見出し画像

自由とは忘却なり。腰痛からの回復者は保護を忘れる

📖 文献情報 と 抄録和訳

保護から非保護へ。保護から非保護へ:動作、姿勢、障害性腰痛からの回復を調査する混合法研究

📕Wernli, Kevin, et al. "From protection to non‐protection: A mixed methods study investigating movement, posture and recovery from disabling low back pain." European Journal of Pain (2022). https://doi.org/10.1002/ejp.2022
🔗 DOI, PubMed, Google Scholar 🌲MORE⤴ >>> Connected Papers
※ Connected Papersとは? >>> note.

[背景・目的] 腰痛は、動作や姿勢が関係していると一般的に考えられている。しかし、腰痛と動作・姿勢の関係について、特に回復後の人々がどのように理解しているかについては、ほとんど分かっていない。我々はこの理解を質的に探求し、それがどのように変化し、量的な変化とどのように関連しているかを調べることを目的とした。

[方法] 障害のある非特異的腰痛患者12名を対象とした既存の単一症例デザインに基づく混合法研究。理学療法による12週間の認知機能療法介入の前後にインタビューを行い、そこから得られた定性的な知見を、動作、姿勢、心理的要因、痛み、活動制限に関する個別の定量的な測定値と統合した。

[結果] ベースライン時のインタビューにおいて、動作と姿勢に関する強い信念が確認された。緊張とこわばりの生活体験は「非意識的な保護」の体現を特徴とし、医療や社会のメッセージは痛みに関連する恐怖と「意識的な保護」を促すものであった。様々なプロセスを通して、ほとんどの参加者は、より保護的でない動きと姿勢の戦略で、時間の経過とともに改善したことを報告した。そして、ほとんどの参加者は、自動的で正常な、恐れのないパターン(「無意識的な非保護」)に戻り、腰痛のことを忘れていた。ある参加者は、意味のない変化を報告し、保護されたままだった。自己報告要因のポジティブな変化に伴って、脊柱の範囲が広がり、動きが速くなり、姿勢がよりリラックスし、背筋の筋電図が減少した。

[結論] 本研究結果は、持続的で障害のある非特異的腰痛からの回復過程において、人々がどのように動作や姿勢に意味を見出すかを理解するための枠組みを提供するものである。これは、動きと姿勢の脅威から治療への再認識につながる。

[臨床意義] 障害性腰痛を持つ12人の認知機能療法介入前後の質的インタビューから得られた知見は、意識的・非意識的保護から、ある者は意識的非保護へ、多くの者は非意識的非保護への個人的回復の道程を浮き彫りにしていた。運動、姿勢、心理的要因、痛み、活動制限に関する事前および事後の定量的測定は、定性的な知見とよく統合されていた。この結果は、動作と姿勢が多次元的な疼痛スキーマの一部を形成している可能性を示唆している。

🌱 So What?:何が面白いと感じたか?

いやぁ、歩き方なんて、これまでかんがえたことなかったよ。

患者さんとの話の中での、頻出会話の1つではないだろうか。
健常者は自分の歩き方を考えない。
自分の食べ方を考えない。
自分の話し方を考えない。
ただ、目的が認識されると、勝手に歩き、勝手に食べ、勝手に話しているのだ。
考えることはといえば、その目的とその内容だけだ。
以下の言葉に集約されている(名著なので、セラピストは必読書❗️)。

動作は「自動化」されており身体運動の「記憶」など必要としない。このように動作を軽々とこなすとき、まさしくそれを制約する諸機能が「意識下」に沈み込んで見えなくなっているのである。
(中略)
健康な成人の日常生活では、普通身体運動をそれとして意識することがない。エネルギーコストばかりか、注意集中のような心理的負担まで最小限で済ませるようになっている。このような意味で身体の物理的運動はそのものとして自己を主張することがなく、運動はいつも何かの動作であり、動作も社会的な行為や知的な活動の縁の下に身を隠すことができる。動作に意識と身体運動の二元論が顕在化しないのもこのためである。

📗からだの自由と不自由―身体運動学の展望 長崎浩 >>> amazon.

だが、ひとたび疾患を発症する、障害/傷害をおう、症状が出現すると、世界は激変する。
「あれ、どうやって歩いてたんだっけ?どうやったら痛くなく歩けるかな。」とか、考えるようになるのだ。
意識の水面下に、潜り込んで原因を探ろうとする。
以下の言葉に、集約されている。

デカルトの時代から、人体を機械と見立てるのが基本的な仮定である。ところが、このような人体機械の法則が3つの階層(詳しくは書籍参照してください)を成して露呈するのは、動作の自由が失われたときなのである。身体に障害がある。このような状況で初めて、人間に機械的法則が、すなわち物理と生理がまざまざと立ち現れてくる。かつて病院に勤めたとき、このことが私には目覚ましい印象だった。

📗からだの自由と不自由―身体運動学の展望 長崎浩 >>> amazon.

1つの構成物がその役目を果たさなくなったとき、分解してみなくてはならなくなる。
目覚まし時計が鳴らなくなったら、分解してその原因を探り、修理が必要になるように。
設計図まで、展開しなきゃならなくなる。
それは、容易なことではない。
高度な知力と、膨大な労力を要する仕事だ。
プロの仕事、職人の仕事であるべき高度な内容。
そして、そのプロ、職人こそ、僕たち理学療法士(+OT & ST)だ。
プレイヤーの成功が、意識を無意識に折り畳むことにあるなら、
治療者の成功は、宇宙ほどもある無意識領域の力学や設計を熟知し、時にバラし、時に組み立てる、という至難の業を縦横無尽に繰り出すことが求められる。
つまり、無意識を意識の日のもとに引っ張り出し、晒し、すべからく説明し切れる、という能力が求められる。

そもそも、人はなぜ、立てていると思う?
だって、重力で崩れ落ちるはずじゃん。
それが、崩れないのは、なぜ?
何かが、崩れないようにしているんだよね?
それは、明確に、何?

そのような質問を学生や新人にしたときには、宇宙人に遭遇したようなポカンとした顔をされることになる。
それまでに考えもしてこなかった大陸なのだろうと思う。
そりゃそうだ、と僕は思う。
何せ、健常者はほとんど立ち入ることのない領域なのだからね。
だけれども、『そこ』こそが、僕たちの主戦場なのだ。
それは、早晩、知ることになるだろう。
知らないままでいる人も、いるかもしれない。
だけどそれは、セラピストとして決して、幸いなことではないと僕は思う。
ごく狭い領域に安住して、職業人生を終えることに近いから。

そもそも、歩き方なんて考えたことなかったよ。
そもそも、食べ方なんて考えたことなかったよ。
そもそも、話し方なんて考えたことなかったよ。
ええ、そうですよね。
でも、安心してください。
僕たちは、ずっと、考えてきました。
理解が及ぶ範囲で、分かっていることがたくさんあります。
僕たちの微力が及ぶ全範囲で、全力を尽くします。
これから、宜しくお願い致します。

そんな人が担当セラピストとしてきたら、きっと僕は惚れてしまうだろうと思う。
そして、そんなセラピストに、僕自身がなってゆきたいのだ。
思いが強すぎて、当該論文のことをほとんど触れることなく、この長文・・・。
最後に、その膨大な身体運動の水面下のシステムを理解しきる自信がない、と挫けそうなあなた。
大丈夫。
僕を含め、だれも分かりきっている人間はいない。
なにせ、かのニュートンすら、こう言っているのだ。

私は、海辺で遊んでいる少年のようである。
ときおり、普通のものよりもなめらかな小石やかわいい貝殻を見つけて夢中になっている。
真理の大海は、すべてが未発見のまま、目の前に広がっているというのに。

- Isaac Newton (アイザック・ニュートン) -

僕たちは、その力の及ぶ範囲で、精一杯、真理を追い求めればいいのだと信じている。
たった1つでも前進があれば、この上なく幸いなことだ、という楽観を胸に。

○●━━━━━━━━━━━・・・‥ ‥ ‥ ‥
良質なリハ医学関連・英論文抄読『アリ:ARI』
こちらから♪
↓↓↓

‥ ‥ ‥ ‥・・・━━━━━━━━━━━●○
#️⃣ #理学療法 #臨床研究 #研究 #リハビリテーション #英論文 #文献抄読 #英文抄読 #エビデンス #サイエンス #毎日更新 #最近の学び

この記事が参加している募集