思いやりは情とイコールではない


思いやりは情とイコールではない。
フィクションかどうかは知らないが、戦国大名の人質を例に出すなら、
大義の際のリスクは身近な情を切り捨てる事がほとんどだ。
泣いて馬謖を切る事で、兵卒に対し示しをつける事が思いやりなのだ。

情の根っこには人肌のスキンシップ、思い出などの利害関係がある。
これは生理的な物であって、利己的で主観的な物だ。
そうなると必ず贔屓が発生し、それは同時に他への差別となってしまうと。
ボンクラ息子を甘やかせて、結果他人に計り知れない損害を出すなら、
「これは一体何なのだ?」という話になる。
なので思いやりの為には同時に非情さが必要になる。
公平性をいかに保つかが重要であって、バランスという物が一番大事だ。
多くを得る者から情を抜き、貧しい者に情を与えて成り立つと。
その為には視野の広さ、フラットな思考が重要になる筈だ。

これが現在の中央値である垂直思考だと「弱肉強食の情」になる。
上には情が発生し、下には非情になる。
自己保存の身びいきな情はあるが、メリットの無い他者へは非情だ。
そんな彼等はいつも自分を愛情深いと思っているようだが、むしろ無い。
また思考スパンの塩梅、想定の幅、つまり想像力によって基準が変わる。
個人単位、コミュニティ単位、国、生態系、世界、宇宙と基準が変わる。
利己主義者の強烈な情、自己愛の激しさを知ってる人は話が早いハズで、
情という印籠によるとてつもない理不尽、不公平を目撃する。

自分はフレネミーや毒親への情、おそらくは共依存の情を論理で切り離し、
ストックホルム症候群の心理、罪悪感を捨てる事でえらくスッキリした。
今では雁字搦めだった心の鎖からようやく解き放たれた気がする。
苦しめられた心の重し、加害者に対する忖度が消えたのだ。

かつては自分のこの自虐の情を求め、悪意に満ちた連中が付け込んで、
その罪悪感を利用し、怒ったり泣いたり媚びたりと演じ分けて、
都合のいい利己の情を引き出そうとしていたのだと理解できた。
もっと言えば、こちらの苦悩を自分への喜びに変換して遊んでいたと。
彼等の感情には全く道理が無く意味も無い、単なる被害者ぶった俳優だ。
同様に多くの苦悩する人たちも、冷静に俯瞰して自分の周囲を観れば、
自分自身が公平な位置に居ないと気付くはずだ。
周りが甘えているなら、自分も当然甘えていいと判った瞬間楽になる。
自分自身にも相応の情、思いやりを持てば理不尽な相手から回収できる。
不公平な情を棄て去れば、本当の思いやりを得られるはずだ。

自分も他人も上も下も偏りなく、等価の存在だと思う事で解決する。
傲慢も謙虚も無いとイメージし、ランク付けせず素のままいけばいい。
贔屓も差別もしないのが「もっとも生産性のある思いやり」だと思うのだ。

おしまい。

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