海外ドラマ「このサイテーな世界の終わり」がぶっ飛びすぎている|Netflix
この世界の全てを敵に回して、愛する人とただ2人、逃避行をする。どこかの誰かの甘い空想は、全然、甘くなんかなかった。
嗚呼死んでやりたい。でもそんな勇気も持ち合わせていないから、せめて遠くへ逃げたい。逃げたいとは思うけれど、目を閉じれば浮かぶ日常の重圧と、戻ってきた時の労力を考えて、最初の思考ごとゴミ箱に入れて蓋をする。社会人のルーティン。
ロードムービーはいつだって救いだ。上司の機嫌が悪くて有休をつなげた連休が取れなくたって、私たちをどこまでも連れていってくれる。
自分を「サイコパス」だと称する少年ジェームズと、家庭環境に問題があり横暴な態度が目立つアリッサ。サイコパス×家出少女という社会不適合最強タッグ。
これは漫画「おやすみプンプン」や「ヒミズ」に共通するような、“この世の終わり”を目にしたものだけが手にする世界の、17歳の男女の物語。
Netflixのオリジナルドラマの中でも、かなりブラックユーモアの効いたこの作品、「このサイテーな世界の終わり」。そう、この世界はサイテーだ。不幸と不平等が積み上げられた上に、誰かの幸福が安らかに寝息を立てる。鬱々とした日常の中で、奪われるなら奪うしかない。わたしはこの感覚を知っている。頭の中で幾度と描き、捨ててきたもう1人のわたしの人生。そしてきっと、該当者はわたしだけではないはず。このどこまでもめちゃくちゃで退廃的なロードムービーに、儚く切ない恋愛描写が自然に馴染んでいるアンバランスさすら愛おしいと思った。
いちばん原始的で正直な恋のあり方をアリッサとジェームズは示してくれる。恋を目的としない恋は、明確な線引きがないままに緩やかに発展していく。ジェームズは「人を殺してみたい(始めはアリッサをターゲットとした)」アリッサは「退屈した日常の暇潰し」で始まった出逢いに意味を持たせたのは、ティーンが抱く恋愛への憧れや陶酔ではなかった。あまりに過酷すぎる困難の数々が2人を歪にも惹きつけ合い、崖の上から背中を押した。このゴツゴツとした不器用な自然さが、愛の純度を最大限に高めたのだ。
「死体と男女」はエンタメにおいて永遠のテーマだ。「リバースエッジ」に「おやすみプンプン」、「ヒミズ」……死を目の当たりにした男女の間に生まれる不思議な連帯感、とくに片割れが誰かを殺してしまった場合の罪悪感の共有は、恐怖以上に男女間の依存関係においては「救い」だ。だってもう、その連帯感より強い繋がりはこの世に存在しないから。身体の関係よりも、甘い囁きよりも互いを縛るのは「絶対的な秘密の共有」。共犯者となった男女の前にだけ開かれるシェルターがある。世間から許されない自分を、受け入れてくれる唯一の居場所。
学生時代、放課後の作業にワクワク感を覚えるのは当てはめられた役割から外れてその人の根本の性格や特徴が表れやすくなるからだ、と大人になってから思った。学校の休み時間と放課後は全く別物だ。休み時間にはみな、役割がある。暗黙の了解でスクールカーストの頂点を務める女子のトップに、くだらない下ネタでみんなの笑いをとるアイツ。いつも本を読んでいるあの子、確固たる居場所が見つけられずテキトーにグループをぐるぐるするわたし。放課後はもっと、そういうものから脱皮した、裸の個々があらわになるような気がしていた。意外とギャルがリーダーシップを発揮していたり、お調子者はやっぱり部活に行っちゃうけれど、あんまり喋らないと思ってた人が実はめちゃくちゃ饒舌だったり。裸の魂って、なんだか愛おしくなる。
生きている上で最も重罪である、殺人。社会通念から最も離れた「死」を挟んだ向こうでは、自分が今まで持っていた役割は幸か不幸か全く役に立たない。ジェームズが教授を殺したとき、彼の血液がハートの形に広がっていくというブラックユーモアが施されていた。どうしようもなくブラックなジョークなんだけれど、それは同時に彼らの裸の魂が惹かれあい始めた証であって、紛いもなく恋の序章としてはあれ以上に完璧な始まり方はなかったと感じる。
感情表現が乏しいジェームズに対して、癇癪を起こし情緒が不安定なアリッサ。ブラックユーモア版「ヴァイオレットエヴァーガーデン」であるかのようにジェームズが誰かを愛することは、最初の彼からは想像もつかない(繰り返しにはなるが、ジェームズは最初アリッサを殺そうとしていた)。
そんなジェームズの感情を呼び起こし、彼に「愛してる」を教えたのはアリッサである。そしてそれはアリッサ自身も予期していなかったことだった。
男女問わず、“受け入れることに特化している人”と“感情を表現することを臆さない人”って一見交わらないようですごく相性が良い。たまに友人同士でも全然タイプが違うのに仲がいい!のケースが発生するのもこのパターン。
アリッサがジェームズを振り回しているように見えて、実はジェームズのどこまでも受け入れてくれる懐の深さ、そしてアリッサとは対照的に感情を爆発させない一種の危うさが、アリッサを振り回させた、のだと思う。彼女の意思だけではなく、ジェームズの存在が彼女の感情のボルテージをMAXにさせていた。
「おやすみプンプン」の愛子ちゃんは、狂ったメンヘラ代表のように描かれているけれど、プンプンの世界は愛子ちゃんそのものであり、鹿児島までの旅が2人の生きた証だったことは言うまでもない。アリッサはジェームズに感情の揺らぎを与え、あの旅のスリルの隙間に確かにあったキラキラを、2人だけの時間に閉じ込めた。
友人に「好きな男性のタイプ」を聞くと「年上の尊敬できる男の人」と答える友人が一定数いるのだが、20代前半の女子とは「与えてくれる(経験も•世界も)」存在がまだまだ欲しいお年頃なのかもしれない。もっと言えば女子だけではなく10代から20代前半の男子に蔓延している「年上のお姉さんと付き合いたい病」もこれに当てはまるのではないかと考えている。この中にも、ジェームズのような“与えられ”に特化した若者が眠っている可能性は大いにあるだろう。
「このサイテーな世界の終わり」では意図的にフラッシュバックの場面が散りばめられている。これは登場人物の後悔を強調するフラッシュバックとしての演出であるが、この作品そのものが私の生活の中にフラッシュバックをしそうなインパクトだった。写真からもわかるようにこの作品、ジェームズとアリッサだけのカットが延々と続くのに、どの場面もとにかく印象に残る。しかもなんとなくオシャレさを感じさせる独特の雰囲気が漂っていて、とことん惹きつけられてしまう。
近年の情勢もあって、おうち時間がメインとなりそうな今回のゴールデンウィーク。“このサイテーでサイコー”な2人と出かけてみるもいいかもしれない。
P.S お仲間は賞金首なので、警察にはご注意を。
2020.04.24
すなくじら