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みんなが幸せになれるとか、愛は全てを救うとか。

全てを綺麗事で解決できる世界があったなら。
それは素敵なんだろう。皮肉のように聞こえるかもしれないけれど、本心でもある。

みんなが幸せになれるとか、愛は全てを救うとか。
そんな世界が本当に実現できるのなら、本当に尊くて。

理想を語ることは軽蔑されがちだけれど、理想無くしては何も始まらない。

でも、理想を語るだけで近づこうとしないのなら、その理想は欺瞞になりうる。理想を欺瞞にはしたくない。

だから私は、正面から向き合いたい。

愛は全てを救うか。

そもそも、ってなんなんだろう。
愛という言葉がつくものはたくさんある。

家族愛、友愛、恋愛、博愛、自己愛

なんとなく、愛というのは人から人へ向けられる感情らしい。それは自分でも良いし、他人でも良い。

上に挙げた愛たちって、お互いが少し矛盾を孕むものがある。



たとえば、家族愛、友愛、恋愛はなんとなく、似ている。これらは、自分以外の特定の他者へ向けられる愛だ。

一方で博愛は、全ての人を平等に愛すること。

博愛を達成した人は、家族愛、友愛、恋愛と両立が難しいのではないかな。特に恋愛と。恋愛は、特別な他者だからこそ成立しうる愛だと思う。だって、恋人が誰彼構わずと全く同じことをしていたら、シンプルに嫌。

家族愛、友愛、恋愛は、特別な人の間で成立する。だとすると、これらの愛を全ての人へ、平等に与えることは難しい。

そしてこれを享受できない人は、きっと満たされない。

それなら博愛はどうだろう。一番、可能性が高そうだ。しかし、どうも難易度が高そう。

人が生涯に知り合える人間って、多分ほんのひと握り。出会ったことの無い人間にも同じくらい愛を捧げるのって、難しい。たとえば、それを未来の人間にまで向けるとするなら、尚更だ。

それなら自己愛はどうだろう。ここで言う自己愛は、最もらしいものとしよう。
たとえば、自分自身の体を労うことができる。
健康に気をつけることができる。
生き生きとした、人間らしい丁寧な生活を送ることができる。

(自分以外の人間はどうでも良く、自分が世界でいちばん尊いから、欲望のままに生きて良い!みたいなものではないとしよう。)

すごく最もらしい愛だと思う。幸せに至る上で、本質的な役割を果たしそうな。

とはいえ、自己愛を達成するのもハードルが高い。

自己愛を達成するためには、周りから、家族愛、友愛、恋愛の少なくともいずれかを正しい形で享受しない限り難しいんじゃないかな。
(そしてこれらを無意識に享受していると、当たり前になってしまう。だから、まずはその有難みに気づくことから始める。)

自己愛をたった一人で達成できるのって、凄く特別な気がする。なにより、圧倒的な強さを感じる。

それなら、上に挙げた5つの愛を中庸に達成出来れば、きっと良くなるのでは?

しかしこれは上にあげたように、矛盾を孕んでしまう。博愛や恋愛の線引きは、千差万別でみんな違う。その境界線の違いは、きっと愛憎を産むきっかけになる。

世の中には色んな種類のが存在する。
そして、上の五つ以外の愛もまだたくさんあるはず。

そんな無数の愛が複雑に絡み合って、大きなサイクルを成している。そのサイクルが、全ての人を漏らさない限り、愛は世界を救えない。







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