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掌編小説「赤んぼ」

「私不安になったわ。結婚するのが」
「まだ言ってる。俺たちが住むのはあそこじゃないだろう。マンションなんだから」
私が溜息をつくと、光はおもむろに私のバッグを腕から引き剥がし、肩に掛けた。

今頃気付くなんて。
私は閉口する。
私のバッグが重いのを歩いてから15分経って気付くなんて、無頓着にも程がある。
帰りに林檎の山を貰ったの、隣りで見てた癖に。
何を今更。
機嫌でも取ってるつもり?

電車は行ってしまったばかりで、あと7分待たねばならない。
7分。
責めるわけにもいかない中途半端な長さが手の甲を刺す。怒るに怒れない、いやらしい長さが身体中に充満する。どうして皆で。寄ってたかって。

「何で回覧板が玄関にあるの?そんなにしょっちゅう回ってくるの?」
「たまたまだろ」
「うちの実家なんて、田舎だけどそんなの滅多になかったわよ。お義母さんも言ってたじゃない、下町だからねって」
「まあそりゃあ下町だからな」
「ここは東京でしょ。何でそんなにご近所付き合いが密なのよ。信じらんない。今時」

朝早く起きて光の実家に挨拶に行った帰り、駅のホームで電車を待っているところだった。
結婚の意思は数ヶ月前に伝えてあったのだが、今日初めて光の実家を訪問したのだ。

一緒に住まなくても良いけれど、なるべく近い場所に住んで欲しい、光の両親はそう希望しているのだが、家にあがる際、玄関にあった青色のバインダーを発見した私は、一気に不安に駆られたのだった。

角が剥がれて破けている回覧板は、相当小慣れているようだった。誰かの手から手へ、摩擦に耐えてきた年月を思わせる。貧血を起こしそうになった。
騙されたみたい。そう思った。詐欺みたい。
田舎のあけすけで閉鎖的なところが嫌で東京に出てきたのに、東京の方があけすけなんて。

私は大学進学を機に上京して、Uターンなんて考えもせず都内の会社に就職し、ひたすら東京に馴染んできたのだ。
それなのに。それなのに何故。

やっと到着した電車に乗り、空いている席に座る。
車内はガラガラで、乗っているのは私と光、老人男性、ランドセルを背負った小学生の女の子の3組だけだ。
女の子に聞こえないよう注意して、更に喋る。

「それに、何で駅に向かう途中で近所の人に会うのよ。2人も。2人って多すぎない?15分だよ?15分で2人にも会うの?そんなに近所付き合いしてるの?」
「隣りのおばさんと、同級生だろ?会っちゃったもんはしょうがないじゃないか。無視する訳にいかないだろう」
「そういう事言ってるんじゃないのよ。何で近所付き合いが盛んなのかって聞いてるのよ」
「祭りとかあるんだから仕方ないだろ」
「何よ。祭りって」
「御神輿とか担ぐやつ」
「そういう事聞いてるんじゃないんだって」
「ほら、景色眺めようよ。綺麗だろ」
光は全然堪えてない様子で、呑気に窓の外を眺めている。

憮然として目をやると、空いっぱいに赤のグラデーションが広がっていた。
写真集で見るような、原色に近い赤。通り抜けてゆくビルの頭上で、赤だけが止まっている。
身震いするような赤が、虹彩の上を跳ねる。
眩しくないはずなのに、思わず目を伏せてしまう。

「マンションに住むんだから平気だろ。オートロックなんだから」
「何なのよ。オートロックで釣るつもり?オートロックなんてどこにでもあるでしょ」
「長屋じゃないんだから」
「だから形状の事言ってるんじゃなくて」
「あ、あそこ俺が通ってた幼稚園だよ」
光が声を大きくした。
指差した方向を見ると、薄暗くなって見えにくいが、黄色い建物が見えた。アパートと同じような大きさの建物だ。ペンキをひっくり返したような色の外壁に、〇〇幼稚園、と書かれているのが辛うじて目に入った。
「見えた?」
「見えたけど、突然言わないでよ。見逃しちゃうじゃない」
「またいつでも見られるよ」

光は正面に向き直って、行儀良く座った。
膝から少しはみ出した私の鞄をそっと撫でる。

車内を見ると、女の子が居なくなっていた。いつの間にか降りたらしい。老人男性は何やら文庫本を読み耽っている。
「まあね」
アナウンスが聞こえる。次が降りる駅だ。
「帰ったら林檎むこう」
光は微笑んでいる。
この人にとって、私のあらゆる事が凪になるらしい。いつでも緩やかに存在している。

振り向くと、分厚いガラスの向こうでは、まだ赤が続いていた。

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