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学校に行かないという選択。幼稚園には行ってます。「それって意地悪なの?」

2年間の充電?準備期間を終了し、幼稚園に行くと張り切っている末娘4歳。

「今日も幼稚園行く?!」

・・・今日は日曜日です。母を休ませてください。

末娘の通っている幼稚園は、家族で通える森の中の幼稚園だ。

体験入園として、3歳未満でも通うことができる場所であるので、我が家の長男も、2歳からこの幼稚園に通っていた。

新年度になり、新しく入園した家族も多く見かける。

私たちも、2年程ブランクがあるので、「新しく入園した家族かな?と思われているかもしれないよね。このま〈なんにもわかりません~〉って感じで、幼稚園の片隅にいて、静かに通いたい。」と家族に言ったら、長男が、「え?だって、自分が入園した時、入園して1ヶ月で、スタッフに〈けいこさん、去年のいちご狩りって、どこにいったんでしたっけ?〉って聞かれたんでしょ?無理でしょ。」と言われた。夫にも、「初々しさに欠けるからねぇ・・・。」と言われた。・・・なんだか、腑に落ちない。

幼稚園には、外に大きなトランポリン設置されている。

小さい子から、小学生まで、トランポリンはいつでも人気があり、我が家の末娘も例に漏れずトランポリンが大好きだ。家のウッドデッキに置いている家庭用のトランポリンとは規模もジャンプの高さもまったく違うので、それはそれは楽しいだろう。人数が少ない時は、大人である私も中に入れてもらい、跳ぶこともある。


そして、トランポリンもまた、ドラマの起きやすい現場なのだ。


長男が年少組くらいだった頃、今から9年くらい前になるだろうか。

トランポリンが保護者から寄付された時、トランポリンの順番については、ルールが設けられていなかった。当時、幼稚園では、自分たちで考えることに重きを置いていたので、「順番ね」とか「何分で交代」とかいったルールを敢えて設けていなかったのだ。

初めて跳ぶ大きなトランポリンは、誰にとっても楽しく、魅力的なものだったと思う。大きな子も、小さな子も、「もっと跳びたい!」「代わりたくない!」と思うのも当然だよな、と私は眺めていた。

明確なルールが無かったので、子どもたちは、「入れて~!」とか「もうたくさん跳んでるから代わって~!」とか、それぞれに交渉するのである。

年齢の大きな子どもたちは、自分たちが小さい頃に、年齢の大きな子どもたちに譲ってもらったり、待ってもらう経験を十分している子が多かったので、自分たちがある程度跳んだら交代したり、小さな子の代わりに交渉してくれたりもするのだ。

私は、こうやって、色々な人の事情や、状況を想像できる子どもたちに日々感銘を受けていた。我が家の子どもたちも、こうやって大きくなるといいなぁと思っていた。

以前、書いたことがあるが、当時、幼稚園には、学校に行かない選択をした小学生が自分の弟妹と通っており、今より数が多かった。長男も二男も小学生のお兄ちゃん、お姉ちゃんに抱っこされたり、遊んでもらったり、助けてもらって大きくなってきた。

しかし、ある日、トランポリンにルールが出来た。

「5分間跳んだら交代」というものだった。

その経緯を詳しくは覚えていないのだが、保護者から、小学生や年齢の大きな子が跳んでいると、在園の小さな子どもたちが自由に、好きな時に跳べない、代わってくれない、意地悪を言われる、といったクレームのようなものが寄せられたということだったと記憶している。

私は、それを聞いた時、とても残念だった。

先日のnoteに〈横入り〉について、書かせていただいたが、トランポリンの順番云々というのも、子どもたちにとっては、自分の気持ちの調整や折り合い、相手の気持ちを想像する、誰かに待ってもらったり、譲ってもらう経験をすることのできる貴重な機会だと思っていたからだ。

「まだ駄目!」
「トランポリンに入ったばっかりだから」
「〇〇ちゃんとだけ跳びたいから」

子どもたちにだって、それぞれ代わりたくない理由がある。
でも、代わって欲しい子どもたちも、トランポリンで早く遊びたいから、なんとか代わってもらおうと交渉を繰り広げるのである。

「けっこう沢山跳んでるの見てたよ」
「そろそろ代わってよ」
「〇〇ちゃんは小さいから、代わってあげたら」
「一緒に入ってもいい?」

個人的には、「代わってもらうこと」だけが、大事なことではなく、「代わってもらえなかった」という経験だって大事なのだと思う。

大人も、小さな子どもたちに加勢して、ユーモアを交えつつ、代わってもらえるように交渉することも、自分の子ども以外の子や、小学生とのコミュニケーションとなり、ちょっとずつ彼らとの距離が縮まる感覚を味わえる。

時には、意地悪と受け取れるような、不快な言葉を投げかけられることもあった。でも、それをどう受け入れ、受け流し、また交渉したり、諦めたり、諦めなかったりして、コミュニケーションを取るか。

相手の子どもたちも「このお母さんはこんな感じ」と、少しずつ認識してくれて、挨拶をしてくれるようになったり、話しかけてくれるようになったり、我が家の子どもたちに親しみをもって関わってくれるようになっていった。そして、距離が縮まると、トランポリンを代わってくれる確率も高まったりするのだ。

思うようにいかないこともある。
それを経験していくことで、自分で考える。
自分の子どもたち以外の子どもの存在が少しずつ近くなる。
母も対応力を鍛えられる。

私はその感覚が好きだった。

ルールが出来たことで、その機会は奪われてしまったと感じた。

「5分間で交代」

表面上は、わかりやすく、揉め事は少なくなるかもしれない。

いつまでも入れてもらえないと言ってグズグズする自分の子どもの対応をしなくて済むかもしれない。

大きな子どもたちが、自分の子に意地悪をしていると感じずに済むかもしれない。

何より、自分の子どもが嫌なことを言われたり、されたりすることを自分の事として辛く、悲しく、憤ることがなくなるかもしれない。

しかし、目の前の大きな子どもたちは、未来の自分の子どもの姿なのだ。

いずれ、自分の子どもたちも、こんな風に大きくなって、小さい子に「ダメ」だの「入れない」だのという可能性は拭えないのだ。

今、目の前の我が子が今はどんなに小さくても、これから大きくなっていくことは、変えられない事実だ。
 
そう思うと、小学生や大きい子の言動に目くじらを立てることもなかろう。そんな風に思っていた。

当時の小学生や大きな子の母たちは、「ごめんね~!うちの子が!」「また何かあったら、言ってね。」と小さい子を持つ母の心持ちを配慮して、声を掛けてくれていた。自分の子どもたちの気持ちや状況も把握しつつ、こうして声を掛けることは、回り回って「自分の子どもを守る」ことになる。自分の子どもの居場所を守ることになると思う。

「ごめんね」と声を掛けて回る大きな子どもの親も、かつて、自分の子どもや自分が感じた辛さや悲しみや、憤りに対して「うちの子が、ごめんね。」と声を掛けられてきたのだろうなぁ、と思いを巡らした。

不快な経験をした母はそうされることで、まだ小さい自分の子どもが「嫌なことをされた」ことが、自分のことのように辛く感じている気持ちが緩和されるし、大きな子どもたちへの眼差しも、少し和らぐのだと思う。

それを経験してきたお母さんたちは、「ごめんね」と声を掛けることを躊躇せず、怠らなったことへの重要性を、我が家の子どもたちが小学生になっても弟妹と幼稚園通うようになり、強く感じるに至った。

そして、誰しも、いつか、自分の子どもが「大きい子」として、周囲に認識された時に、「ごめんね。」と声を掛けてくれた母たちのことを思い出す日が来るのだろう。

5分間というルールは、一見、トラブルが減り、関係性がスムーズになる様に見えるかもしれない。しかし、こういった「ちょっと面倒な状況」が生み出す、お互いを感じ、慮る機会を失ったのだとも思う。

幼稚園に通って2日目。

その日、末娘は二男とトランポリンで飛び跳ねて遊んでいた。そこへ小学生の女の子2人と年長組の女の子2人がやってきて、「代わって~!」と声を掛ける。二男と末娘は、「うん、わかった。」と、女の子たちとスムーズに交代した。それまでに、ある程度の時間跳んでいたこともあるし、声を掛けてきた女の子たちとの関係性が出来ていることもあったと思う。

その女の子たちが、トランポリンを跳びはじめて間もなく、新しく入園したらしい男の子がお母さんとやってきた。まだ自分で自分の意志を言葉にできない年齢のようなので、年少組よりも小さいかもしれない。

そのお母さんは、子どもの代わりに言った。
「入れてもらえる?」
すると、子どもたちは、
「ダメ~!」と冗談も混じったように返した。

女の子たちは、全く知らない子を入れることに躊躇したのかもしれないし、仲の良い友だちとだけ、跳ぶことを楽しみたかったのかもしれない。

実際、大きな子と小さな子が一緒に跳ぶと、そのジャンプ力の違いから、慣れない小さな子は、身体のバランスが取れず、危ない場合もある。

そんなことも、大きな子どもたちは、経験から知っている。

そんなことを考えながら、トランポリンを出た二男と末娘と一緒に様子を見ていた。

すると、小さな男の子のお母さんは、強い口調で、

「これは、あなた達だけのトランポリンなわけ?!」

トランポリンの中に居た子どもたち、ぽか~ん。

私と二男も、ぽか~ん。

お母さんの激しさに驚きつつ、小学生の女の子は「トランポリンは、5分交代だから。」と冷静に言った。すると、お母さんは、さらに激しい口調で、
「わかった!5分ね!何分前から跳んでるの?」「さっき入ったばっかりだよ。」と子どもたち。「じゃ、今から5分ね!きちんと測るからね!!!」と腕時計に視線を落とした。

・・・こ、怖すぎる。

これが、子ども同士のやりとりなら、まぁ、それなりに、よくある光景かもしれない。しかし、相手は大人である。子どもたちの何倍も生きている。

私は、「入れてあげて一緒に跳んだら、5分より長く跳べるかもしれないねぇ。」と女の子たちに声を掛けた。そして、「強く跳ぶと小さい子は、飛ばされちゃうかもしれないからね。」と、これは、憤慨しているお母さんに聞こえるといいなと思って、大きめの声で言った。

彼女たちが、そこまで責められるべき事柄だとは思えないし、正直、そのお母さんの対応は大人気なく不快だった。しかし、ここで私がそのお母さんに意見し、口を出すのがいいとも思えなかった。子どもたちも「いろいろな大人がいる」という経験をしている最中なのだ。ただ、過度に子どもたちを傷つけるような発言がないようにと、見守っていた。

すると、「一緒に跳んでいいよ。」と女の子たちは、男の子とお母さんに言った。

やれやれ、これでとりあえず一段落かな、と思ってその場を立ち去ろうとしたとき、聞こえてきた言葉に足が止まった。

「入っていいんだ?!あ、そう!じゃ、謝って!さっき意地悪言ったでしょ!!!小さい子でしょ!考えてよね!!」

・・・意地悪?

う〜ん。これは、意地悪なのだろうか?

男の子の様子を見ると、お母さんの言うところの意地悪をされて泣いているでも、ぐずぐずしているでもなく、機嫌よくしている。恐らく、まだ意地悪という概念などないのだろう。

意地悪をされたと思って傷付いているのは、このお母さんなのだ。

しかし、女の子たちは、対応力がある。

「ごめんね〜」
「ごめんね〜」
「ごめんね~」

と、明らかに「ごめんね」と思っていないであろう、頭の上を軽く通り抜けるトーンで口にした。

そして、この場に、うちの長男が混ざっていなくて良かった、と心から思った。お母さんをぐうの根の出ないくらいやり込める可能性も否定できない。普段から、私が、「悪いと思ってもいないのに、謝ることは不誠実だ。」と言っていることもあり、その弊害で?とにかく滅多には謝らないからだ。しかし、それが事をややこしくすることもある。その場合は、私が〈ばあや〉として、謝ることになるわけだ。

憤慨していたお母さんは、それで気持ちが治まったらしく、「これからは、気をつけてよね!!」と強い口調で言ったが、「入れてくれるって!」と、子どもをトランポリンの中に入れた。

とりあえず、状況は、落ち着いたので、その場を離れ、怒鳴られていた女の子たちのお母さんに状況を伝えた。そのお母さんも幼稚園に長らく通っているので、対応には慣れていて、さっとトランポリンに向かい、「なんか嫌な思いさせちゃったみたいで、ごめんなさいね。」と憤慨していたお母さんに声を掛けた。

すると、先程まで憤慨していたのが嘘の様に「全然、大丈夫です〜入れてもらって〜!」と笑顔で応えていた。その後、トランポリンに入れてもらい、女の子たちと楽しく遊べたのかもしれない。

一部始終を観ていた二男は、ぽそっと呟いた。

「なんか、大人気ない。みんな、いろんな時があるし、別に意地悪とかじゃないと思うけどな。」

沢山のひとに受入れられて大きくなってきた彼は、こうやって物事を受け入れたり、受流して行くことができる。

「意地悪」と名をつけるのは、簡単だ。

誰だって意地悪な気持ちになることはある。

同じくらい、やさしい気持ちになることもある。

しかしそれは、「ひとつの事象」にしか過ぎず、その人に張り付いている価値観ではないということ。

憤慨していたお母さんの姿も、「子どもが拒否された」ことにショックを受けての「事象」に過ぎない。

きっと時間をかけてそんなこともあったなぁと感じ、笑い飛ばせる日がくるのかもしれない。小さな子のお母さんに「ごめんね」なんて声を掛ける日がくるのかもしれない。

時間が流れていくということは、そういうことなのだろう。

トランポリンで羽根が生えたように跳び回り、笑い転げる子どもたちたちを見ながら、私は、春の空気をめいっぱい吸い込んだのだった。

トランポリンの中で、
「風が吹いたらダンゴムシになるごっこ」




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