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環は美頼の遺骨に会いに行く。そして、友人の秋と、あの頃について語り合う。見えていたことと見えていなかったこと。或いは『フワつく身体』第十五回。


※文学フリマなどで頒布したミステリー小説、『フワつく身体』(25万文字 366ページ)の連載第十五回です。(できるだけ毎日更新の予定)

初回から読みたい方はこちら:「カナはアタシの全て……。1997年渋谷。むず痒いほど懐かしい時代を背景にした百合から全ては始まる。」

前回分はこちら:あの時、巻紙は街を浮遊する少女たちは傷つかないと言った。二十年後、闇の女神が見えて来る。そして知らされる美頼の死、或いは『フワつく身体』第十四回。

『フワつく身体』ってどんな作品?と見出し一覧はこちら:【プロフィール記事】そもそも『フワつく身体』ってどういう作品?

八割方無料で公開いたしますが、最終章のみ有料とし、全部読み終わると、通販で実物を買ったのと同じ1500円になる予定です。

本文:ここから

■二〇一七年(平成二十九年)十月一日


「ごめんね、付き合わせちゃって」

「ううん、私も行かなきゃいけないと思っていたから」

 環の中学、高校の同級生の中山秋はそう返した。

 の二人は府中本町の駅前で待ち合わせたところだった。これから、美頼の家に線香をあげに行く。美頼の葬儀は行われなかったと言う。荼毘にふされ、遺骨となった美頼は四十九日が過ぎた後に、家の墓に入るのを待っている。

「あー、私も喪服にすれば良かったかなあ」

 秋は環の黒いパンツスーツ姿を見てそう言った。環はきちんとした喪服ではなかったが、中に着ている襟なしのブラウスまで黒い。だが、今日は陽気が良くジャケットまで着るとかなり暑い。

「大丈夫じゃない?」

 環には、美頼の人生の最期の時期にしつこくした負い目があった。その分をせめて服に表そうと考えたら、全身黒になってしまった。それだけだった。

「そうかなあ」

 秋と会うのは何年ぶりだろう。

 環と並ぶと大分差のある、あまり大きくない身長、縁なしのメガネも、サイドで一つに束ねた髪も昔の印象と変わり無かった。

 秋はフレアの大きく入ったキャメル色のガウチョパンツにゆったりした白いブラウス。落ち着いた服のセンスも変わっていない。

 中学も高校も、図書委員だった環に対して、秋は文芸部長で同じクラスだったので、仲良くしていた。だが、親友と呼ぶには社会人になってからは離れ過ぎてしまったように思う。

 二人はタクシーを割り勘して、美頼の家に着いた。環の実家と似た、築、三~四十年といった感じの戸建て住宅だった。

「わざわざ、ありがとうございます」

 そう言って例をした美頼の母の久美子は憔悴した中にも、どこか安堵したような表情が見えた。

 久美子は環の方を見て、

「最期に美頼が不快な思いをさせて申し訳ありませんでした」

 と言った。

「いえ、こちらこそしつこくして申し訳ありませんでした」

 そう言って環は頭を下げた。

 居間の奥には祭壇があり、真ん中には位牌。その右側には白い箱に入った美頼の遺骨があった。遺骨の前には、病室にも置いてあった、加奈からもらったという白い花の指輪がある。

 位牌の左には、遺影が飾ってあった。だが、先日環が見た美頼の顔ではなかった。ずっと若い印象のある笑い顔だった。

 写真を見ていた環の視線に気づいた久美子が、

「最近の写真はなかったので、高校生の時のものを遺影にするしかありませんでした」

「成人式とかも?」

 そう聞いたのは秋だった。

「はい。その頃、体調が悪かったのもありますし、何よりも振り袖を着たがりませんでした」

「そうでしたか」

 秋がそう返した後、ぎこちない間が流れた。

 環が「それじゃあ」と言って、環、続いて秋と線香をあげて、合掌した。

 環と秋が頭を上げると、久美子が、美頼の遺骨に向かって

「お友達が来てくれたよ。中学の時の」

 と言った。

 そして、久美子は環の方を見て、

「もう、美頼は怒ったりすることはないと思います」

 と言って、力なく笑った。

「いえ」

 環はなんと返していいのか分からなかった。

 糸のように細く白い線香の煙が、天井に向かって緩やかに舞いながら、登って行く。

 白檀の香りが鼻をくすぐる。

 煙の方向を追って行くと、窓の外が見える。今日の空は突き抜けるように青い。深い青が目の奥に染み込むようだ。

「本当に、こうやって来てくれる友達がいたのに、あの子ったら」

 久美子の言葉は誰に言う訳でもなく放たれた。

 秋が口を開いた。

「私たちも、高校に入ってからは、美頼ちゃんとはあまり口を利きませんでしたから。今さら、亡くなってから現れるなんて虫が良すぎるような気もしますが」

 久美子は首を振って、

「あの子が一方的に、中学の時のクラスメイトは自分を馬鹿にしていた、そう思い込んでいましたから」


「ちょっと、環、死ぬ前の美頼に何言ったの?」

 美頼の家を出た後、環と秋の二人は府中本町駅に戻って、駅近くの居酒屋に入っていた。

「んー、まあ」

 とおしぼりで手を拭きながら、口ごもった後、店員を見つけ

「すみません、とりあえずビール、生中一つ、秋も生中でいい?」

「ごめん、私薬飲んでるから、ウーロン茶で」

 店員がカウンターに向かって

「はい生中一丁、ウーロン茶一丁」

 と叫ぶのを横目に身ながら、環が、

「なんか、ごめん。違うお店の方が良かった?」

 と聞くと、

「ううん、大丈夫。てかもうアラフォーで、同級生と会ってファミレスとか切ないし」

 と返した。

「そっか」

 秋は大学を卒業して入った会社を鬱病になって辞めていた。ずいぶん前の話だが、まだ薬は飲んでいたんだな。

 自分の配慮の足りなさが気まずい。

 そう言えば、昔より秋は痩せたような気がする。だが、それが、ダイエットによるものではなく、体調によるものだったとしたら気まずいので「痩せたねー」的に褒めるのはやめようと思った。

「あと、鶏の唐揚げ」

 と、秋が戻ろうとする店員を捕まえて言った後、

「まあ、鶏唐食べたかったからちょうどいいよ」

 と環に言ったのは、気を利かせたのだろう。

 すぐに運ばれてきたビールとウーロン茶で献杯する。

「八月の末にさ、うちの母親から美頼があんまり長くないって聞かされて、見舞いに行ってみたんだよね。あんまり深いこと考えないで」

「うん」

「なんか、私がお見舞いに来たこと自体が嫌だったみたいで、中学の時の話とか振ってみたけど、思い出したくなかったみたいで、それで、さっきもあったでしょ、遺骨の前に白い指輪」

「シャネルのね」

「へー、そうだったんだ」

「本当、環そういうところ疎いよね」

 中学、高校と環は図書委員だったけれども、典型的な本の虫だった秋に比べると、本がそこまで好きな訳ではないことに劣等感を持っていた。

 中学高校時代の環は、女の子になり損ねた感じがしていた。それは、性同一性障害というほどの強力なものではなかったし、子供の頃からずっと性自認は女であることには変わり無い。

 ただ、小学生の頃から剣道をやって、「お兄ちゃんより勇ましいね」と言われてきた環は、気がつけば置いて行かれた気がしていた。

 一体、皆どのタイミングで、女の子になったのだろう。

 だから、中学に入ると、同級生の中でも、自然と恋愛とお洒落に促されて行った子たちよりも、本が好きな秋や大人しい美頼の方が気が合うようになって行った。

 環は言った。

「へへ、本当、ブランドとかって良く分かんないよ、未だに。昔より服が安くなって良かったよ。私服着なきゃなんないこともあるけどさ、ジーユーとかユニクロとか行って、適当にカゴにぽいぽい放り込めば、一応笑われない格好にはなるじゃん」

「ZARAとか?」

「ZARAは怖い。H&Mまで」

「相変わらずだなあ」

 秋はフチなしメガネの奥の目を細めて笑った。

「話逸れたね。それでね、思い出とかが厳しいなら、今、そこにあるものの話をしなくちゃと思って、あのシャネルの指輪を可愛いねって、手を伸ばしたら、帰ってくれって言われたんだよ。あの指輪は加奈からもらったものだったんだって」

「ふうん。なるほどね」

「なるほどって何が」

 環はビールを一口飲んでから聞いた。

「環ってお巡りさんじゃん。犯人の取調べとか、家出人とか保護したとか、なかなか口を利いてくれない人に対して同じように、とりあえず手元にあるものの話とかするでしょ」

「うん、まあね」

「そういうところなんじゃないかな。プロっぽさがにじみ出ちゃって、それが嫌だったんじゃないかな」

「えー、そんなあ」

 と言って、お通しの枝豆を口に運んだ。

「だって美頼は、高校の途中からずっと摂食障害患って、社会に出ることなかったんだし。何かのプロになることもなかった。環は勝ち組なんだよ」

「えー、勝ってる自覚全然ないけど。結婚してないし、出世してないし」

「それでも、公務員で病気してないだけ勝ち組だよ。私だって、一度鬱病やって、その後ずっと派遣だし、なんか使い捨てられた感じするわ」

「世知辛いなあ」

 秋は大学卒業後、中規模の印刷会社に就職したが、四年後に激務で鬱病になって会社を辞めている。

「派遣は不安定だけどさ、派遣でいるうちは残業あんまないからね。やっぱり一度鬱やっちゃうと、元の体力には戻らないから。環はタフで羨ましいよ」

 警察官は激務だ。二十四時間勤務で、縦社会、男社会だ。

 辞めて行った同僚は多い。激務な分、民間企業より遥かに福利厚生は充実しているが、特に女性は結婚や出産を機に辞めてしまうことが多い。

 それにどうせ、出世しようとしたって、女では足を引っ張られるだけだ。

 ただ、同世代には民間企業に就職したにもかかわらず、警察の方がマシだな、と思われる労働環境を潜って来た人は多い。

 そして、警察官を目指すような人間よりも、体力に自信があった訳ではないのであろうに、警察官以上の激務を経験した同世代たちは、大体、身体を壊している。

「環ぐらいタフだったらなあ。せめてもっとプライベートも充実するんだろうなあ。推しの舞台全通とか」

「えっ? そっち?」

「うん。もう、社会的成功ってあんま興味ないから、ヲタ活を充実させたいとか思うんだけど、やっぱり身体がついていかないよね。ま、お金もそんなにないけど。実家が太くて若い子が羨ましいなあ。あ、なんか関係のないことぼやいちゃった」

「いいよ。別に」

「結婚も縁がなかったしね。それは環も一緒だろうけど。婚活とか自分から、やる気もなかったし。結局さ、就活って茶番だったでしょ。ものすごい苦労させられた茶番劇。で、適当なところに拾われて、入ってみたら、超ブラック。だからさ、なんとか活ってもう全部、胡散臭いんだよね。就活の先にブラックが待ってたみたいに、婚活の先にもクズ男が待ってそうでさ」

「ぼやくねー、ウーロン茶しか飲んでないのに」

 と環が言ったところで、店員がさっき頼んだ唐揚げを持ってきた。環はメニューを見ながら、

「あ、あと、旬のお刺身五点盛り、秋、生魚、大丈夫だったよね」

「もち」

 店員がメニューを復唱して、去って行くと秋が、

「ぼやくよー、公務員には無許可レモンかけじゃ」

 まだ油がはぜている鶏の唐揚げにレモンを絞った。

「あ、なんで勝手にかけるのー。まずは熱々を食べて、レモンはさー、冷めて来た頃にかけるのがちょうどいいんじゃん」

「このぐらいのやっかみは受けろ。ていうか、熱々の鶏唐とクエン酸のハーモニーこそ至高じゃ」

 と笑いながら、秋はさらにレモンを絞った。

 環は一言、「もお」と言った後、話題を戻した。

「ところでさ、その後、美頼が最後に言ったんだよね。『カナは生きている』って。結局、加奈はどこに行ったんだろう。美頼は何を見たんだろう。何も語らないまま、死んでしまったけれど」

「そうなんだ。そう言ったんだ。美頼が」

 秋はウーロン茶を飲む手を止めて、驚いた。

「まあでも、妄言の類の可能性もあってなんとも言えないみたい」

「そうだよね。つっても、お巡りさんの環に分からないものが一般人の私に分かる訳ないよ」

「美頼と加奈の二人が渋谷で援交してるって噂あったじゃん。あれって、どこから回ってきたんだっけ?」

「あー、あれね。確かサトメグのグループが渋谷で、加奈が良く知らないオヤジと歩いているのを見たって、噂になってたんだよ」

 サトメグこと、佐藤恵。クラスで一番目立っていた子だ。今ならば、スクールカーストの最上位とでも言うのだろうか。

「加奈のこと探してるの?」

「いやま、行方不明者の捜索は自分の仕事の範疇ではないんだけど、一応は気にしてる」

 無論、踏切自殺者が持っていたスマートフォンから、タチバナカナというアカウントが出てきたこと、それが危険ドラッグの売人と同じ契約者であったことなどは、口にできない。

「やめとけば」

 秋はそう言って、鶏唐をつついた。

「え?」

「だってさ、もし加奈がどこかで生きているのだとしても、高校時代の援交なんて、黒歴史オブ黒歴史でしょ。そのことが失踪のきっかけになったんだとしたら、なおさらもうほじくり返されたりはしたくないんじゃないかな。だって、年間の行方不明者って三万人ぐらいいるって聞いたことあるし、二十年前のその中の一つだよ」

 環は何も言えなかった。タチバナカナのアカウントや連続しているように見える奇妙な自殺が見えていなければ、確かにそれは正論だった。

「加奈って、あんな風にドラマチックにいなくなっちゃったから、すごい美少女だったように記憶しちゃってるけど、卒アル見返すとさ、もちろん可愛いんだけど、アイドルとかモデルのレベルじゃなかったんじゃないのかなって思うんだよ。私たちが、調布の女子高生で色々見えてなかったから、エキセントリックな美少女に見えてたんだけど、今思い返せば、ただの背伸びしてたサブカル少女だったんじゃないのかな」

 意識したことのない意外な表現だった。

「例えば?」

「結構、加奈って教室で本読んでたじゃん。カバーしないで」

「うん」

「なんかこう、難しそうなの読んでるなあ、ぐらいにしか思ってなかったでしょ。でも思い返すとさ、例えば澁澤龍彦だったりして、ありがちと言えばありがちなんだよ」

「そうだったんだ。『世界悪女物語』とか?」

 澁澤龍彦の著作の中で思いついたものを挙げてみる。

「そうそう、澁澤はもちろん偉大なんだけど、今思い返すと、そういう尖ってみたい自意識の定番だなあって。あと、すっごい分厚い本読んでるなあと思ったら、京極夏彦の『姑獲鳥の夏』だったり。ていうか、文芸部で京極回し読みするようになったきっかけって、加奈が読んでたのを私が真似してみたからなんだよね」

「そうだったんだ。あ、そう言えば、加奈が京極読んでたの覚えてる。今までに比べて、ずいぶんヲタっぽいの読んでるなあって思ったんだ」

「私が買ったやつ、環のところまで回ってたっけ?」

「いや、文芸部の一年の子が、図書室にリクエスト出して入れた奴。先輩からなかなか落ちてこないって。そりゃあんだけ厚ければね。でも私も剣道の試合とか立て込んでて、読んでるうちに貸出期限が来て、結局買っちゃた。あれ? でもこないだ実家になかったな。兄貴に貸した後、どうなったんだっけ? まあ、いいや。ともかく、加奈が最初で、そこから私たちに広まってったんだ。で、そんなことを知らずに、加奈はシリーズの続きを読んでたと」

 そう言った環に、秋はウーロン茶を一口含んでから、

「そういうこと。だから、言い方はアレだけど、加奈って記憶にあるよりも痛い子で、だから、今さら追いかけて、黒歴史ほじくり返すことないんじゃないかなと思って。だってさ、環だって、文化祭の時にした天上ウテナのコスプレ写真とか、今さら見たくないでしょ。うちにあるけど」

 環は飲みかけのビールをむせた。

「やめて。しかも、秋が持ってるのって、あれ、白目剥いてるやつじゃん」

 携帯電話にカメラなどついていなかった時代だ。写真は大体写ルンですで、現像するまでどう撮れているか分からなかった。

「でしょ」

 秋がニヤニヤしながら、環の顔を指さした。

「ドヤ顔やめてよ。そうだよね。秋がシノラー気取って、プラスチックチェーンのブレスレットとか、髪型をミッキーみたいなおだんごにしてみたけど、キャラ合わな過ぎて三日で辞めた時のプリクラとかな。うちにあったはずだけど」

「やめて」

「でもさ、そしたら、結局美頼は、本当はありがちなサブカル少女だった加奈に振り回されて、二十年、時間が止まったままだったってこと? 悲し過ぎない?」

 環はため息をついた。

 たとえ、あの頃の加奈が思っていたよりも、ありがちな存在だったとして、あのLINEアカウント、タチバナカナ@hine19800815はどうなるのだ。

 この世界のどこかで大人として暮らしている立花加奈とは全く関係なく、誰かが騙っていたとでも言うのだろうか。

「ところでさ、環、美頼が死んだって聞いてから泣いた?」

「ううん、なんでだろう。悲しくてやりきれないんだけど、涙は出てこない」

 元から涙もろいタイプではない。だが、きっと、泣いたら終わりになってしまう。涙はカタルシスだ。そう思っているからだろう。

「私も泣けない。後ろめたいんだと思う」
 秋はそう言って、視線を落とした。

「なんで?」
「鬱やったり、派遣やったりしてて、冴えない人生だからこそ、美頼よりマシだって、どっかで思ってたんだよね。私。汚いよね」

 秋はそうため息をついて、続けた。

「だから、ここで哀れんで泣いたら、自分の中の優越感を固定しちゃう気がしてね。だから、美頼のお母さんに『美頼は中学の時の友達には馬鹿にされていると思っていた』って言われた時、なんかグサっときた」

「なんか、エグい告白だなあ。でも、馬鹿にされてるって思ってたのは、中学の時の話でしょう。それ以降のことじゃないでしょう」

「うん、中学の時の、ぽっちゃりしていて、大人しくて、天然だった頃の美頼のことなんだとは思う。でも、それとどっかで繋がってたのかなって思って、ドキっとした」

「やめてよ。なんかそれ怖いから。でも、自分もどっかで、兄貴よりもマシって思ってたところあるから、分からないでもないけど」

 環はそう返してみたが、本質からズレているような気がした。沈黙の代わりに、居酒屋の店員の声が耳に入る。

 お会計入りますー!

 お次三名様どうぞー!

「環のお兄さん、もう引きこもりやめたんだっけ?」

「バイトに出るようになってだいぶ経つよ」

「何がきっかけで、外に出れるようになったの?」

「うん、兄貴さ、引きこもりの時期、ちょこちょこネットに二次創作のSS上げてたのね。ジャンルは東方かなんかだったかな。で、すごい褒めてくる人がいて、その人が誘うから勇気を持ってオフ会に出てみたんだって。兄貴よりもちょっと年下の小柄な男の人だったんだけど、陽にあたってない兄貴の真っ白な手をとって『あなたは素晴らしい!』って。兄貴が相変わらずの小声でもぞもぞしていると、『あなたが書いた話ほど、僕の心に届いたものはなかったんだ。世界の誰がなんと言っても、僕にとってあなたは唯一無二の人だ』とかなんとか、褒めちぎられて……ちょ、ちょっとそこの腐女子、人んちのきょうだいで萌えない」

「いい! それ! 今度何かで使わせてもらう」

 秋は環の顔を指差しながら、興奮していた。
「良くないよ。結局、三十過ぎるまでうちの兄貴が、褒めれば伸びる子だって、家族の誰も分かってなかったことだもん」

 環はビールを飲み干して、店員を見つけて、

「次、ハイボールで」

 と言った。

「かしこまりました。ハイボール一丁!」

 まだ涙を出すことのできない、世界のやるせなさを、とりあえず、今日はアルコールで流し込むしかないと、環は思った。

 秋と別れた環は、今日は実家に帰ることにした。

 まだ夜十時だったが、両親は既に寝ていた。年々両親の就寝時間が早くなっているようだ。親も老いて行っている。

 首の部分が伸び切って、醤油のシミが大きくついたトレーナーを着た兄の卓也が、狭いキッチンで猫背をさらにかがめて、ストロングゼロを飲んでいた。

「環も飲むか」

 いつものような消え入りそうな声で聞いてきた。

「いいよ、珍しく充分飲んできたから」

 環は、酒の代わりにコップに水道水を注いで、それを飲みながら兄の向かいに座った。

「美頼の家に行って、線香あげてきた」

「そうか」

「中学の時の、ちょっと天然で大人しくて、ぽっちゃりしてた美頼を私は友達だと思ってた。でも、向こうは馬鹿にされてると思ってた。私は美頼のこと好きだったんだけどな」

「そうか」

 やはり、卓也は消え入りそうな声でつぶやくと、ストロングゼロを呷って続けた。

「俺は小学生の頃、全国の殆どの小学生がそうだったように、志村けんが好きだった。ドリフは俺の生きがいだった。志村けんを尊敬していた。でも、馬鹿にしていた。『志村、後ろ!』ってな。たぶん、今の全国の小学生は出川哲朗が好きだ。出川を尊敬している。でも、きっと馬鹿にもしている、そうだろう」

「はあ」

「少し経って、裏番組のひょうきん族が話題になって、子供っていうのは飽きっぽい生き物だから、チャンネルをそっちに変えるようになった。ドリフに興味がなくなった俺は、志村を馬鹿にするのもやめたのかもしれない。何かを好きと思う心と、馬鹿にする心の境目は曖昧なんだよ」

「なるほどね」

 何かを好きと思う心と、馬鹿にする心の境目は曖昧か。

 そんなこと、中学の頃の自分に気づけるはずもない。

 ぽっちゃりだとか天然というキャラを押し付けていたことに、好意だからと見えなくなっていたのか。

「だが、弁明する隙間もないまま、向こうが死んでしまったのは、やりきれないな」

 卓也はストロングゼロを飲み干した。

「そうだよね」
 音のないキッチン。冷蔵庫のモーター音の輪郭がはっきりと耳に届く。

「こないだ、俺が調べてやったやつ、あれどうなった? タチバナカナって、その美頼ちゃんと一緒にいなくなった奴じゃんか」

「ごめん。そっから先は守秘義務。ていうか、Google Playのプリペイドカードあげたじゃんか。あれは、謝礼で口止め料」

「えー」

 小声ながらも、卓也は口をすぼめて続けた。

「あれ、全部突っ込んだんだけど、目当てのキャラ引けなかったんだよ」

「知らねえよ。私の給料はそもそも国民の皆様の税金なんで、それでガチャ引くからだよ」

 環は呆れた。ゲーム課金が引きこもらずにバイトを続ける動機になっているのはいいとして、ハマり過ぎじゃないか。Google Playカードじゃなくて服でも買ってやった方が良かったんじゃないだろうか。いや、それでも結局メルカリ辺りで売って突っ込んでしまわれるんだろうなと思った。

 また沈黙が流れた後、卓也が口を開いた。

「ところで環、兄ちゃんの話も聞いてくれ」

「何?」

「なろうで書いてる、『四十一歳のフリーターが異世界で無双する話』の読者がぜんぜんつかん」

 卓也なりに真剣なのだろうが、環にはどうでも良すぎる話だった。なんだそれ。

「……設定が悪いんじゃないかな」

「ストロングゼロを飲むと、四十一歳のフリーターが巨大ロボに変形するんだが、異世界にどうやってストロングゼロを召喚してるんだって、ツッコミがついてな」

「知らんがな」


本文:ここまで

続きはこちら:第十六回

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※この話はフィクションであり、現実の人物、団体、施設などとは一切関係がありません。

※警視庁の鉄道警察隊に渋谷分駐所は存在しません。渋谷駅、及び周辺でトラブルにあった場合は、各路線の駅員、ハチ公前の駅前交番、渋谷警察署などにご連絡ください。

※現在では、一九九九年に成立した児童買春・児童ポルノ禁止法において、
性的好奇心を満たす目的で、一八歳以下の児童と、性交若くは、性交類似行為を行った場合、
五年以下の懲役若くは五百万円以下の罰金、又はその両方を併科されます。
本作品は、こういった違法行為を推奨、若しくは擁護するものでは決してありません。


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