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雨の武蔵小杉から戻ると、環に襲いかかったのは危険ドラッグでトリップした男。そこから、ヒネの正体が浮かび上がり始める。或いは『フワつく身体』第十三回。

※文学フリマなどで頒布したミステリー小説、『フワつく身体』(25万文字 366ページ)の連載第十三回です。(できるだけ毎日更新の予定)

初回から読みたい方はこちら:「カナはアタシの全て……。1997年渋谷。むず痒いほど懐かしい時代を背景にした百合から全ては始まる。」

前回分はこちら:あの頃、加奈や美頼は堕落の象徴であった……二人は混迷の時代の中、大きな物語に縋ろうとする人々と邂逅する。或いは『フワつく身体』第十二回。

『フワつく身体』ってどんな作品?と見出し一覧はこちら:【プロフィール記事】そもそも『フワつく身体』ってどういう作品?

八割方無料で公開いたしますが、最終章のみ有料とし、全部読み終わると、通販で実物を買ったのと同じ1500円になる予定です。

本文:ここから

■二〇一七年(平成二十九年) 九月二十二日


 環は多摩川を超えて川崎にいた。JR武蔵小杉駅、新南改札、午後七時。

 昼過ぎから降り出した雨は本降りになっていた。横須賀線側に設けられた改札は小さい。ビニール傘を差した私服姿の環は、駐輪場側に身を潜めて、環は人の流れを見ていた。

 乗降人数に対して、改札の数が足りていない。JRと周囲のタワーマンションのディベロッパーの足並みが揃っておらず、改札の向こうは長い人の列ができていた。改札を通る人々はタワマンの住民たちは、瀟洒な雰囲気を身にまとっている。

 改札を抜けた人々は、次々に傘を開き、夜の道に歩き出して行く。その中にやや頭頂部の薄くなった中肉中背の男を見つけた環は、黒い傘を差す男の肩を叩いた。

「うわぁぁ」

 男は自身の傘の向こうに、街灯の光に浮かび上がった環の姿を見つけると、声を上げた。振り返った男は竹谷だった。

「お久しぶりー、て、そうでもないかな」

 座った目のままで、口元だけ笑顔にして環は言った。竹谷の傘から滴り落ちる雫が環のブラウスの袖口を濡らした。

「なんの用ですか、あの件だったら立件されなかったでしょう」

 環は竹谷の二の腕を掴んで、人の流れから外し、街灯の当たらない、駐輪場側の角に引き込んだ。互いの傘から滴り落ちる雨が環の腕を濡らすが、環はお構いなしに力を込めて、竹谷のやや柔らかい二の腕を握り続ける。

「本当、汚え手段使ってな」

 雨が強くなっている。ビニール傘に当たる鈍い雨音にかき消されないように環は声を張って言った。

「どういう意味ですか。私は何も知りません。ただ、証拠不十分で立件できなかった。それだけです」

「私がこの目で見てんのに、証拠不十分も何もねえだろ、クソが。最初に捕まえた時に、DNAが出なかったので、気づけば良かったんだな。あの結果もたぶん、どっかが握り潰してた。本当、世の中クソ過ぎて反吐が出る」

 竹谷は息を整えてから、

「まあ、立件を見送って頂いて、あなたも良かったんじゃないですか。私は、起訴されたら、粗暴な女警官に脅迫的に自白を強要されたって裁判で主張するつもりでしたから」

 嫌味ったらしい口調でそう言った。

 何だよ、粗暴て。

「そうですかー。ありがとうございますー。今日現れたのは、別に握り潰されたことの腹いせとかそんなんじゃない訳。私もね、気づいたのかもしんない。警察やってくことはグロさに慣れることだって。グロテスクって、轢死体のマグロとかそんなんだけじゃないんだなって」

「じゃあ、何しにこんなところで僕を張ってたんですか。雨の中」

「松田正太郎って元文部官僚、あんたの叔父でしょう。八年前に代官山の踏切で自殺した」

「なんで今さらそんなことを。おっしゃる通り、叔父でしたけど、なんのためにそんなことを聞きに?」

「まあ、いいから。あんただって、私に多少の負い目は感じてるでしょう、つべこべ言わず、教えてくれる?」

 環は竹谷の二の腕を掴む手により力を込めた。

 竹谷は環の目をちらりと見てから、その後は目を反らすと、二、三秒経って口を開き始めた。

「……叔父に関しては、あんな方法で死んでしまって、親戚の間でも触れ難い存在になっているんですよ。東急が提示した賠償金は酷いもんでしたからね。エリート、近親者に会社経営者ってことで、躊躇なく盛りましたから。とは言え、叔父の天下り先はあまり大きな出版社でもなかったし、経営状態も芳しくなかったから、うちの父がね、大分肩代わりしたんですよ」

「へえ。文部官僚ともあろう方が、経営状態のあまり良くない出版社に天下り。やっぱそれはイデオロギー的な繋がりな訳? 確か教科書作ってるとこだったよね。採用率の低いやつ」

「その辺は詳しくは知りませんよ。たぶん、あなたが調べた以上の知識は持ってないです」

「松田正太郎。文科省の中では、戦前の皇国史観に繋がる右派、保守派のグループに所属。いわゆる、自民党の文教族議員とも関わりが深い。バブルの頃に徐々に省内で主流派から遠ざかって、退職。出版社に天下り。その出版社は九十年代後半からの保守運動を下支えした、ま、ざっとそんなもんかな」

「私が叔父の経歴について知ってるのも、そんなものです。もういいですか」

「ダメ」

 去ろうとする竹谷の腕を環はさらに力を込めて掴んだ。雨が伝って、肩の下まで濡れ初めている。

「聞きたいのはまず、あんたのその『女が強くなったから痴漢する』とか言う、クソ過ぎる言い訳、それはあんたのオリジナル? それとも叔父さんの影響?」

「あれは、口をついて出ただけで……。」

「ほお、さすがにそんなことを普段から主張する奴はいないか。あんたと松田、どのぐらいの関係?」

「どのぐらいって、結構、可愛がってもらいましたよ。大学卒業して、フラフラしていた頃、叔父の出版社に雇ってもらったこともありました。とは言え、叔父の主張にはあまり興味がなかったです。政治とか別に、その時の自分に有利になる方につくだけなんで、まあ、金もらってた都合上、同調してたところはありましたけど」

「なるほど。叔父さんが左派だったら、平等や人権を守ることを建前では主張しながら、痴漢を働くクソ野郎になってたってことか。どっちがより酷いクソかは分かんないけど」

「なんなんですか、あなた。本当もういいでしょう」

 環はさらに竹谷の腕を掴んで、引き寄せると耳元で囁くように言う。

「あんたはクソ野郎だけど、罪悪感を感じないサイコ野郎じゃないはず。繰り返すけど、私に負い目はあるでしょう。松田が死んだ時はそれなりにショックで悲しかったはず。今から八年前、松田は自殺するような兆候はあった?」

「いえ、ありませんでした。すごく元気でした。ちょうどその前、自分で渋谷に事務所を立ち上げることになって、引っ越すことになって、もういい歳だったのに手伝ってやるとか言い出して」

「手伝うって、手続きとかそういうこと?」

「そうじゃなくて、力仕事です。椅子とか机とかダンボールとか。張り切って運び出して、正直少し困ったと言うか。だから、そんなに元気だったのに、自殺したと聞いた時、驚きました」

「なるほど。何かに悩んでいたとか、大きな病気をしていたとかそういうことも」

「会社の経営状態は確かにあまり良くありませんでした。ですが、それが死ぬほどのものだとは思えなかったです。もういいですか、このくらいで。今、私は二回も捕まったせいで、妻と関係があまり良くないんです。今日もこれから話し合いがあるんで」

「ほう、それはおめでとう」

 竹谷の顔が険しくなる。その顔に向けて環は言う

「捕まったせいでって、なんでこっちのせいな訳? 私はちゃんと仕事をしただけ。あんたは痴漢を働いた。私はそれを確実に見た。なのに警察は組織のために、不正義を一つ、この世に放った。あんたの罪は裁けない」

 環は、竹谷の黒縁メガネの奥の目を見据えて続けた。

「だから一つお願い、呪わせて。これからずっとあんたが不幸になるように、呪わせて」

 そう言うと、「ほら行った!」と言いながら、竹谷の背中を押した。

 竹谷は武蔵小杉駅の改札から押し出される傘を差した人々の流れの中に押し出された。黒い傘を持った竹谷はバランスを崩し、後ろから歩いてきた女性がぶつかりそうになった。女性は怪訝な目で竹谷を見る。竹谷は振り返って環を睨みつけた。だが、すぐに人の流れに合わせて歩き始め、夜の道に紛れてしまった。


 環は武蔵小杉駅に戻る。雨の日の湿気た空気がホームを包んでいた。秋雨前線のせいで今日は肌寒い。その上、竹谷の傘から滴り落ちた雨水が袖から上半身へ伝わって、いつの間にかびしょ濡れになっていた。

 寒い。

 環は両腕で自分の身体を包むようにホームの上に立っていた。

 湘南新宿ラインのホームは湾曲している。空間が歪んだホームに立ちながら、寒さに震えながらあの時代を思い出していた。

 バブル崩壊後の暗い世相。

 不景気になり、大人たちが無駄な消費をやめた。大学生も、就職難で遊んでいる場合ではなくなった。バブルの狂乱の名残は、年少世代の女子高生たちの間で生き残った。

 女子高生がシャネルやプラダ、ヴィトンを持つのは当たり前だった。ハイブランドでなくても、雑誌に載っているような服は、ファストファッションで間に合ってしまう現在よりもずっと価格が高かった。

 バブルが崩壊して、これからは質素な時代がやってくる、心の時代がやってくる、と安堵する声も少なくなかった。 

 不景気が若年世代を直撃し、貧困化を招き、少子化を進ませたということが言われるようになったのは、ここ十年ぐらいのことだ。

 むしろ、あの頃の大人たちは若年層の中に残ったバブルの残滓を忌み嫌った。

 欲望を加速させる資本主義は本質的に、意地汚く、醜い。

 不景気の中で彷徨わなければならなくなった自分たちを慰めるように、欲望のままに生きたかつての自分たちの醜い姿を女子高生の中に押し込めた。

 それは、エコロジーに回帰して見せようとする左派にも、国家に回帰しようとする右派にも共通した前提だったのではないだろうか。

 奇しくも、戦後五十年を迎えた年の初め、阪神淡路大震災が起きて、その二ヶ月後に地下鉄サリン事件が起きる。

 バブルの崩壊にそれらの出来事が追い打ちをかけ、戦後社会の正しさを問うてきた。ある漫画家が社会運動から、戦前を賛美するような右翼思想に転向したのもこの頃だった。

 社会不安を、国家や父権を求めることで解消しようとする人々が目立ち始めた。松田もこういった人々の一人だった。

 一方で、そんな彼らをあざ笑うように、社会の混乱を仕方ないものと、主張する人間もいた。それが巻紙だった。

 未成年の売春でさえ、本人の自由意志で語ろうとする姿勢は、秩序を重んじる人々をますます混乱させ、国家への依存を高めただけだった。

 そして、巻紙も数年後にはその主張を引っ込めなくてはならなくなる。自由意志のはずの売春は確実に未成年の少女の心を摩耗させていた。

 巻紙が死ぬ直前、『タチバナカナ』を名乗る人物は、巻紙に何を伝えていたのか。そして、松田も関わりがあるのか。

 接近音が鳴る。環は、ホームに滑り込んできた車両に乗り込む。

 車窓を流れて行く景色を見ながら、思考は二十年前と今とを行き交い、とりとめのないことを考えていた。

「ただいま戻りました」

 分駐所に戻った環は、だるそうにそう告げた。

 所内にいたのは赤城だけだった。

「タマ姉、ずぶ濡れじゃないですか」

「ちょっとね、過去に渋谷周辺の踏切自殺で死んだ人の身内に聞き取りに」

 それが竹谷だとは言わなかった。

「元文部官僚、松田正太郎の甥。松田は八年前、今はもうなくなった代官山の踏切で死んだ男。巻紙と同じで、自殺するような原因は見当たらなかったって。むしろ引っ越しの手伝いをするぐらい元気だったってさ」

 経緯をざっと伝えた環に、赤城はため息とさえ言えないような小さな息を、一つついてから、

「単独行動、小隊長の負い目で許されるのも限界がありますからね」

 と言った。

「てゆっか、一番負い目感じてるのは、赤城っち、あんたでしょ」

「バレました?」

「家族背負って行かなきゃって真面目に考えてる赤城っちだからこそ、圧力に屈して何が警察だって、真面目な赤城っちが一番思ってる」

「ご名答。いよっ、名探偵! 金田一! 杉下右京! 江戸川コナン!」

「はい、茶化さない」

「ま、でも早く風邪引かないように制服に着替えて下さい。行きますよ、警ら。現場の下っ端の人間にできるのは今、目の前にある仕事を淡々とこなすだけですよ。俺たちは」

「うわ! またカッコつけて俺って言った」

「一人称ぐらい好きにさせて下さい」

 駅構内の警らも基本は二人一組で行う。

 環は、シフトによって、葉月と組んだり、赤城と組んだりする。

 JR渋谷駅の構内は、特に変わった様子はないまま、日付が変わっていた。

 埼京線、湘南新宿ラインは最終が終わっている。山手線の最終は二十五時七分、品川行。道行く人々からは酒の臭いが漂っている。だが、何かトラブルの様子はない。そもそもこの雨では元々の人出が多くなかった。

 先程ずぶ濡れになった環は、長袖の夏服を着ていた。その上から防刃チョッキを羽織る。真夏は暑くてたまらないが、今日のような日は有り難い。風邪は引かないで済みそうだ。

 ベルトの周りに右から拳銃、背中には、手錠、無線の左側には警棒が並ぶ。警察官は常にウエストの周りに重たいものをぶら下げている。「こんな重たいもんを毎日ぶら下げてたらそりゃ、腰も悪くならぁ」とは瀧山の弁である。

 荷重のせいで、ズボンが下がり気味になるので、ドラマやフィクションで見るよりも実際の警察官の姿は野暮ったい。

「腹いせに、暗そうな奴、職質して点数稼ぎしとく? うちの兄貴みたいな奴。きちんと痴漢挙げて揉み消されるよりも、抵抗しない奴を適当に職質しといた方が、もうそれで仕事したってことになるんじゃない?」

「やめて下さい。質の悪い冗談は」

「抵抗できない奴を力で押さえつけて、それで満足するって、痴漢の発想と一緒か」

 環はそう言ってため息をつく。

 今晩は何も起こらないまま、職務が終わるだろう、と思っていた時だった。

 背後から叫び声がした。

 湘南新宿ラインに向かうコンコースを、ひょろひょろとした体格の男が、まるで関節を固定されているようなぎこちない動きゆっくりと歩いている。

 男は歩きながら、言葉になっていない叫び声を上げていた。

「あああ、ぬぅわ、うううう、うぇううううう」

「マルセイですかね」

 赤城が環に話しかけると

「その表現嫌いだけどね、そうかもね」

 マルセイ、とは主に統合失調症などの精神障害者を指す警察隠語である。

 駅や電車の中で、どこにもいない相手に向かって独り言で罵声を浴びせ続けるそういった人々を職質したり、保護したりすることは、酔っ払いや痴漢の相手並みに多い。

「すみません、ちょっとお話よろしいでしょうか」

 赤城が男に話しかけた。目が虚ろで口の端からは涎を垂らしている。

 これは、統合失調症ではないのかもしれない、と環が思った時だった。

 男が環に向かって殴りかかってきた。環はすかさず避ける。

「はい、公務執行妨害の上、傷害未遂」

 環はそう言いながら、警棒に手をかけて、男との間に間合いを保つ。赤城と目配せしあう。

 赤城が背後に回り込んで取り押さえるつもりだ。

 すると、男は斜めがけにした薄汚いショルダーバッグの中から、三十センチにも満たない金属の棒を取り出した。

 その棒をくるりと開くと、鋭利に光るものが現れた。バタフライナイフだった。

「ちょっと、そういう物騒なもん、お巡りさん相手に振り回すのやめようか。後が怖いよ。法的に」

 環が警棒を構えながら、そう言い終わると同時に男は、うめき声を上げながら、両手でバタフライナイフを持って、こちらに突進してくる。

 環はとっさに避けるが足元が乱れてバランスを崩した。クソ、さっきずぶ濡れになって冷えたせいで、筋肉がうまく動かないのか。男のナイフが頬をかすり、一筋傷をつけた。

 バランスを崩した環に向かって、さらに男はバタフライナイフを振りおろそうとした。

 ヤバい、

 急いで立て直そうとしたところで、赤城が男の後ろに回り込んで、男の肩を右手で抱え込んだ。

 男が一瞬抵抗してもがいたところで、赤城は足で男の足を払う。そのまま男は転倒した。見事な大外刈だった。

 赤城は転んだ男のナイフを持っている右手を後ろに回して、背中を押さえ込む。

「サンキュー、さっすが小さな黒帯」

 環がそう言いながら、腰から手錠を取り出した。

「小さなは余計です」

「ともかく、恩に着るよ」

 環はそう言いながら、ベルトの背中側についているケースから手錠を外し、赤城が押さえている男の右手にかけた。

 環は男の左肩をパンプスで踏みながら、男の身体の下になっている左肩を後ろに回そうとする。男は尚もうめき声を上げながら、抵抗しようとするが、二人に押さえられて、釣られた魚のようにバタバタするだけだ。

 赤城が男に言う。

「いい加減にして下さい。銃刀法違反、公務執行妨害、それに傷害」

 まで言ったところで赤城は環を見た。

「未遂でいいよ、このぐらい」

 環の頬に入った一筋の切り傷からは、赤い血が一滴、したたり落ちていた。

「ともかく、役満なんで大人しくして下さい」

「ていうか、それだけじゃないよね。それは後で確認するけど」

 環はそう言いながら、男の左手にも手錠をかけた。
 
 環と赤城、それに騒ぎに気づいて現れたJRの駅員二人にも挟まれながら、男は分駐所に連行された。

 分駐所に着くと、渋谷署からの応援も二人やってきた。渋谷署へ連れて行くのは、分駐所で落ち着くのを待ってからというのが上の指示だと言う。

 だが男は分駐所に着いた頃から、一切抵抗をしなくなり、呆けた目で虚空を見上げるだけになった。

 名前を尋ねても名乗らない。黙秘しているというよりも、心ここにあらずと言ったところだった。

 バタフライナイフが入っていた斜めがけのショルダーバッグの中には、使い古した財布が入っており、中にはきちんと国民健康保険証が入っていた。男の名前は、江崎翔太。住所は千葉県の木更津市であることは分かった

  赤城が、

「上着、確認させてもらいますよ」

 と言って、ジャンパーを脱がせ始めたが、彼は特に抵抗はしなかった。

 薄汚れ、色褪せた、黒のジャンパーの胸ポケットをまさぐると、
「あ、なんだこれ」

 と言ってでてきたのは、タバコの箱よりも一回り小さい紙袋だった。

 紙袋には極彩色の絵が描いてある。環はどこかで見たことがあるように思った。

 赤城がパッケージを見ながら、

「ああ、まだ危険ドラッグという名前もなくて、脱法ハーブと言われて、まだ店頭で売られてた頃に見たことがありますね。これ」

「ああ、そうだったかも」

 危険ドラッグという名称に変わったのは二〇一四年、池袋で過剰摂取した男が車を暴走させ、一人が死亡、六人が重軽傷を負う事故があってからだ。

 それまで、お香やバスソルトという名目で、繁華街の専門店で店頭販売されていたが、その事故の後、一斉摘発があり、実店舗で販売されることはなくなった。

 現在はネットを介しての売買が主流だと言う。

 紙袋には、極彩色の幾何学模様が描かれ、かなり抽象化されているが、女性の身体のようなものが描かれている。

 その身体の臍の下辺りに、縦型の楕円形の内側に小さな三角形が描かれ、女性の腹が奇妙な形に割れているようにも見える。

「これ、確か店舗販売されている中で一番、強力って言われていたやつだったはず」

 赤城がそう言う。

 環は、江崎の方を見て、

「これ、どういうことかなあ」

 と聞いたが、答える素振りはなかった。分駐所には沈黙だけが流れて行った。

 恐らく、先程暴れたのも、統合失調症ではなくこのドラッグの過剰摂取によるものだったのだろう。

 紙袋は振るとサラサラと音がする。こういったドラッグは、乾燥した植物に植物本来の成分とはなんの関わりもない化学物質を混ぜ込んである。炙ったのか、パイプに入れて吸ったのか。

 沈黙に耐えかねて、赤城が誰に言う訳でもなく、危険ドラッグの入った包み紙を見て、

「なんて名前だったかな、これ、あー、思い出せそうで思い出せない。摘発に力入れてた渋谷署の山内さんだったら覚えてるかなあ」

 と言った。すると、分駐所の扉が開いた。山内だった。

 また、特殊能力だ。

「ご苦労だった。深川巡査長、怪我は大丈夫か?」

「大したことありません」

「大事にするように」

 以外と優しいこと言うじゃないか。

「今度は揉み消さないで下さいよ」

 環が声を落としてそう言うと、

「もう忘れろ、深川。そもそも痴漢なんて大した犯罪じゃない」

 ハゲめ。さっきの感想は撤回。やっぱり世の中は反吐が出るほどクソだ。

 殴ってやりたくなるのを、環は押さえた。

 山内は、江崎の前においてある、危険ドラッグのパッケージを見た。

「ああ、これは酷い奴だ。LSDよりも強力な幻覚作用がある。販売名は通称、ヒネ」

「ヒネ?」

「そう、このパッケージ、人を食うという南の島の女神、ヒネとか言うのからとったらしい」

 ヒネ?

 @hine19800815

 もしかしたらハインでもハイネでもなく、このヒネなのではないのだろうか。

本文:ここまで

 続きはこちら:第十四回

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読者の皆様へ:

※この話はフィクションであり、現実の人物、団体、施設などとは一切関係がありません。

※警視庁の鉄道警察隊に渋谷分駐所は存在しません。渋谷駅、及び周辺でトラブルにあった場合は、各路線の駅員、ハチ公前の駅前交番、渋谷警察署などにご連絡ください。

※現在では、一九九九年に成立した児童買春・児童ポルノ禁止法において、
性的好奇心を満たす目的で、一八歳以下の児童と、性交若くは、性交類似行為を行った場合、
五年以下の懲役若くは五百万円以下の罰金、又はその両方を併科されます。
本作品は、こういった違法行為を推奨、若しくは擁護するものでは決してありません。



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