三島由紀夫について書いてはいけない事実を書いてしまった男。福島次郎の哀しい純情。
三島がゲイ寄りのバイだったことは、いまでは誰もが知ることでしょう。ところが日本ではこれについて正面切って発言することは三島存命時はもちろんのこと、没後30年にわたって厳しく厳格なタブーでした。00年代以降、文学研究の主流派がジェンダー~LGBTQに注目するようになって、ようやくありのままの三島を理解しようとする機運が高まってくるものの、しかし日本国内ではいまだ三島がゲイ寄りのバイであったことは、やんわりとしたタブーに包まれています。世の中にはたとえ公認されていても、しかし、けっして公言してはいけない事実というものがあるのですね。
もっとも、〈その人の性的嗜好を知ることはその人を知るもっとも重要な鍵になる〉という考え方はいかにも俗っぽく、週刊誌の関心の持ち方ではある。なぜなら、性的嗜好は私的領域ゆえ、人それぞれ好きに楽しめばそれでいい、世間からとやかく言われる筋合のことではない。しかしながら、小説家という商売は厄介なもので、なぜなら、小説家は他ならない〈私〉の想像世界を作品にして社会に送り届ける。したがって、その〈私〉とは誰なのか、どんな出自でどんな履歴を持つのか、そして私的領域においてどんな性的嗜好を持っているのかもまた、文学研究の対象になってしまう。かつてフランスの文学研究業界で流行した考え、テクストを読むことだけに集中せよ、ただひたすら精読せよ、というわけにはゆかないのである。ましてや三島は早すぎる晩年、行動するサムライになっていわば文学の外へ出て、あのスキャンダラスな自決をおこなった人である。三島由紀夫を理解するにあたって、けっして作品だけ読んでいればいいというわけにはいかない。
たとえ三島が(文学的に美化された)少女の心を持ち、たくさんの女性と社交を愉しみ、また三島に女性たちとの恋愛経験がいくつかあったにせよ、また瑤子さんと結婚し、一男一女をさずかったにせよ、しかし他方で三島はゲイライフをも楽しみもしたし、また三島が男のなかの男になって最期は英霊になるのだと決意し、自衛隊体験入隊、盾の会結成、そして自決に進んだことには、憂国の情はもちろんのことながら、同時にいくらかなりとも三島のゲイ的嗜好と交差してもいたことでしょう。
しかし、日本においては三島についてこういうことを指摘することは永いあいだ厳格なタブーでした。理由のひとつは三島の没後、三島の著作権管理を誠心誠意情熱的に担当した妻の瑤子さんが、三島がゲイであったことに言及する著作や映画を嫌ったためでもあって。なるほど、瑤子さんのお気持ちはよーーーくわかります、妻のプライドですね。なるほど、世の中には三島と瑤子さんの結婚を「偽装結婚」と見なす人までいて、(ぼくはけっしてそうはおもわない、三島はただバイだっただけだとおもうけれど、いずれにせよ)さぞや瑤子さんを傷つけ苦しめたことでしょう。なお、三島と瑤子さんは1958年6月1日に結婚、当時三島はボディビルをはじめて3年めで33歳、瑤子さんは21歳。結婚3年めが『憂国』で、この作品は三島自ら映画化もした。ふたりの結婚生活はわずか12年間だった。
日本では三島がゲイ寄りのバイだったことを触れるのはタブーなのだ。これによって、たとえばコッポラとルーカスが総指揮をとり、ポール・シュレイダー監督が撮った映画"Mishima: A Life in Four Chapters"(1985)は日本では公開されなかったし、いまだDVD発売もされていません。できないんですね。出演は緒方拳、坂東八十助、佐藤浩市、沢田研二、永島敏行ら、美術は石岡瑛子、音楽はフィリップ・グラス。この映画はカンヌ国際映画祭で、最優秀芸術貢献賞を受賞したにもかかわらず。
さて、福島次郎著『三島由紀夫ー剣と寒紅』(文藝春秋刊 1998)もまたこのタブーを無邪気に破ってしまった。福島次郎(1930-2006)は熊本県から上京した、貧しく社会の周縁的な育ちの(当時)東洋大学の学生のゲイで、三島の『仮面と告白』と『禁色』にぞっこん心を奪われた青年だった。かれはその純朴さが買われて、書生さんとして三島家と関係を持った。庭に穴を掘ったり、植木を切ったり、植え替えたりするのみならず、4章構成の本書の2章で明かされるとおり、青年時代の著者に三島は性的関係を持った。本書には当時の三島のゲイライフもまたひじょうに具体的に明かされています。なお、著者の三島との性的関係についての描写と感慨は、ともずれば三島愛読者の感情を逆撫でするのだけれど。さらには、著者はゲイであり自分もまたその後、熊本の工業高校で国語教師をするかたわら、ゲイであることを主題にした小説を同人誌に書くようになる。そして著者は自分もまた小説家の立場から三島の作品群を分析・考察してゆく。三島の没後28年め、著者68歳で刊行された本です。
もっとも、この本は三島の遺族から訴えられて敗訴し、出版差し止めとなった。Wikipedeiaにおいても、この本はひじょうに評判が悪い。しかし、著者はこれをたとえタブーを犯してでも書かずにはいられなかったでしょう。なお、ぼくにとってこの本は三島のゲイライフのリアルよりもむしろ、三島の母、倭文重さんについての描写に胸を打たれる。著者は学生時代に三島のみならず平岡家と深く関係を持ち、著者にとって倭文重さんは「優しく、気取りもなく、自然であたたか」い「東京」「上流社会」「母親」のもっとも佳い、理想的な憧れの女性だった。当時の平岡家は「名声も冨も愛情も併せ持っていた」。ところがその平岡家という王国が、三島の自決とともに、瓦解し、誰よりも三島のことを理解し全面的に肯定していると自負する、母なる王妃・倭文重さんは運命の残酷、むごたらしさにただひたすら耐えなければならないのだ。長い時を経て、三島の自決後三島の両親のもとをおそるおそる訪ねた著者の、両親に歓迎されながらなお、痛切な心境が伝わってきます。
こういうふうに事態を見る著者だからこそ、晩年用賀の高級老人ホームに入って孤独のなかに打ち捨てられた倭文重さんへの哀切が深い。本書はいささか週刊誌的なプロットに依存する傾向はあるものの、しかし、心のこもった、斬れば血の出る切実な本である。しかし、繰り返すが、三島のゲイライフを明らかにすることは没後28年経った当時であってなお、日本ではタブーを破ることだった。こうして福島次郎は(三島の妻・平岡瑤子さんはすでに本書刊行に先立つ1995年に心不全で亡くなっていたが、しかし)三島の長女・冨田紀子さんと長男・平岡威一郎さんに訴えられ、ひいては文学界によって葬られた。