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8歳で『真珠夫人』を読む少年・三島由紀夫。

三島由紀夫は早熟な文学少年だった。なにせ8歳でアラビアンナイトを読んで、魔法のランプに目をらんらんと輝かせ、魔法の絨毯に乗って空を駆ける。大日本雄弁会発刊の雑誌『少年倶楽部』(後の『少年マガジン』の活字版のようなもの)を大好きで、山中峯太郎のファンだった。いいえ、それだけならあの世代はたいていみんなそうだけれど、しかし同時に8歳の三島は菊池寛の『真珠夫人』に手を伸ばすのだ。



『真珠夫人』は当時の大人気新聞連載小説です。どんな話なんでしょう? 「主人公・瑠璃子は元華族の娘、とうぜんのように幸せな人生が約束されているかにおもわれていた。 しかし、時代や社会の波は、汚れを知らない彼女を呑み込んでゆく。彼女は、 父の名誉を守るため、没落しかける家を救うため、新興成金の荘田勝平の妻となる。しかし、彼女には 将来を誓った恋人・直也がいた。」三島にとって『真珠夫人』の読書は、後年職業作家になるための職業訓練にもなったでしょう。だって、まるで三島が書いたっておかしくない小説でしょ。



とうぜんのように三島少年は菊池寛の『恩讐の彼方に』(下男が旗本を殺害し、出家するものの、殺害された旗本の息子が成人し、仇討ちの旅に出る。やがて出会ったふたりは・・・という物語です)、さらには三島は尾崎紅葉の擬古典調文体で書かれたメロドラマ『金色夜叉』まで読みまくる。それでいてケストナーの『点子ちゃんとアントン』に熱中するところがかわいらしい。(もっとも児童文学の枠組で書かれたこの作品は、当時ヒトラー政権下のドイツがいかに危険な状況にあるかをひそかに告発したものなのですが。)中学生になると三島は、谷崎の『春琴抄』『蘆刈』『盲目物語』で変態文学の洗礼を受ける。中学2年で、いよいよ十代作家ラディゲの『肉体の悪魔』『ドルジェル伯の舞踏会』と出会う。十代の三島ははじめて、才能の輝きに満ちた十代作家を読む。三島がどれだけ興奮したか知れません。なお、この時期三島は『ユリシーズ』、シュルレアリスム、コクトーにも関心を寄せる。



そして三島はいよいよ1942年17歳で『花ざかりの森』で雑誌デビューを果たします。冒頭を引用しましょう、「この土地へきてからというもの、わたしの気持には隠遁ともなづけたいような、ふしぎに老いづいた心がほのみえてきた。」これ、プルースト文体でしょ。なお、『失われた時を求めて』の初訳(部分訳)は1931年にはじまってるんですね。



17歳にしてすでに文体が完璧に完成されています! ありえない巧さ。ただし、別の見方をすれば、三島の場合、現実とほぼ無関係に、ブリリアンントな言語世界ができあがっていて。三島の場合あきらかに、言語世界の方が経験に先立って完成されています。


はやいはなしが三島は17歳の癖して、初恋も、はじめてのキスも、セックスも、三角関係も、結婚生活も、不倫も、ゲイライフも、中年のクライシスも、親子関係も、老齢期も、すべて小説上であらかじめ知っているんですね。まるで17歳で人生を生き終わったかのように。逆に言えば、三島にとって人生上のすべての経験は、文学で読んだことの追体験(あ、なるほどこういうことだったのか)であり、かつまた三島はあらゆる経験に文学上のロールモデルを探す。ここに三島の小説の人工性の所以があります。


他方、当時の日本の文学状況は、日中戦争の戦時下であって、1938年火野葦平の『麦と兵隊』がベストセラーになっています。戦時下とは、文学状況もまた戦時下なんですね。(なお、火野葦平は敗戦とともに戦犯作家と見なされ、書くことができなくされました。)


こうした状況のなかで、ただひたすら美を求めて小説を書く三島は、清水文雄や安田與重郎、蓮田善明ら日本浪漫派、ひいては川端に庇護を求める。また、観念の人・三島は、生涯、自分が観念の人であることと格闘するはめに陥ります。なお、三島はドイツ語が抜群にできたことが有名ですが、同時にフランス語もまた日常会話に困ることのないなかなかのものです。



thanks to 安藤武編『三島由紀夫「日録」』未知谷刊 1996年



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