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良いインテリ vs だめなインテリ。(インテリだって考えることをサボればバカになる。)

〈記憶の量~手持ちの情報量〉と〈思考力〉にはなんらかの関係があるでしょう。関係がないわけがない。では、いったいどんな関係があるだろう? 難問すぎて手が出ない。情報量と思考力をX軸とY軸に振り分けてたんじゅんな散布図で相関関係を示すことなどとうていできそうにないから。なお、ぼく自身は〈考える方法さえ持っていれば知識量はそこそこでかまわない〉とおもってはいるものの、しかし、ざんねんながらなかなかそううまくはゆかないもの。



なるほど、あるていど情報量を持っていないことにはまともに考えることはできないし、そもそもその対象について世間が持っている知識の水準がわからないゆえ、相手にしてもらえない。こうして人は知識の量を日夜増やすようになってゆく。



しかし、情報ばかりに頼っていると、人はどんな疑問にも外部記憶に正解を探してしまって、(はやいはなしが検索をかけて)時間の節約に走る。しかもいまや検索文化の時代ゆえ、老いも若きも朝から晩まで検索ばかりしている。こうなると人は考える習慣を忘れてしまう。本人はより正しくより善く考えるために検索をかけているつもりなのに。



検索知ばかりに頼って結果考えることを忘れてしまった人は、そういう人であることがバレてしまう。なぜなら知識相互の関係に矛盾をきたしがちだから。しかもいまの世の中は〈こうすればあなたは得をする〉〈こうすればあなたはもっと美しくなったり、カネ持ちになったり、モテるようになったり、若返ったりして、結果あなたはもっともっとしあわせになれる〉というようなお役立ち情報ばかりがでまわっている。



こういう情報環境でいったいどんな人ができあがるかしらん? 地球環境の持続可能性を考えて、ゴミの分別をしっかりやって、太陽光発電を支持し、電気自動車に乗り、アパレル業界の廃棄問題を憂い、フェアトレードに「イイネ」ボタンを押し、人権を尊重してLGBTQを支持し、健康を考え喫煙者や大酒飲みをバカと軽蔑し、ジムに行き、それではまだ足りないとマインドフルネスを習慣にして、不要な持ち物を処分して、ミニマリストを目指し、しかしカネがないと生きてゆけないので、夜ごとFXに励んだり、電子マネーにカネを突っ込んだりする意識高い系の人が増えている。なるほど、ひとつひとつのお役立ち情報にしたがった行為にはそれなりの理があり自分や家族の幸福に寄与する可能性がある。しかしその人の暮らし全体を見ると、なんかちょっとおかしい。そもそもわれわれはほんとうにまともな情報を与えられているかしらん???



いいえ、いまやなにがまともな情報なのか精査できる人はほぼいない。なぜなら、現代は知の専門領域があまりにも細分化されていて、専門家に要求される知識量はあまりにも膨大である。しかも最新情報がナノ秒単位で生産され続ける。したがって、同じジャンルの専門家であっても、隣の領域の専門家がなにを考えているのかわからないことさえ多い。たとえばマスコミでは脳科学者がもてはやされているけれど、しかし、脳科学者とて脳科学の現在の全貌、その最前線を把握できている人などおそらく誰ひとりいないでしょう。なぜなら、そもそも論文の数が多すぎて読み切れないし、しかも細分化された領域における知の先鋭化も激しい。細分化された領域間の知の整合性を考えることさえ難しい。しかも大学院を出たところで十年も経てば知の枠組はがらっと変わってしまって、もはや専門家として役に立たなくなりがちだ。



とうぜん現代人は、情報量がリッチな人とプアな人がきょくたんな非対称にならざるを得ない。しかも自分の専門領域以外は誰もがみんな情報プアなのだ。たとえば糖尿病にでもなろうものならば、患者は医者の「白衣をまとった知識」に圧倒されて、医者から言われるがままに、やれ血糖値を下げるクスリやら、血圧を下げるクスリやら怪しいクスリを処方される。結果、患者はどうなるかと言えば、患者の体のホメオスタシス(生体恒常性)は徹底的に壊されてしまって、永遠に病院のお客様にされてしまう。また、皮膚科の先生はなにかというとステロイド軟膏を処方して、その場しのぎの治療をなさるけれど、しかし患者がステロイド軟膏を塗らなくなればもとのもくあみ。結局、皮膚病は完治しない。ここでもまた患者は永遠に病院のお客様にされてしまう。病院はときに患者の病気を治しもするけれど、しかしけっこう病院が患者の病気を促進してしまうことも多い。ときに医者は「白衣を着た悪魔」になる。なお、ぼく自身はどちらかと言えば「プラダを着た悪魔」の方が好きだ。(誰もおまえにそんなことは訊いてない。いいえ、ぼくの趣味はともかく)、あきらかにこの世界はおかしなことになっています。おっかないことである。



(なお、ぼくは糖尿病はヴィタミン&ミネラル剤ーとくにマグネシウム剤ーで治した。また尋常性乾癬にかかったこともあるけれど、しばらく皮膚科にもかかったもののいたちごっこにうんざりして、結局、入浴時にひとつまみの重曹を入れることと、そしてワセリンで治した。)



おそろしいことに、人はみんな狭い世界に生きていて、専門外の世界についてはどしろーとだ。狭い狭い領域のスペシャリストばかりが増え、専門領域の全体を見渡すジェネラリストは激減していて。それでもいまの世の中で(少なくとも専門領域内での)ジェネラリストとして発言なさっている人はそれなりにいらっしゃって、たいていは大学を定年退職してフリーランスになった名誉教授である。逆に言えば、現役アカデミシャンの時代には、下手なことを言って同業者からツッコミを入れられでもしたらおっかないので、けっしてジェネラルな視野に立った発言など口にできないから。



ぼくはおもう。情報社会はだめなインテリばかりを増やしていて。情報収集にやっきになって、考えることを忘れてしまう。これはもう逃れようのないこと。ときにぼくらは、限られた情報しか持たないことによってもたらされる幸福というものを考えてもいいのではないかしらん。もっとも、これはミニマリストの教えであり、映画『PERFECT DAYS』の幸福論であって。そういうふうに生きて幸福になれるならば苦労はない。



アインシュタインは言った、「情報は知識にあらず。知識とは唯一経験から得られるものなのだ。」もちろんカントは反論するでしょう。なぜならカントは、経験知と形而上学知を切り分けて『純粋理性批判』を書いたのだから。なお、ぼくはカント信奉者だけれど、しかしアインシュタインの言いたいこともまたよくわかる。そもそも物理学者は公式を使って考える。そんな物理学者が経験の重要を説くなんて、なかなかのものである。あ、なぜか偉そうな文体になってしまった。お恥ずかしい。



ぼくはただ、いまの時代に善く考えることってどういうことかしらん、と考える。答えはまだない。なんだよ、そのオチは!?? 吾輩は猫である構文かよ!??




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