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好きすぎて奥さんに宣戦布告しちゃった話

一度興味を持つと、自分が納得するまでとことん突き詰めちゃう性格が引き起したお話。

それは高校生の頃。
全県一斉テストという名のテストがあった。
そして、それは国語の試験の時に起こった。

例題にあがっている文章が、
たまらなく好きなものだった。

初めて読む文章。

試験の問題文なのに、
それどころじゃなくて、
とてもとても好きでたまらない。
読み進めて行くうちに、心が幸せになっていく。
文章が優しくて、愛にあふれていた。
それも、特別キラキラしてるとかではなくて、
あくまでも日常の中に当たり前にあるような
それでいて、それこそが特別なような。

「あなたが大切です。」

で、溢れている。

試験なんてそっちのけで何度も何度も読みたかった。
しかし、時は「全県一斉テスト」の最中。
進学する民たちにとっては、未来もかかっている
戦の時間なのだ。
とりあえずは問題を解き、試験を無事終わらせ、
試験終了の鐘が鳴、るや否や、アズスーンアズ、
職員室に向けてバズーカで我を発射した。

ガラガラバシャーンと職員室のドアを開け、
「たのもー!!!」とばかりに
国語の先生の元へ一直線!

「先生ーー!!
さっきの試験問題の例題にあがっていた文章、
誰の何ていう作品か知りたいんですけど、
わかりますか!!!!」

今すぐ教えてくれねば、取って食ったるぞ!の勢いで質問する。
すると先生は、私の勢いに反して、
その倍くらいのスピードでゆーっくりとこちらを向いて
なんとも言えない穏やかな優しい笑みを浮かべてこー言った。

「わかりますよ。
実はね・・・、あの国語の問題、私が作ったんですよ。
たった一人でも、あの文章をそんな風に思ってくれる人がいて、作った甲斐がありました。私はとても嬉しいです。」

全国、ではなくて、全県、だったので
県内の先生達で問題を作っていたらしい。
そして、よりによってその国語の中の一部の
私の学校の先生が選んだ文章が、作った部分が、
私にぶっ刺さったのだ!
先生は嬉しそうに教えてくれた。

「堀辰雄という作家の『妻への手紙』という作品です。でももう絶版しているので、本屋さんでは買えません。この文章(章)だけでよければコピーしてあげますよ。」

そこから、私は堀辰雄さんに秒で落ちた。
『妻への手紙』だと?
奥さんに、こんなに素敵な言葉の数々を送る人はどんな人なんだ!

堀辰雄さんの作品を片っ端から読んだ。
【国語便覧】で堀辰雄さん自身についても調べ
ネットもない当時、ありとあらゆるものを読み漁った。

国語の授業の時、先生が、自分が若かりし頃バイクでよくツーリングに行き、軽井沢にある堀辰雄さんの記念館に行った話をしてくれた。

クラスメイトに「菜穂子」という子がいたが、
その子の名前は堀辰雄さんの作品の「菜穂子」から彼女のお父さんが取ったものだというのも、
その授業で知った。
嫉妬した。
私も堀辰雄さんの作品にちなんだ名前が良かった。
そのくらい、好きになっていた。

軽井沢。
記念館。
これをキーワードに、104に電話し、堀辰雄記念館の電話番号を獲得した!!
(当時は住所がわかれば電話番号を教えてくれるシステムがあった)
そして超絶人見知りなのに猪突猛進ガールな私は
堀辰雄記念館に電話し、無謀にも、
「堀辰雄さんが大好きです!!奥様にお手紙を書きたいのでお手紙を送る住所を教えて下さい!!」
と言うと、電話に出た気のいいおじちゃんが教えてくれた。

我ながら、一心不乱、猪突猛進すぎる。

そしてなんと、そこから。
堀辰雄さんの奥様。

堀多恵さんとの文通が始まるのである。

堀辰雄さんに関しての作品を出版されていたので、
多恵さんも、立派な作家さん、なのだそうだ。

多恵さんにお手紙を書いたこと、
お返事のお手紙を頂いたことを先の国語の先生に話したら、

絶句していた・・・

そして今度は逆に、
「多恵さんのお手紙、これは文学史になる一部ですよ!よかったら記念に、私にコピーをさせてもらえませんか?」
と言われた。

そんなにすごいことなのか・・・

そこから多恵さんと文通し、
どれだけ堀辰雄さんの多恵さんへの愛し方が好きか、
そんな愛し方をされたかった!
私が奥さんになりたかった!!!
私が結婚したかったです!!!!

などという、今思えばなんと恐ろしい宣戦布告のようなことを送っていた。

そんな私に
「いつか軽井沢に遊びにいらしてね。」
と、多恵さんはおっしゃってくださった。

行きたい。
会って、いろんなお話が聞いてみたい。

そんなことをずっと思いながらも、
学生でお金がない。
一人で何処かへ行くことも出来ない。
人見知りで、誰かに話しかけることも出来ない私は、全く知らない軽井沢などという土地には行く勇気もない。

ズルズルと時は過ぎ、気がつくと多恵さんは
堀辰雄さんの元へ旅立っていた。

その頃私は、東京で堀辰雄さんのお墓参りをしていた。
友達が「向田邦子さんのお墓参りをしたい」と東京に来て、お墓参りをした。
同じ場所に堀辰雄さんのお墓もあるのだ。
赤坂にあった向田邦子さんの妹さんの和子さんがやっていた「ままや」で、向田邦子さんが好きだった
「さつまいものレモン煮」を食べたりした。

社会人になって、私は軽井沢へ行った。

高校生の頃【国語便覧】で何度も何度も見た、
というより、昔から知っていた場所ような気さえする、
堀辰雄さんが「どこに何の本をどう置くか指示までしたのに出来上がる前に亡くなってしまった」書庫、が、そこにはあった。
座っていただろう縁側の椅子、
病に臥せっていた写真にあったお部屋。
そこだけ、時が止まっているようだった。

記念館の中には、
堀辰雄さんが着ていたコートが飾ってあった。
思ったより小さかった。
そして、多恵さんが私にお手紙を書いて下さっていただろう住居だった場所も、
記念館の一部として開放されていた。
その、一面の大きな窓から見える緑が、
とても綺麗だった。

泣いた。
なぜだか、涙が止まらなくなった。
逢いたかったなぁ。
本当に逢いたかったなぁ。
高校生の頃に出た国語の試験問題が、
こんなに長い未来まで続いてくるなんて。

その後、映画館で映画を見ていたら
ジブリの「風立ちぬ」の予告が流れた。
そんなことを全く知らずに見ていた私は
突然大画面に映し出された「堀辰雄」の名前の文字だけで、びっくりしてしまって、
息ができなくなるくらい泣いた。
だから、何の映画を見ていたかは覚えていない。

堀辰雄さんもいない。
多恵さんも、もういない。
住んでいた空間。
着ていただろうコート。
辰雄さんが出来るのを待ち望んでいた書庫。
多恵さんがそれを指示通り並べた本たち。
誰も残っていない。
でも、手元にある、多恵さんのお手紙。文字。
堀辰雄さんの文章。

高校の国語の先生が、
たまたま出してくれた試験の問題文。
聞かせてくれた軽井沢のお話。

それが、私の人生の長い時間に
多大なる影響と、幸せをくれたお話。

高校の国語の先生とは、
毎年、夏祭りの時に、今でもお会いする。
いつまでも元気でいてほしい。




#忘れられない先生

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