小林は、そのロマン主義的な欲望を漏らす。文明に晒されていない自然への憧憬、そしてそのような環境で生まれ育ってきた滝井や母親たちが持っている素朴で「健康」な「確乎たる」思い出と物語、かような自然的=本来的(natural)なものに対して美を見出すような在り方は、きわめてロマンティックなものであるといってよい。

 小林の「故郷がない」という感覚は、リアリスティックではないことは、むしろ容易にわかる。一方で、それはロマンティックなものでしかないのである。

 
 だが、小林はむろん、「故郷に帰れ」と主張するのではない。小林は、このエッセイを谷崎潤一郎のエッセイを引用することから始めていた。

 谷崎は、《現代の日本には大人の読む文学、或は老人の読む文学と云うものが殆んどないと云ってよ》く、「所謂純文学」を読むのが、「文学青年」に限られていることを指摘した上で、《その原因は文壇の側にもある》と主張する。 すなわち、文学青年だけのための――あえて言えば、メランコリックな青年の病的な精神だけのための――「純文学」ばかり生産していてはならない、と谷崎は言っているのである。

 その上で、「心の故郷を見出す文学」――「一生の伴侶として飽き」ることのない「真の文学」――を主張する谷崎に対して、小林はいったんその指摘を受け止める。たしかに、不健康な青年的性格ばかりを活写した自然主義的な文学が跳梁する現代は、文学が社会に齎す利益よりも、「害毒の方が少々大きくならざるを得ない」と、小林は認める。

 そして、それがいわば高尚な内容をとりあつかっていようと、それよりも大衆は時代小説や時代劇、あるいは西洋ものの映画を楽しんでいる。それは、彼らが作品の内容(ここでは、深み、とか、実感、などと言い換えても良いだろう)ではなく、「内容がどうこうなどてんで言わせないで観客の心を引きずって行く」ところに魅力を感じているからである。芥川龍之介との論争のなかで筋のある小説を擁護した谷崎とも通ずるところのある見解である。また、「病的」な私小説のはびこる文壇への問題意識も、両者の間で共通しているであろう。

 だが、小林は、「文学どころではない、私には実際上の故郷というものすら自明ではない」、と谷崎の提出する概念の自明性にも疑問を付す。谷崎が憂う事象はむしろ、谷崎が言うような「心の故郷」というものが自明でないことから生起しているのではないか、『未成年』が描き出しているところの、青年期の「故郷を見失った」不安な感情がそのような文学を書かしめ、文学青年たちに受け入れられているのではないか、と。

 すでに、故郷というものは失われている。「世界に共通な今日の社会的危機という事が言われるが、こう言う事を考えていると、日本のいまの社会は余程特別な壊れ方をして居るのだとつくづく思わざるを得ない」と小林は言う。しかし、だからといって、田舎に帰れ、とも文明を排せ、と主張することに意味はない。あるいは、谷崎のように、東洋趣味へ回帰して安穏とすることもできない。

 ゆえに、「谷崎氏の東洋古典に還れという意見も、人手から人手に渡る事の出来る種類の意見ではあるまい」と、相対化するほかない。1886年(明治19年)生まれの谷崎は、小林より16歳年長である。その谷崎は、東洋古典を文学上の故郷とし、(日本橋で生まれ、湯河原で没しはするが)日本文化の故郷たる関西に居を定めることができた。

 そうであるならば、この故郷喪失を認めた上で――故郷への道は完全に寸断されたという、その条件の下で――、文学を語るほかないのである。故郷のなさは、新たな時代性を画する契機とされねばならない。

私達は生れた国の性格的なものを失い個性的なものを失い、もうこれ以上何を奪われる心配があろう。一時代前には西洋的なものと東洋的なものとの争いが作家制作上重要な関心事となっていた、彼等がまだ失い損なったものを持っていたと思えば、私達はいっそさっぱりしたものではないか、私達が故郷を失った文学を抱いた、青春を失った青年たちである事に間違いはないが、又私達はこういう代償を払って、今日やっと西洋文学の伝統的性格を歪曲する事なく理解しはじめたのだ。西洋文学は私達の手によってはじめて正当に忠実に輸入されはじめたのだ、と言えると思う

 上に引いたように、小林は「故郷がない」という感情には、ロマンティックな要素はあり得ない、ということを自明としている。しかし、「故郷がない」と語ることは、逆説的に故郷について拘泥することである。むしろ、「故郷がない」ことを故郷であるとするかのような。

 
 故郷とその喪失ということが、思想上の問題となるのは、日本特有の問題などではない。いわゆる戦間期の世界的な潮流であると言ってよい。マルクス主義の流行による、プロレタリア(=自然)への、あるいは党(=家族)へのコミットメント(=帰郷)の問題、そしてそこから離脱する「転向」(=故郷喪失)の問題は、若きインテリにとって、実存的な切実な問題であった。

 マンハイムによる「自由に浮動するインテリゲンツィア」という概念の提出や、ヘルダーリン読解を通じたハイデガーの「故郷喪失」の問題化とその存在論的な検討は、近代化や、国家とイデオロギーの覇権争いといった時代背景と切り離せない。

 ここにおいて、確かに、日本の青年たちは、西洋文学を「歪曲する事なく理解しはじめた」と言いうる。世界的な時代状況との同時性を獲得したからである。もはや、日本文学の問題は、日本特有の問題ではない。

《歴史はいつも否応なく伝統を壊す様に動く。個人はつねに否応なく伝統のほんとうの発見に近づくように成熟する。》

 相変わらず、人を食ったような文章で、小林はこの論を締めくくる。

 プロレタリア文学が《わが国の私小説の伝統を勇敢にたたき切った》(小林「私小説について」)いま、はじめて「日本近代文学」という自明とされてきた制度が、空虚な内実とともに、顕在化されたのだと言いうる。そこには、もはや私小説の伝統も、記紀万葉以来の日本文学の伝統もない。それは虚構だ。「ほんとう」の伝統ではないのだと。

 であるならば、「ほんとう」の伝統とはなにか。そんなものは、失われたのだ、と小林は言っていたのではなかったのか。伝統と現実感を備えた「故郷」をわれわれは失ったのだと。

 そうであるならば、小林が言うのは、伝統なき伝統(=ほんとうの伝統)という抽象性と観念性に満ちた空漠たる地点、その空虚なる故郷より、再び出発するしかない、ということではないか。そこが故郷ではあり得ず、それが伝統ではあり得ない、そのような在り方として存在するほかない、根拠である。

 以降の思想は、まず、その厳然たる認識より始まる。

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