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掌編小説「隣りのお姉さん」

読みかけの漫画雑誌が床に転がってる。ベットから落ちたらしい。

どうして漫画雑誌って転がるとああなるんだろう。
くたっとなって、背表紙だけオットセイのように浮き上がって、数ページがうねって折れる。

うんざりして床から拾い上げると、キラキラした男の子が目に入った。

ああ、この子。
既に読み終えていたので、その子の背景まで容易に頭に浮かべられる。

その子は中学生の主人公が憧れている、隣りに住んでいる高校生だった。
幼馴染で、小学生の頃からずっと一緒にいて、男の子が部活をやり出してからはあまり一緒にいられなくなって、でもたまに顔を合わせたら話をしてくれる。
ちょっぴり意地悪で、おまけにカッコいい。

こういうの実際にはないよな。

少女漫画は7歳の頃から読んでるけれど、少女漫画に登場するような男の子に出会った事がない。
私には隣りのお兄さんもクラスのよく喋る男の子も部活で一緒になる男の子も親の再婚で突然一緒に暮らす事になった兄弟もいない。
クラスでは女子としかつるんでないし美術部は男子がいないし正真正銘の一人っ子だ。おまけに共働きだから、夕飯も一人で食べる。たまにめんどくさくて食べない時あるけど。

友達のサチからもらったクッキーを口に入れながら時計を眺める。
時計は四時を指してる。
もう直ぐ塾で家を出ないといけない。

やばいテキスト鞄に詰めなきゃ。
机に積み上げられたテキストの山から、現代文を掬いあげて鞄に入れる。

玄関を出ると太陽が眩しくて、目を細めた。
もわっとした空気が二の腕にまとわりついて、気だるさに揺れる。

夏の空気は重い。
鉄のような土の匂いと、そこらじゅうから寄せ集めた水分が身体中の毛穴から入り込んでくる。
その場に立ちすくみそうで慌てて駅に向かうと、見慣れた顔に声を掛けられた。

「もこ姉、どこ行くの?」
「塾だよ。いつもの。」
声の主はタツヤで、隣りに住んでいる中学生だった。テニス部に入っていて、しょっちゅう県大会で優勝しているらしい。一度も応援に行った事がないけど。
「タツヤは部活?」
「さっき練習試合してきた。勝ったけど」
「やるじゃん」
「まあね」
タツヤがニッと笑うと、綺麗に揃った前歯が覗いた。

歯列矯正をしていたのだ。タツヤは。
小学生の頃泣いていたのを覚えている。凄く食べづらいと言って。

ママに秘密にしてよ、本当は嫌なんだ、もこ姉みたいに何もしないのが良いよ、だって食べ物に集中出来るでしょ。

泣いているくせに集中という難しい単語をさらっと絡めてきて、真剣に聞いていた気持ちが一瞬途切れたのを覚えている。
息するみたいに単語を使う奴だ、そう思った。
息するみたいにそこに居る奴だ。

「電車大丈夫なの?遅刻すんじゃん?」
タツヤに言われてスマホを見たら、走らないとやばい時間になっていた。走ったら多分ギリギリ間に合う。
「ほんとボーッとしてるよね、もこ姉は」
「うるさい。じゃあね」
走り出すと鞄の中でテキストが暴れた。テキスト同士が擦れてカサカサと音を立てる。

「頑張ってー」
振り向くとタツヤが手を振っていた。
ラケットとユニフォームでバッグを二つ持っているのに、軽々と持ち上げて。

手を振りかえした。
手を振って急ぐ。

スカートが翻る。
通り抜けてゆく夏を踵で踏む。

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