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ゲイなのにどうして女を愛そうとするの? 純情可憐な三島由紀夫。20代前半。

まず最初に、三島が育った環境が毒親オールスターズだったことからはじめましょう。三島由紀夫の祖父の定太郎は貧農から官僚に成り上がったものの、あれこれの不正蓄財によって失脚させられた人物である。すなわち、三島の一族にとって汚点のような人物である。



三島は祖母のなつ(夏~夏子)の越権によって支配欲の強いなつのもとで育てられた。なつは公威(三島)に女の子の服を着させ、童話を与え、歌舞伎に連れてゆき、に女の子の友達をあてがって育てた。三島が母・倭文重(しずえ)と接するのは、わずかに授乳の時間だけだった。三島は12歳まで、このなつの下で育てられた。後に三島は、母・倭文重との逢瀬の時間をまるで恋人と過ごす時間であったと回想し、自分にとって倭文重は、自分の作品の最良の読者だったと記しています。いいえ、三島の少年時代に話を戻しましょう。



両親の下で暮らすようになれば、今度は三島は父親・平岡梓に苦しめられる。父は、文学が大嫌い。少年時代の三島が書いた小説を破り捨てるような男である。なお、三島の父は東大法学部から大蔵官僚になった人物ながら、しかし官僚として無能だった。



他方、三島の母親・倭文重(しずえ)は漢学者の次女であり、本人も作家になりたかった人。倭文重は三島の文才を育てることに熱心であり、三島の机にそっと原稿用紙を差し入れたりするのである。



ふつう人は十代半ばで反抗期を迎えるものである。ところが三島の場合は、あまりにも「良い子」に育てられたこと、そしてまた、たとえ反抗しようにも反抗の対象が、祖父、祖母、父とみんな揃って毒親ゆえ、反抗の対象が定まらない。



ともすれば暗い空気に支配されがちな家庭にあって、唯一明るさをもたらしてくれたのが三島の妹の美津子だった。三島は美津子を愛した。しかし、その美津子も敗戦の二カ月後に、(三島の情熱的看病にもかかわらず)腸チフスで死んでしまう。三島の戦後は、美津子を失った絶望からはじまった。



三島は父の命令にしたがって、東大法学部、大蔵官僚の道を進むものの、しかし、けっきょく大蔵省を9カ月で辞めてしまい、専業作家の道を選ぶ。そのとき書き上げたのが三島の遅れて来た反抗期の最初の作品『仮面の告白』であり、それは自分がゲイであることを匂わせる、粉飾された自伝的小説である。ぼくはそれをおおむね事実で構成された大嘘ではないか、と訝しむ。むしろ三島が書こうとしなかった事柄のなかにこそ、三島理解の鍵がある。たとえば、『仮面の告白』のなかに美津子は登場しない。また、森茉莉さんが愛愛の父・鴎外から無限に愛された幸福とそれが失われたことの哀しみを描いた私小説『甘い蜜の部屋』のような小説を、三島は美津子を題材に書いても良かった。しかし、三島はそのような小説をけっして書こうとしなかった。



次に、『仮面の告白』は4章構成で、後半、園子が登場し、三島とおぼしき主人公は園子を精神的にも肉体的にも愛そうとするのだけれど、しかし三島は優柔不断にももう一歩を踏み出せない。けっきょく園子は他の男と結婚してしまう。そして読者にもやもやした気持ちを残しつつ、小説は終わる。



もしも三島に寄り添って理解するならば、三島の言い分はこうだろう。「おれはゲイだけれど、そんなおれも一度は女を愛そうとがんばったんだ。でも、無理だったんだよおおおおお!!!



こういうエクスキューズを入れてしまうところが、三島の用心深い周到さである。しかも、三島のこの主張は怪しい。だって、三島は妹・美津子を溺愛したではないか。なるほど美津子の場合は妹ゆえ、性的関係がなかったことはあたりまえである。しかしながら、三島には女全般に対して愛と性の分離があって、なるほど、当時の三島は女を精神的には愛せても、肉体的には愛せないのだ。いかにも徹底して親族の願望に沿うかたちで自己を形勢してきた良い子(お坊ちゃん)らしい、めずらしい青年である。逆のタイプ(女を肉体的には愛せても、しかし精神的には愛せない男)ならば世にごまんといるものだけれど。後に、三島はそんな自分の優柔不断な半生を悔いて、『不道徳教育講座』を書いた。



こうした三島の精神構造を見てゆくと、ひとつの謎が残る。ゲイの三島にとって、なんのためらいもなく男ならば性的に愛せるということは、いったいどういう心の働きなのだろう? そもそも三島が育った家庭環境のなかで、三島があこがれ同化したいとおもえる男はひとりもいなかった。




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