雨ニモマケズ。


 とある高校の教室。朝の始業を告げるチャイムが鳴った。それと同時に、背の高い男子生徒が慌てて駆け込んできて、すでに教室に入っていた国語担当の女性教師と目が合った。
「…優太、アウトー!」
そう言って、先生は野球の審判のように親指を立てた右手を高く上げた。優太は、「ちょっと待ってください、訳があるんです!」と抗議した。
「…よし、言ってみなさい」
先生は、両手を腰において、優太の言葉を待った。
「学校へ来る途中に…東に病気の子供がいたので看病してやって、西につかれた母があったので行ってその稲の束を負ってあげて、南に死にそうな人がいたので、『怖がらなくてもいい』って言ってやり、北に揉め事があったので、『つまらないからやめろ』って言ってたら遅れました!」
優太が頭を下げた。先生は、ひとつ、鼻から息を吐いて、こう言った。
「今日の朝ご飯なに食べた?」
「玄米四合と、味噌と、少しの野菜です」
それを聞いた先生は少し笑って、「わかった、いいよ」と許した。優太が、「ありがとうございます!」と頭を下げる。
「じゃあ、さっさと席に着きなさい、でくのぼう」と、先生は窓際の優太の席を指さした。優太は、「ははは!」と笑いながら自分の席に向かった。
優太が席に着くと、後ろの席に座る友人の直樹が「おう、良かったな」と小声で言いながら背中を叩いてきた。
「おう、ギリギリセーフ」と返事をした。
「…でも、何であれでセーフになんの?」
「『雨ニモマケズ』だよ」
「なにそれ?」
と、直樹が言ったところで、先生が「昨日、授業でやったぞー」と言った。直樹が「聞こえてんの!?」と言うと、教室に笑い声が響いた。

 「…お前、朝、本当は麻衣ちゃんのとこ行ってたんだろ?」
昼休み。直樹が弁当を広げながら言った。優太が「お、誰から聞いた?」と答えた。
「いや、いつもの事じゃんか」
そう言われて、「ははは、そうか」と優太は笑った。
「いつもは一番に教室にいるお前が遅く来るときは、いつも麻衣ちゃんに何かあった時だ」
「でも、ここまでギリギリなのは初めてだけどな」と付け足した。
「なー、危ない所だった」
「また落ち込んでたの?」
「ん?うん、それでちょっと話聞いてたんだよ」
「あの子、よく落ち込むなぁ。その度にお前も話聞いてやって。大変だねぇ」
「いや、まぁ、女の子だからしょうがねぇだろ」
「にしても多くない?」
「繊細なんだろ」
優太が静かに笑った。
「ま、彼氏としてはほっとけないか」
その一言に、優太が「ん?」と直樹の目を見た。その後、「…いやいや、付き合ってないぞ?」と言った。直樹は「え!?」と驚いた。
「うん、俺とあの子はそういう関係じゃない」
「うそぉ…。俺、てっきり付き合ってるんだとばっかり」
「いや、付き合ってないんだよ」
「それにしちゃあ、仲いいな」
「まぁ、幼馴染だからなぁ」
「でも、お前ら時々、一緒に学校来たり、一緒に帰ったりしてるじゃん」
「あれは、あの子が部活で荷物が多い時に運ぶの手伝ってるだけ」
「そうなの?」
「うん」
「でも、付き合ってないのに、あんなに頼りにするかなぁ?」
「…いや、頼られてるわけじゃない。向こうから『話聞いて』って言ってきた事は一度もないからな」
「…そうなの?じゃあ、なんでお前が話聞く事になんの?」
「ん?落ち込んでそうだなーって時に『どうかしたの?』って聞くの」
「見たら分かるのか」
「顔に出やすいからな、あの子は」
「じゃあ、部活の荷物は?」
「一年の時に、荷物多くて大変そうだったから手伝って、それからずっと」
「ふ~ん…」と、直樹は、中身のない返事をした。
「…ていうかさ、お前は遅刻ギリギリなのに、麻衣ちゃんは遅れてないの?」
「うん、大丈夫。あっちの教室で話聞いてるから」
「おう、自分の成績を犠牲にしてまで話聞いてやるなんて、優しいねぇ」
直樹がニヤニヤした。優太は「いや、俺も遅刻はしてないんだから、大丈夫じゃん」と答えた。
「いや、ギリギリじゃんか」
「大丈夫。ちゃんと授業聞いてるから減点はない。お前とは違うんだよ」
「一言余計だ」と直樹が言うと、二人で笑った。
「っていうかさ、付き合ってないなら、あの子にとってお前はなんなんだろうな?」
「だから、幼馴染だっつってんだろ」
「幼馴染って事は、詰まるところ友達だろ?でもさ、友達っつんなら他にもいるだろ。ただの幼馴染をそんなに頼るかなぁ?それで終わんない気がするけど」
そう言われ、優太は腕を組んで考えた。昔、麻衣に言われて、ずっと心に残っている一言があった。

「優太は、傘みたいだね」

その日は台風が来ていた。麻衣の持っていた小さな折り畳み傘は、強風にあおられて骨が真ん中から折れてしまっていた。ずぶ濡れになった体に風が当たり、寒さに凍えて歩く麻衣に、優太が自分の傘と自販機で買った温かいココアを差し出した時、こう言われた。
「私が困ってたら助けてくれる。私が悩んでたら話を聞いてくれる。私が悲しんでたら、励ましてくれる。優太は、私に降る雨から守ってくれる、大きな傘みたい」
その言葉を聞いたとき、嬉しく思うのと同時に、気持ちが引き締まるのを感じていた。
「じゃあ、骨が折れないように、強くならなきゃね」
優太は、そう返事をしたのだった。

 その話を聞いた直樹は、「やっぱ付き合ってんだろ」と言ったが、「だから、付き合ってねーの」とあしらった。しかし直樹は「付き合っていない」のは本当でも、ただの友達でもないのだろうと思っていた。

 週明けの月曜日の朝。教室に入るなり、直樹がつっかかってきた。
「おい、優太!何が『付き合ってない』だ、コノヤロー!」
直樹のその様子に、「なんだよ、朝っぱらから」と笑った。
「おめー、日曜日デートしてただろ!」
「デート?なんのことよ?」
「とぼけんじゃねーよ!俺、見たんだぞ!麻衣ちゃんと一緒にホームセンター行ってただろ!」
そう言われ、優太は少し考えた後、「…あぁ」と納得した。それに対し直樹は「ほら、行ってるじゃねぇか!」と問い詰めた。
「違う違う、デートじゃない。それに、あの子とは付き合ってないって言っただろ」
「でも、二人で出かけてるじゃねぇか!」
「二人で出かけたからってデートとは限らねぇだろ」
そう言われ、直樹は『納得いかない』というような顔をした。
「それによ、デートでホームセンターって、俺はどんだけセンスねぇんだ」
優太が少し笑った。
「いや、お前らぐらいになるとホームセンターなんだろ!」
「なんだそれは」
「じゃー、何してたんだよー」
直樹が口を尖らせた。
「ベッド運んでたんだよ」
「べっ…!」
直樹が、両手を頬に置いて、女の子の恥ずかしがる仕草をしてみせた。優太は「可愛くねーよ」と笑った。
「お前、あれなの?『付き合ってない』ってのは、『もう結婚してる』って意味なの?」
「ちげーわ!」
そう言ったあと、「あはははは!」と大きく笑った。
「だって、お前、ベッド運ぶってさぁ、もう新婚じゃん」
「違うの、一回ちゃんと聞いて、説明するから」
「なに?」
「いや、なんかな、ネットでベッドを注文したんだって、組み立て式の。で、それを間違えて、店舗受け取りにしちゃってたんだって。それで、家まで配送に変更すると追加でお金かかっちゃうから、俺が手伝ったの」
「で、それを組み立てたの?」
「そりゃあな、あの子にそんな事できねぇからな」
「新婚じゃん」
「ちげーっつーの!」
「っていうか、お前が行かなくてもお父さんに車出してもらった方が早いし楽だろ!」
「日曜だったけど、オヤジさんいなかったんだよ、仕事らしくて」
直樹が「…ちくしょう」と唇をかみ、優太が「何が悔しいんだよ」と笑った。
「っていうか、もう、家まで行ってんじゃん。ホームセンターどころかホームに行ってんじゃん」
「いや、家には昔から行ってるよ。幼馴染だからな」
そう言うと、直樹は「ニヤッ」とした笑顔を向け、「あ~、俺、わかっちゃったわ」と言った。優太は、「何がだよ?」と笑いながら聞いた。
「うん、お前は付き合ってないと思ってるんだよ。お前はそう思ってるんだよ。でも彼女の方は、付き合ってると思ってんだよ。そうだ、そういう事だ」
そう言うと、直樹は満足そうに「うんうん」と頷いた。しかし優太は「いや、絶対思ってないよ」と否定した。
「いやいや、それは幼馴染だから、なんかうやむやになっちゃってるだけで。向こうは付き合ってると思ってるって」
「思ってないよ!」
「思ってなかったら、そんなに頼ったりしねぇって!」
「いや、そうはならねぇよ!」
「なんで、そう言い切れるんだよ」
「俺、ふられてんだよ」
「え…?」
驚き過ぎて、直樹の顔が固まった。
「おう、告白して、きっちり振られてるよ」
「…いつよ?」
「あれは、中学んときか?もう、三年ぐらい前だな」
「…お前さ、それ、早く言えよ」
「お前の勢いがすごくて言いそびれたんだよ」
「…まじでふられたの?」
「うん。まじだよ」
そう言い切る優太に呆気にとられていた直樹だったが、しばらくして、「…わかった!」ともう一度言い、手を叩いた。優太も「何がだよ?」と繰り返した。
「それ、三年前だろ?でな、この三年の間に、彼女は何度も助けてくれるお前を好きになってきてるんだよ。でも、三年前にふった手前、彼女からは言い出せずにいるんだ。そうだ、そう言う事だ」
またも満足そうに言う直樹に、再び「いや、それもないよ」と否定した。
「いや、きっとそうだって」
「いやいや、ないない」
「なんでそう言い切れるんだよ」
「だって、彼氏いるぞ?」
「え…?」
また、直樹の顔が固まった。優太が「あ、デジャヴだ」と笑った。直樹が、「何笑ってんだよ!」と怒り、優太は「何、怒ってんだよ」と笑った。直樹の顔が、真剣な表情になった。
「だってよ、お前の事ふっといて、頼りにするっておかしくねぇ?」
「おかしくねぇだろうよ、別に」
「いやいや、おかしいだろうよ!え、彼氏いるんだろ!?だったら、彼氏を頼ればいいじゃん!お前じゃなくていいじゃん!お前が遅刻ギリギリになったり、休み潰してベッドなんて重たいもん運ばなくていいじゃん!彼氏にやらせりゃいいじゃん!」
そこまで言って、直樹は「…あ?」と何かに気づいた。優太が「どうした?」と聞いた。
「あのよー、もしかしてだけどよー、あの子が落ち込むのって、彼氏が原因じゃねぇだろうな?」
そう聞かれた優太は何も答えず、ただ、「ははは」と乾いた笑い声を出した。
「…おい、まじかよ」
直樹が、驚きと呆れの入り混じった顔になった。
「いや、それはだめだって!いくらなんでも、それはだめだって!」
そう言って、どこにぶつけていいかわからない怒りを吐き出した直樹を、優太が「そんな怒んなって」となだめた。
「だって、あんだけ頼りにしてんのに、おかしくねぇ!?」
「何回も言うけどよ、向こうから俺を頼った事は一度もないんだよ。落ち込んでそうだったり、困ってそうな時に俺から声かけてるだけなんだよ」
「それ、多分、そう言われるのわかってんだよ」
優太が、「まぁ、一回落ち着け」ともう一度なだめた。
「…まぁ、それは、そうだと思う」
「気付いてたのかよ」
「あの子は顔に出やすいからな」
「だとしたら…あの子、ちょっとずる過ぎんだろ。お前が優しいの利用してるだろ。お前の優しさを自分の都合のいいように使いすぎだろ」
「なんもずるくないよ。いいじゃん、困ってる時ぐらい、人に甘えたって」
「それにしたってさ…」
「俺は、傘だからな」
「…だから?」
「あの子は、雨が降ったから傘を差してるだけだ。雨の日に、傘を差して歩いてる人を見て『ずるい』って思うか?」
そう言われ、直樹は何も言えなくなってしまった。優太は「ありがとな、俺のために怒ってくれて」と直樹の肩に手を置いた。
「大丈夫だ、俺は折れない」

 昼休み。直樹がトイレから教室に帰る途中、麻衣のいる教室から、女の子の盛り上がる声が聞こえた。開きっぱなしのドアから中を覗くと、麻衣が友達に囲われて「誕生日おめでとー」とプレゼントを渡されていた。
「誕生日か…」
直樹の頭に、お人好しな友達の顔が浮かんだ。
 直樹が教室に戻ると、窓際の自分たちの席で優太とお弁当を広げた。優太が、朝は降っていなかった雨が降り出した外を見て「けっこう降ってきたな」とつぶやいた。直樹が「やべぇよ、傘持ってきてねぇよ」と言うと、優太は「ちゃんと天気予報見ろよ」と笑った。
「今日、麻衣ちゃん誕生日なんだってな?」
「お、よく知ってんな」
「さっき、あっちの教室の前通ったら友達からプレゼントもらってるの見えてさ」
「そーか」
「おめーの事だから、どーせプレゼントとか用意しちゃってるんだろ?」
「…いや、俺は渡さないよ」
直樹が「え!?」と驚いた。優太は、「最近、よく見るなぁ、その顔」と笑った。
「え、何のお祝いもしないの?」
「うん」
「なんでだよ、お前…」と、直樹はその先を言いよどんだ。そして、言葉を選び直してから、「誕生日、祝いたくねぇの?」と聞いた。優太は、その直樹の様子から本当に聞きたかった事を理解し、「今日は、俺は邪魔なんだよ」と答えた。
「邪魔ってどういう事だよ?」
「俺は一度ふられちゃってるからな、やっぱり少なからず気遣うだろ。気が引けるっていうかさ。誕生日にそんな気持ちになることないよ」
「だからって、邪魔ってことはねぇだろ」
「俺は、傘だからなぁ…」
「…それがどうしたよ?」
「傘ってのはさ、雨が降った時には、なきゃならないものだけど、おしゃれして出かける晴れの日には、持ってても邪魔なだけなんだよ」
そう、雨の降る外を眺めながら話す優太の横顔は、何かを諦めているようにも、覚悟を決めているようにも見えた。
「彼女に、そう言われたのか?」
「いや、あの子はそんな事言わないよ。優しい子だからな」
それを聞いて、直樹は、優太の「あの子は顔に出やすいからな」という言葉を思い出した。
「けどよ、お前はそれでいいのかよ?」
「それでいいとか、悪いとか、そんな事考えてないよ。俺は勘定に入れなくていい」
「ん?」
「『自分は勘定に入れず、いつも静かに笑っている。そういう人に、私はなりたい』」
「…なんだ、そりゃ」
「『雨ニモマケズ』だ」
「あめにもまけず?」
「こないだ授業でやったぞー」
と、先生の口調をマネて言い、優太は笑った。

 放課後になると雨は勢いを増し、土砂降りになっていた。教室で優太が帰る準備をしていると、直樹が大きいゴミ袋を持って入ってきた。
「…なに、それ?」
「おう、傘持ってねーからよ、用務員のおっちゃんからもらってきたんだよ。これかぶって帰ろうと思って」
「ナイスアイデアだろ?」と、ゴミ袋にハサミを入れた。
「ナイスアイデアだけど、カッコ悪いだろ」
「ずぶ濡れで歩く方がカッコ悪いだろ」
優太は「そうかなぁ?」と笑った後、「じゃあ、俺は帰るぞ」と荷物を背負った。
「おう、またな」
そう言って工作を続ける直樹に手を振り、優太は教室を出て、校舎の玄関へ向かった。玄関に着くと、そこに麻衣がいた。麻衣は、困った顔をして立ち尽くしていた。優太が「どうしたの?」と声をかけた。
「あぁ、ゆう…」
と、麻衣は土砂降りの外に目を向けた。
「…傘、忘れた?」
「そうなの…」
「朝は降ってなかったからなぁ」
と、傘立てから自分の傘を抜き取ると、「使っていいよ」と麻衣に差しだした。
「いいの?」
「うん。教室に置き傘あるから」
「良かった!ありがとう!」
「うん。気を付けて帰りなよ」
そう言うと、優太は笑顔で手を振り、教室へと戻って行った。

 教室に戻ると、直樹がゴミ袋のレインコートを着て窓際の席に座り、土砂降りの外を眺めていた。「お前、帰んねーの?」と声をかけた。
「おう、見てみろ。女の子がみんなびしょ濡れだぞ」
そう言って、窓の外を指さした。優太は「マニアックだな」と笑った。
「お前こそ、帰ったんじゃなかったのかよ?」
「ん?ちょっとね」と自分の席につき、教科書を開いた。
「残って勉強って柄じゃねぇだろうよ…」
と、心の中で思いながら、直樹は、外に目を向けた。
「ん?」
直樹が、麻衣が玄関から出てくるのを見つけた。麻衣は、彼氏だと思われる男子と一つの傘を分け合って歩いていた。二人がさしている傘が優太のものであると、直樹は気づいた。
「じゃあ、俺、今度こそ本当に帰るわな」と優太が立ち上がった。
「おめー、傘は?」
「下にあるよ。じゃあな」
「…おう」と、また、外に目を向けた。
しばらくすると、優太が玄関から出てきた。傘は、さしていなかった。
「ウソばっかつきやがって」
「ふっ」と直樹が笑った。
優太は、土砂降りの雨の中、走ることもせず、濡れる事などもろともしない足取りで、歩いていた。ずぶ濡れで、堂々と歩くその姿に、かっこ悪さなど少しもなかった。

「雨ニモ負ケズ…ね」

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