なぜゴダール映画のカップルはみんな「ああ」なのか――アニエス・ヴァルダ『ラ・ポワント・クールト』について


 アニエス・ヴァルダ監督『ラ・ポワント・クールト』は、1955年公開のフランス映画である。この作品は、のちに最初のヌーヴェルヴァーグ作品と評価される。

 ヌーヴェルヴァーグがどういう映画潮流かは、説明しない(いや、できない)。「ああいう」感じである。そう。ゴダールとか見たことある人にはわかる。ああいう感じ。

 ところで、この作品を見ていたら、主人公たちのカップルについて、町の人が「バカンスだって行って帰ってきたのに、あの二人散歩してるだけね」「ほんとに。しゃべってるだけ」というような会話をしているシーンがあった。60年代のゴダールの映画を観た観客の感想みたいだ。

 ゴダールの映画に出てくるカップルはみんな「そういう」感じなのである。都会的で洒脱な言辞を弄して、恋人と愛を語り合ったり、皮肉を飛ばしたり、他愛なさ過ぎる会話をしたりする。そして、しばしば彼らはどうやって暮らしているのかわからず、どこで二人が出会ったのかも、なぜ二人が付き合っているのかもよくわからないまま始まり、終わっていく。

 かなり語弊があるが、ゴダール映画のカップルが「ああ」だ、というのは、「そういう」ことである。

 この映画には、「そういう」感じの住所不定、職業不明のカップルが出てきて、哲学的なんだか、文学的なんだかわからない会話をする。彼女の方は、名前すら明かされておらず、クレジットでは、elle(英語ならshe)とあるだけ(男はルイという名前を与えられてはいる)。それを不思議なアングルやカットで映し出す。この映画がヌーヴェルヴァーグっぽいというのも、ひとまず、それが理由である。

 印象的なカットは、やはり、カップルの片方の横顔の奧に、もう一人が正面を向いて立っていて、その顔の半分が見える、というものだろう。画面には、女性の左側の横顔と、男性の顔の正面左半分が見えている。こんな作為的な構図も「そういう」感じを醸し出している。


 ところで、この作品がおもしろいのは、この二人なしでも立派に物語が成立していることである。それは、物語に登場するもうひと組のカップルの結婚までの道のり、という別の筋立てが存在しているからだ。

 ルイと「彼女」が何者で、そういう馴れ初めをもっているのか、ということは全くわからない一方で、町のカップル・ラファエルとアンナの物語は明快である。

 ラファエルは、漁師をしている。漁場の湖は汚染されていて、行政によって漁が規制されているが、町の中心産業であるために、人々は監視が来ないかをつねに警戒しながら、無断で漁を続けている。ラファエルも同じだった。

 そのころ、ラファエルは、近くに住むアンナに心を寄せていた。アンナもラファエルのことが気になっている。しかし、厳格なアンナの父は、二人の結婚を認めようとしない。

 そんなさなか、行政の監視船が現れ、密漁者の輪から逃げ遅れたラファエルが捕まってしまう。ラファエルは5日間にわたって、町から離れた警察署に拘留されることになってしまった。

 だが、3日後、町では恒例行事の水上槍試合が行われることになっている(その試合とはこんなものだ。まず、船に何人ものの漕ぎ手が乗る。その船尾に槍と盾を持った男が立つ。このような船が二隻すれ違い、船尾が近づいた瞬間に、それぞれの船に乗った男が突き合って、相手を運河に墜落させる。そのシーンも迫力があって、なおかつコミカルでもあって、面白いのだが、それは置いておこう)。

 ラファエルの拘留期間は5日間だから、彼はその水上槍試合に出場できない。ところが、当日、まだ拘留期間中であるはずのラファエルが現れる。船尾に乗って、槍と盾をもって戦うために帰ってきたのだ。頼み込んで、今日だけ釈放してもらったという。

 すると、ラファエルは、思わぬ奮闘を見せる。次々と先手をとって優位に戦い、相手を何度も突き落とした。優勝者は別の男だったが、町の一大イベントで、男を上げたラファエルに、アンナの父も感心し、その晩のお祭りで、二人がダンスすることを許可したのだった。

 こうして、二人は、厳格なアンナの父という壁を正当に乗り越えて、結ばれていくのである。町で生まれ育った二人が、町のお祭りで父の承認を得て結ばれていく、という古典的な正統なストーリー。


 この二人と比べたとき、ルイと「彼女」という二人の特殊な点が改めて明らかになる。ラファエルとアンナは、生まれ育った場所も、家も、生業も明らかで、どのようにカップルになったか、ということも明らかだ。二人には確固とした歴史があり、物語がある。

 しかし、ルイと「彼女」はまったくそうではないのである。ルイがこの町の生まれで、今回12年ぶりに帰郷したのだ、ということは冒頭で明らかにされているが、彼の家族が出てくるわけでもなく、町の人たちもうっすらとしか彼のことを覚えていない。

 一方の「彼女」もパリの生まれだというだけは明言されるが、それ以外は、二人が何年も放浪していたということだけしかわからない。ふたりのプロフィールを書こうとしても、まったく情報がないのである。

 ゴダール映画のカップルたちも「そういう」感じである。出所来歴がわからない。だいたいひたすら放浪している。

 ルイと「彼女」も歩き続ける。彼らの目の前では、いろいろなものが動いている。なぜか二人の目の前で青々と雑草の生い茂った廃線の上を機関車が通過していく。二人が静かに話し合っていると、町の人々が自転車に乗って通過していったり、川で魚の追い込み漁をはじめたりする。それを二人は傍観している。

 彼らはみな、都会で時を過ごし、そのめまぐるしい変化をただ眺めているのである。都会の変化は早すぎるから、ただ見ている。静かに抗うこともある。そうやって、微かにしかし切実に社会に反逆していた者のなかには、トリュフォーやゴダールもいただろう。トリュフォーの非行歴やゴダールの窃盗癖は有名である。

 都会の余計者たちのカップル。共同体で祝福されるカップルにも、都会で大衆的な幸福を享受するカップルにもなれなかった者たち。


 ところで、彼らのような者たちはもともとどこにいたのか。いまは、彼らのような者は、都会で貧しくてもひとりで暮らしていけるが、共同体を出ることが難しかった時代、彼らのような人々は、どこにいたのだろう。

 その答えもこの映画は教えてくれる。この映画は、二組のカップルの対比だけでは終わらない。

 この映画の第三の筋は、独り身で子ども7人を育てる女性の物語である。彼女は、次々に子をもうけることから、町にいるよく子を孕む野良の黒猫のようだといわれて、町の人々に冷笑されている。彼女の家は、いつも子どもたちの声で賑やかだ。

 しかし、ある日、そのなかのひとりの男の子が病気で死んでしまう。しかし、他の6人の子どもたちは、まだ幼いので、兄弟が死んでも、いつものように小さな部屋でがやがやと遊んでいる。

 彼らは、水上槍試合やダンスパーティーの催される日になっても、朝から晩まで、家にいる。もちろん彼女も出かけず、子どもたちと家にいる。町のハレの日に、出かけることさえできず(むろん誘いもなく)、家にいるしかないということが、町での彼女の立場を表している。

 そのような寂しい彼女の家の前を通って、ルイと「彼女」は、この町を出て、放浪に戻っていく。彼らは、放浪できるだけ幸せである。

 
 じつは、ルイと「彼女」が港で話をしているシーンで、その子だくさんの黒猫が、「彼女」の後ろに座り込むシーンがある。これはいかにも象徴的で、「彼女」が黒猫、そして7人の子を持つシングルマザーと重なることが示唆されている。

 「彼女」はモダンなパリに生まれなければ、7人の子のシングルマザーとして、村八分にあっていたかもしれない。「そういう」人たちなのである。

 ヌーヴェルヴァーグ的とか、ゴダール的とか言われる物語の主体は、みな故郷を失っている。田舎にも都市にも安住できない、そういう人たちだ。あのシングルマザーも、子供がうまれなければ、とっくにこんなところに残ることなく、旅に出ていたかもしれない。彼女も、ルイと「彼女」も、みんな根無し草だ。

 そんなことはどこ吹く風、と彼らは今日も淡々と生きている。

 「そういう」人たちが共同体のなかで、どのように見られ、どのように浮いてしまうのか、そのことを、この映画は、哀しい小さな家族を物語の脇にそっと構えることで、淡々と描き出している。

 「そういう」人たちが新しい何かを創り出そうとしていく、その時代の幕開けをこの映画は予告しているのである。


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