童貞時代の三島作品にはかわいいのがいっぱい。『山羊の首』
短篇『山羊の首』の主人公・辰造は40歳の男性ダンス教師で、妻とも別れ、女たちを口説くことで日々を過ごしている。田舎から上京してきたかれは「女たらしという存在が河豚料理屋の存在と同様に、都会に必須のものである」ことを1年もたたないうちに理解した。かれはダンス教室ほど好都合は商売はないと驚嘆し、そしてかれはダンス教師になったのだった。
ある日辰造はダンス教室で絶世の美女・香村夫人に出会う。「この女には確かに秘密の天分があった。鷹揚で、睡たそうな眼に色気があって、気のなさそうな表情に人を誘う力があって、少ない口数が、話すためにはやや重たげな唇の値打を知らせていた。これだけ体が物を言うので、秘密が物を言うのを邪魔しているのだ。この女を仕留めなかったらまた戦争でもなんでも起こればいい。」
そんな辰造には暗い過去があった。戦争中、五月の青空の下で田舎娘と性交したさなか、切断された山羊の生首に暗いまなざしで見つめられたようにおもえた経験があった。それ以来辰造は熱心な女たらしでありながら、女と性交するたびに山羊の生首の幻想が現れるのだ、悪夢のように。辰造は、そんな自分のトラウマを欲情の対象であるところの香村夫人に話してしまう。
彼女は言った、「あなたその山羊の顔をこちらから見詰めた?」
「いいや」
「見詰められてただ怯えただけなの?」
「まあそうだ」
「可愛いところがあるのね、先生ったら。こっちから見詰めてやれば、山羊の首なんてたちまち消えてなくなるのよ」
「そんなものかしら」
「こんなふうに……」
睡たそうな情のある瞳が、辰造の目の二三寸のところで暗い瞳のひろがりを示した。暗い甘いものがいちめんに滲み出すような瞳であった。
「こちらを見詰めてごらんなさい」
辰造が言われたようにすると、突然瞼がやわらかに下がってきて、美しい睫の影を描いた顔が彼の胸に雪崩れかかった。
「君が好きだ。こんな好きな人は知らない。君と寝てもし山羊の首を見るようなら私はもう生きてはいないよ」
さて、この女たらしのせりふに果たして香村夫人はどんな言葉を返すでしょう? また、香村夫人にとって、女たらし辰造はどういう存在でしょうか? はたまた辰造は燃えたぎる欲情を香村夫人の内部に放つことができるでしょうか? もちろんこの物語にもまた、いかにも三島らしいどんでん返しが控えています。
この小説の読みどころは、辰造が女たらしであるにもかかわらず、しかしながら恋愛のイニシアティヴを握るのはあくまでも香村夫人であること。こんな女たらしなんているわけがない。こんなていたらくで女をものにできるわけがない。もちろん三島の人生を知っている女性読者は微笑むでしょう。なぜって三島は(24歳で『仮面の告白』を上梓した後、男色経験こそ持つものの、しかし)29歳まで童貞だったのだから。もちろんこの短篇も三島の男色経験に先立つ童貞時代23歳の作品です。そうおもって読むと、山羊の首のイメージは、三島の女性との性交に対する怖れの象徴であることがわかります。女が欲しい。でも、女がおっかない。それでも女を抱きたい。しかし、恐ろしくて手が出せない。かれにとっては場合によっては女の内部でも自分に対する性欲が燃えさかっていることさえおもいもつかない。これぞまさに童貞の煩悩です。なるほど処女とて似たようなものながら、しかし処女の場合は呼んでもいないのに勝手に白馬に乗って欲情した王子さまが目をらんらんと輝かせ鼻息荒くやって来てくれますから、処女の懊悩はけっして童貞のそれには及びません。なお、キリスト教文化圏では山羊は黒ミサをつかさどる悪魔の象徴です。クラシック・ロック・ファンならば、ローリング・ストーンズの”Goats Head Soup (山羊の頭のスープ)”をおもいだすでしょう。
ぼくもまた遠いむかし童貞だった頃をおもいだす。当時少年の面影を残すぼくにとってもまた美女はなまめかしい誘惑の化身であり、ふわふわの髪が、長い睫毛が、大きく見開いた瞳が、胸のふくらみが、尻が、脚が、いいえ存在のすべてがぼくの欲情をかきたててやまないにもかかわらず、しかしいったいどうやって女を手に入れればいいのかぼくには見当もつかないのだった。三島の前期作品を読んでぼくは自分のとっくに忘れていた童貞時代をなまなましく生き直す。この時期の三島の短篇はどれもこれも愛おしい。もしもいわゆる文学史的高評価な三島長篇作品ばかり読んでいては、ざんねんながらこの時期の三島の魅力を取り逃がしてしまうでしょう。それはあまりにももったいない。
それにしてもぼくはおもう、なるほど三島は祖母や母に自分勝手に愛されて、結果、三島はひそかに女性憎悪を煮えたぎらせてはいる。しかし、そんな三島はあきらかに女を求めてもいるのだ。自分に君臨し、自分を支配する女ではなく、自分を全面的に肯定してくれて、妹のようにふるまってくれる天使のような女を。ならば、三島ほどの努力家がなぜ女たらしになろうと決意しなかっただろう? 女たらしなんてものは7回8回恥をかいて、振られる経験をこらえさえすれば、誰だってなれる。しかし、三島はけっして女たらしになろうとはしなかった。ぼくはその理由をよくわかる。三島は文学の世界に閉じこもり、自分を天才の位置に置き、俗世間を見降ろし、軽蔑しながら生きている。しかしながら、いくら天才文学者三島であろうと恋愛とは、自分もまた女と同じ俗世間へ「降りて」、女と親密な関係をつくり、気づかれないように彼女の心のなかの小箱をそっと開け、秘められた欲望を解き放ち、彼女の欲望を満足させながら自分の欲望をも達成する(そんなややこしい)いとなみである。それに対して文学界の孤高の王子・三島は俗世間へ降りるなんてまっぴらごめん。もしもそんなことをすれば、王子でもなんでもなくなるからである。童貞時代の三島にとって、恋愛とは凡人のすることなのである。そんな(信じ難いほどプライドが高く、それゆえ孤独を運命づけられた)三島だからこそ、俗世のキリストを気取るモテモテ太宰がいまいましくてたまらないのだ。三島は心中で叫ぶ、バカ野郎、キリストはおまえの役じゃない、おれの役目だ! いやはや。
なお、この作品『山羊の首』は、短篇集『ラディゲの死』(新潮文庫)に収録されています。
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