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学校に行かないという選択。「比べるよりも、自分の場所で。2」

先日、noteでこのような記事を書かせていただいた。

比べる、とは何か?と考えている。
比べるということは、相対的なものであって、比べる対象が必要になる。

学校という場は、その最たるものなのだろうと自分の子ども時代を振り返ってしみじみと思う。誰かと比べて自分はどれだけ何が出来て、何が出来ないのか。何が自分の得意なことなのか。不得意なことは何なのか。

学校では、同じ年齢の子どもたちが一括りになっているので、そのことがわかりやすいのだろう。その集団の中にいて、自分を誰かと比べないことはなかなか難しいことだと思う。


そもそも、〈比べる〉ということ自体が問題なのだろうか?


先日、長男の中学校で校長先生との進級に関する面談があった。去年も同じ時期に校長先生と初めてお会いして、お話させていただいた。

校長先生にもタメ口をきき、なかなかハラハラした面談であったが、最後には校長先生も「あなたの夢が叶うように最大限応援します!」と言ってくださり、ありがたかった。

その校長先生は、昨年度で異動となり、今年度はまた新しい校長先生が赴任している。4月からこの面談の日までお会いする機会がなかったので、はじめてお目にかかる。

どんな方だろう?長男が噛みつきませんように!こう書くと野犬のようだな・・・長男よ・・・。しかし、前回の面談から1年。長男も成長している、はずだ。

面談当日、学校長との面談の前に、クラス担任との面談が行われた。いつもどおりの「最近、どんな感じ?」という会話が繰り広げられ、長男が、「またいつもの会話か」と、面倒臭いオーラを放つ。先生も慣れたもので、受け流してくださるので、それはそれでありがたい。

「先日、高校の授業の見学に行ったんです。」と担任の先生。

「高校生たちも〈自ら学ぶ〉という姿勢が身についている子は少なくて、〈やらされている〉という感じが否めない、高校の先生もそう言ってましたが、中学生もその傾向があるんですよねぇ。言われたことだけやっていればいい、与えられたプリントだけやっていればいい。って。」

その話を聞きながら、色々複雑な気持ちになった。

〈自ら学ぶ〉姿勢を持てないのは、何故か?

中学生になったから、高校生になったから、急に自主的に学ぶ姿勢が身につくわけでも、培われるわけでもない。

大人からみたら、何気ないことでも、子どもたちは小さな頃から興味を示し、〈面白いな〉〈楽しいな〉〈どうなっているのだろう〉と触れたり、感じたりしながら、自分なりにその事柄に関わり、言葉にならない世界でも自ら学んでいるのだと思う。

何故、雨が降るのか、ということを、理科的なこととして頭で理解する前に、雨に触れ、匂いや温度を肌で感じ、雨で遊ぶ経験を経て、そこから、「どうして雨って降るんだろう?」と繋がっていくのではないだろうか。

学びとは、自分で発見し、体験し、考え、それを他者と共有しながら、また自分で考えることを繰り返し、深まっていくものではないだろうか。

子どもたちのこのような〈学び〉のきっかけを奪っていないだろうか。

子どもの経験になることを、余計な言動で阻み、言動や思考を先回りし、興味を失うようなことをしていないだろうか。私は、日々、自分の言動を振り返る。

〈怒られないように、評価されるように、言われたとおりに、言われたことだけをやっていれば、いいんだ。〉

そんな風に子どもたちが思ってしまうのは何故なのか。
大人たちはもっと考えなくてはならないのだろう。

〈自ら学ぶってどういうことなのか〉

学びとは、既に生まれた時から始まっていると私は思っている。

生まれた赤ちゃんは何もわかっていないのではなく、〈赤ちゃんとは何もわからない存在だ〉と大人が思っているだけだと思う。このことは、長くなってしまうので、また別の機会に書けたら。

「子どもの〈やる気〉を引き出すのは、周囲の大人の役割だよね。子どもたちが、面白そう、楽しそう、知りたい、やってみたいって思えるかどうか。」

夫が帰り道にそんな風に呟いていたけれど、夫が言うのは、大人が用意周到にすることではなく、〈子どもをよく見て、関わること〉なのだと思う。大人は、如何に子どもたちの選択肢を増やすことができるのか。

話が逸れたが、事前の担任との面談を終え、学校長との面談へ。穏やかな雰囲気で、面談は始まった。学校長は基本的に、長男から日常生活や今後の展望についての話が聞きたいとのことだった。

去年とは違い、学校長にため口をきくこともなく、敬語を使って丁寧に質問に答える長男。

学校長も「しっかりと受け答えしていますね。今、面接試験を受けてもばっちりです。問題なし!」とのこと。長男と話しながら、「ひとつのことを探求することが得意なのかな。」などと汲み取ってくださったり、昨年、本州のオープンスクールに参加した高校の資料もネットで検索し、印刷して読んでみましたよ、と、私たちの知らないことまで把握していらして、驚いた。(校長先生、ありがとうございます!笑)

「自分の長所や短所ってどんなところだと思いますか?」

学校長の質問に対して、長男は、う~ん、と考え、「同じ年代の人と自分を比べる機会もないし、あまり考えたことがないです。」と答えた。

学校長は、長所や短所を知ることは、自分を知るきっかけで、これからもっと〈自分を知る〉ということが社会に出ていくにあたって大事になってくると思いますよ、というようなことをおっしゃっていた。

学校に行っていれば、嫌でも他者との比較を感じることはあるだろう。

〈人と比べる必要なんてない〉

そうは言っても、それは無理なのではないだろうか。人は人の間で生活し、日々を営んでいることは事実だから。

そしてまた、比べることが全て悪いわけでもないのかもしれない。

比べ方の前提が、誰かを貶めるとか、批判する、自分や他者を蔑むようなものでなければ、それは差別ではなく、他者と自分の〈違い〉という純粋な〈比較〉となるのではないかと思う。

純粋な比較によって、自分を知る。

ただ、そこに他者からの評価が入り込むと、それも叶わず、もっと厄介なものになってしまう危険性があると思う。

そして、〈何かと比べて自分を知る〉のは、学校という小さな枠の中に限らなくてもいいのだろう。

生きていく中で、もっと大きな環の中で、誰かと自分を比べるよりも、自分と他者、自分と他の物事の違いを感じ、知り、その上で、自分はどうしていきたいのかと考えること。違いを知った上で、行動すること。そして、好きに自分の行きたい道を進んで行けばいい気がする。


小学校に3日しか登校しなかった彼に、「どんな授業なら面白いと思いますか?学校に行こうと思いますか?」と尋ねてくださった学校長。

それを考えるのも大人の仕事なんですけどね・・・と、心の中でちょっと思ったことは内緒だ。

「どうしたら、子どもたちは、学びを楽しいって感じられるのだろうね?」


こういうことを、教師同士、大人同士、大人と子どもたちで、子どもたち同士で、話し合える場があったら、それを吸い上げて実現できたら、日本の教育現場も変わっていく気がする。

この問いに正解なんてないから、ずっと変化しながら、話し合っていく事柄だと思う。

「実はね、担任の先生から、敬語などまだあまり使えないかもしれませんが・・・って聞いていたのですが、まったくそんなことはなくて、とてもしっかりしていると思いましたよ。素晴らしい。」と学校長からお墨付きをいただいた長男。「それは、私と担任の先生を差別しているのではなくて、区別してるということですね。」と、校長先生は笑っていた。

「先生、余計なこと言いつけて!今度の面談で文句言おう!」と憤慨する長男であったが、担任の先生に対しては、歯に衣着せぬ物言いをし続けているので、担任の先生の配慮であったのだろう。そりゃ、先生も心配もするよ・・・。

なんだかんだと、担任の先生も、学校長も、彼の学びへの姿勢を受け入れ、認めて、応援してくださっている。それはとてもありがたいことだ。


長男が、学校に行かない選択をし、自分を誰かと比べず、誰かに比べられることなく、自分で考え、感じ、行動し、自ら学びを進める日々。

他者に比べられることは無くとも、自分で客観的に見て「今、自分に足りないものは何か」を自分で感じ、勉強の方法も考えているようだ。誰かに評価されなくとも、自分で自分を知るという作業を日々の中で繰り返しているのだろう。

彼が自分で地道に、淡々と積みさねた時間は、彼の行きたい道を照らし続けてくれるはずだ。

何者になる必要もない。
他者の評価の中で、自分と他者を比べる必要もない。
あなたは、あなた。
そのまま、どこまでも自由に歩んで行けばいい。


ヘッダーはみんなのフォトギャラリー・猫野サラさんのイラストをお借りしました♪虫捕り少年の長男の小さい頃を思い出します。ありがとうございます♪

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