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学校に行かないという選択。幼稚園にはいってます。「私は、最高にムカついている。」

私の脳内には、さかなクンや、古舘伊知郎さんや、鬼平・長谷川平蔵や、ヤンキーが住んでおり、皆さん、仲良く同居している。

しかし、数日前の出来事に、私は、まだムカついている。脳内の住人たちの対応を超えた所で、ムカついているのだ。

「ムカつく」という表現が本来は好きではない。

しかし、私は今、最高にムカついている。
だから、今回、敢えて「ムカついた」と書くことを選んでみた。


その出来事は、一匹のセミから始まった。

この時期になると、家の周りでも、幼稚園でも、森の中からエゾハルゼミの鳴き声が聞こえてくる。蝦夷、と名前に付いているが、北海道以外にも生息しているそうだ。

その声を聴くと、「ああ、もうすぐ夏がやってくるなぁ。」と思うのだ。

幼稚園でも盛んに周囲の森からエゾハルゼミの鳴き声が聴こえ、「何処にいるのかな?」と聞こえてくる木を見上げると、途端にその木に止まっているはずのセミたちは合唱を中断する。どうやって人の気配を感知しているのだろう?といつも不思議に思う。

その日は、午後の集まりの時間のプログラムは、外の草の広場でダンスやリズム遊びが予定されていた。草の広場で音楽に合わせて踊る人々を観察する末娘。家では踊るのが大好きだが、大勢の人が集まる場となると、観察する側となる。どんなことを感じているのかなぁ・・・、と、時々末娘の表情を横目で見る。

「みんなと踊ればいいのに!」とは全く思わない。大人だって踊りたくない場合だってある。踊りたければ踊るし、子どもの然るべきタイミングがあるのだから。

踊らなくても、それを眺めているだけでも、その場を共有し自分の中に取り込んでいることもある。

長男や次男が園児として通っていた頃、幼稚園で子ども同士の取っ組み合いの喧嘩が始まると、子どもたちがその周囲にわらわらと集まってくる。
そして、じっと事の成り行きを見守る場面を何度も何度も見てきた。

「誰かの喧嘩を見守ることで、自分もその体験を共有していることがあると思う。」と当時、スタッフがお便りに書いてくれたものを読み、深く共感したことを思い出していた。その場にいるだけで、自分の中の何処かに感覚として記憶されることがあると思う。

だから、「みんなと同じようにやればいい」とか「何で参加しないのだろう」と思うことも、子どもに言う事もない。子どもの感じ方も、物事への関わり方も、自分とは違う。私と子どもたちは、まったく違う人間だから。


そんなことをふと思い出していると、集まりの時間が終わり、しばらく広場で散歩していると、末娘の足元に、一匹のエゾハルゼミが飛んできた。

きっと、まもなくその生命を終える個体だったのだろう。私がそっと掴んでも抵抗することなく、静かにしていた。

「ちょっとだけ、持ってみたいな。」

そう言う末娘に、「ここをそっと持ってごらん。」と持ち方を教える。

末娘はそっと、慎重にセミを指で掴むと、「セミ、弱っているから、木に止まらせてあげようか。」と、木陰の大きな木に向かった。

大きな木に向かって、ゆっくりゆっくりと歩き、セミを驚かせないようにする末娘。その姿を見ていると、貴重な体験を共有させてもらっていると感じる。セミも私たちも、なんら変わらない〈一個体〉だ。

大きな木には、長い紐のブランコが設置してあり、一組の親子がブランコをしていた。こちらの様子を見ているなと感じたが、気がつかないふりをした。

末娘が、木を選び、そっとエゾハルゼミを木に止まらせた、その瞬間、

「それ、エゾハルゼミ?!ちょうだい!」

とブランコから、駆け寄ってくる存在が、視界に入った。

虫を手にしているとき、虫好きの子どもが、見せて!とか、ちょうだい!と寄ってくるのは、よくあることだ。

しかし、私が驚いたのは、その言葉を発したのが、ブランコを押していた大人だったからだ。

「うちの上の子がエゾハルゼミ、欲しがってたの!ちょうだい!!」と早口でまくし立てる。

そして、私に向かって言うので、私はそれに答えず(スルーとも言う)、末娘の方を向いた。

「このセミ、欲しいんだって。どうする?弱っているから逃したいんでしょ?」と言うと、

末娘は、ちょっと考えて、「・・・別にいいよ。」と言った。

すると、そのお母さんは、末娘の手からサッとセミを取り上げ、末娘に、「ありがとうね!!!」と言うと、自分の息子に届けるため足早に去っていった。

私は瞬時に、ムカついた。

セミは、物ではない。玩具でもない。

生きているものに対して、「ちょうだい!!」と、大人が率先してモノ扱いする事に、一回目のムカつきメーターが激しく揺れた。

次いで、こちらの状況を尋ねることも、察することもなく、ズカズカ入り込んできたことにムカついていた。私たちは、弱ったセミを逃がそうとしていたのだ。セミを持っている末娘本人の意向を最初に確認しなかったことも、かなりのムカつき度数だった。

相手は、決定権は親である私にあると思っているのかもしれないが、私はそういう考え方が大嫌いだ。

その場を納める為に、玩具を「貸してあげていいよね!」と子どもの気持ちを確かめもせずに他の子に勝手に貸してしまう親の考え方と同じである。

更に、「自分の息子が欲しがっていた」と思っているようだが、彼が単純に「手に入れたい」のか、それとも自分の手でセミを捕まえたいのか、我が子の気持ちの色々な可能性を考えてすらいない様子に、私のムカつきメーターは大きく数値を跳ね上げていた。

メーターの針は勢いよくブンブンと振り切らんばかりだったのだ。

しかし、当の末娘が「別にいいよ。」と言ったからそれでいいのだ、と、私は半ば無理矢理、その場の自分の気持ちを納めることにした。

末娘が何故、「いいよ」と答えたのかは、わからない。しかし、それを末娘に尋ねる必要はない。もし、その理由を知りたいと問いただすことがあるのであれば、それは、「自分が納得できる理由が欲しい」という私の勝手な都合にしか過ぎないからだ。

そもそも、末娘がいいのであれば、それを問題視する必要はないのだ。

頭ではそう思っても、〈弱っているから逃してあげよう〉という末娘の気持ちを踏みにじられた気持ちにもなっていた。この幼稚園は、そういった〈子どもの気持ちを尊重できる場である〉と、私はずっと感じ、それを大切にしたいと思い、通ってきていたからだ。

寂しく、残念な気持ちになるが、それも、私の過去の体験に過ぎないという現状になっているのかもしれないと、冷静に考える自分もいる。状況とは、変化するものであり、ずっと同じであることはないのだから。

世の中の人々の感じ方は様々だ。

誰しも、敏感な中にも鈍さがあり、鈍さの中にも、敏感に反応する部分がある。それ故に、時に、自分の中の敏感で、大事な部分に土足で踏み込まれたと感じる事がある。

私の場合、それが子どもたちの育ちに関わることであるとき、最高にムカつく、のだ。

相手が大人であれば、そのムカつき度メーターは勢いよく、そして、簡単に振り切れることを自分で認識している。自分が子どもの頃に、そういった大人たちの言動によって傷ついた経験があるからだろう。

え?そんなこと気になるの?

他の人からそう思われることだとしても、気になることがある。
そして、それは、私の中では大事なことだったりもする。
きっと、誰しもそういう部分を持ち合わせているだろう。

それを踏まえても、思うのだ。

できる限り、人の気持ちの機微に気がつくことができる自分で在りたいと。気が付かない方が、楽なのかもしれない。
傷付くことも、怒りを覚えることも、落胆することも、少ないかもしれない。

でも、それは、私の望む在り方ではない。

苦しくても、傷ついても、敏感過ぎるのだとしても、そちらを選ぼう。
物事の機微を見つめた上で、考え、自分はどう行動し、どう在るかを決めたい。

私は、末娘の「いいよ」という対応に、「ちょうだい!」と詰め寄った大人は、受け入れられ、救われたのだと思うことにした。

さらに、末娘の「いいよ」という対応に救われたのは、私自身でもあったのだと思う。

もし、そこで、末娘が「ダメ!」と声を上げていたら、その場の雰囲気がどれだけ悪くなるとしても、私はもちろん末娘の気持ちを優先しただろう。
そして、「ちょうだい!」と迫った大人との関係が一時的ではあっても、穏やかでなくなる可能性は否定できない。過去の経験による実感として、大人は根に持つので、その関係性が尾を引くことも十分に考えられるのだ。面倒臭いのだ、大人たちは。

子どもたちを守っているつもりで、守られているのは、いつだって大人である私の方だ。

子どもは寛容だ。そして柔軟だ。
大人とは比べ物にならないくらいに。
あらゆる物事にとらわれず、自由でやわらかい心の状態なのだと思う。
見習いたいと思うが、なかなか難しい。

子どもの育ちを邪魔する可能性のある大人に対しては、野生のカバのセンサーが発動してしまう。

しかし、この日も、子どものやわらかな心の在り方に触れ、ムカつきメーターの針が大きく揺れまくったことをちょっとだけ反省した。・・・ちょっとだけ。

これからも、ムカつきメーターがあまりにもしょっちゅう作動することがないよう努力しよう。しょっちゅうは・・・。

いい大人であるにも関わらず、〈ムカつく!〉とか書くことは控えめにしよう・・・。うん、控えめに・・・。

そう思う、野生のカバ母なのだった。

「幼稚園、毎日楽しい!」という末娘に
母は、救われてます♪




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