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「人生学校」での学びを変えるもの〜その(2)

(写真はスリランカはコロンボの市街地で:2016年1月撮影)

55歳の私が生意気にも「人生」について、現在の視座から考えることを書いています。

今回は「人生学校」での学びを変えるもの〜その(2)です。

その(1)はこちら↓

有限の時間を意識する

人生100年時代とは、ただ生物学的に「生きている」時間の長さが長くなって100年になるということではなく、その時間の「質」が問われていることだと思います。

QOL(Quality of Life:生活の質、人生の質)」という言葉が使われるようになっているのもその理由の一つでしょう。

「人生の質」という概念自体は、古代から哲学でも「幸せとは?」として扱われていますが、近年は医療の現場でよく用いられる言葉ですね。

医療の現場では、身体的健康を取り戻すことが非常に困難な場合や、生物学的な生命を維持することだけしかできないような状況があります。

そのような時に、本人の意思が尊重されるような形で「生活の質」を高めるために「QOL」が考慮されるようになったわけです。

前回、10回の入退院をこの5年間でしたこともあって、自分に与えられた時間の有限性を意識するようになったと記しました。

意識するようになったのは、単にその「長さ(日数)」という「」をどの位長くすることができるのか、残された「量」がどれ位であるか、ということではありません

時間の「質」を意識するようになったと言うことです。

そして、その「質」とは到着点としての「質」ではなく、現時点の「質」を遅ればせながら、意識するようになってきたのだと思います。

「質」を意識する

現時点すなわち「今」の「質」について意識するようになったと表現しましたが、「質」といった場合、何を意味しているのでしょうか。

文字通りの意味としては、辞書には以下の説明あります。

① 生まれつき、天性
② 内容、中身、価値
③ 物がそれとして存在するあり方、性質(quality)

広辞苑

私が「今」という時、それもその「質」を意識するという場合、②の内容、中身、価値意識されているのだと思います。

「価値」となると、何を価値とするのか、これは一人ひとり異なるわけですし、時と共に移り変わっていくこともあるでしょう。

しかし、共通して言えることとして、「質」というものは一定の状態で固定されるものではないように思います。

小説や映画で度々使われる「同じ毎日」を際限なく繰り返す「タイムループ」にはまるという架空の設定がありますが、その中で人は苦しみます。

ある一定の内容が良いものだったから、毎日、毎日それを全く同じに繰り返すことが、「質」が良い状態と言い切れないからではないでしょうか。

より良いものに、より価値が高められるように、との欲求があるように思います。同時に、より悪くなることや、価値が低くなることを避けようとする力が思いの中にあるのです。

「今」に満足すると同時に、これからより高められる方向に向かっていることに満足する。その二つの面があるように思うのです。

私が命の有限性を改めて意識しながら、「今」をどのように意識的に使っているのか、と言えば、「ここまで」と「ここから」の二つ面における意識なのです。

話しが余りに抽象的なものになってしまいました。

「人生学校」での学び

いつごろからでしょうか、「人生は学校のようだ」と思うようになりました。

「人生大学」「人生スクール」だと、自分で履修科目を選べるような気分がするので、「人生学校」です。

もちろん、人生には大小様々な選択があります。何を食べるか。何を着るか。どんな仕事をするのか。だれと時間をすごすのか。などなど。

しかし、私たちは自分でコントールできない多くのことがあります。自分でコントロールできないことの方が多いのではないかと年をとる程に感じています。

人生の場面、場面で起こってくる出来事、状況、出会い。それが履修科目、課題のように思うのです。

「人生学校」の課題です。

その課題ひとつひとつに向き合って「学ぶ」ことが求められているのではないか、そう思うのです。

それらの「学び」を通して、私は「成長」する

ここに先程の「ここまで」と「ここから」の二つの面が現れるのではないかと思っています。

ガンディーの言葉で今回を終わりにします。

「明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい。」

インド独立の父、マハトマ・ガンディー(1869-1948

非常に未熟な私の思い巡らしですが、ここまでお付き合いくださりありがとうございます。次回に続きます。




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