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展示と向き合うということ

普段の日常生活で、美術館(または博物館)に行く、行かない、はかなり分かれるところだと思う。

繰り返しにはなるが、わたしは人生は成功も失敗も含めてその人の意思で決定されていることに意味があると考えるので、人の趣味嗜好に要らぬ指摘をするつもりは全くない。

わたしはスポーツに興味関心がない。

それは自分の運動能力に因るところが大きいのだが、何より汗を流すことをあまり気持ち良いと感じないし、わざわざ疲れたくないというのもある。

おそらく、これはスポーツが好きな方からしたら人生を損しているようにも見えるだろう。「スポーツ選手」という職業が存在するのはスポーツに価値を置いて人生を謳歌している人もいるからであって、わたしにその感覚がわからないのはわたし側の感性の話になると思う。

この話と同じように展示の面白さがいまいちわからない、という方も一定数、必ず存在すると思っている。

正直、関心があっても、なくてもどちらでもいい。

だが、展示というのは博物館や美術館に並べられたガラスケースの中身だけを指す言葉ではないことを、知ってほしい。

つい先日、学芸員資格の最終実習を終えた。

都内のみならず、台湾にも行って各々の博物館や美術館を見学し、自身で展示の作成も行った。

展示の世界には大前提がある。それは

展示には制作者の意図が含まれる

ということである。

展示というのは「資料(ガラスケースの品物そのもの)」と「展示(品物を含む展示空間)を作る人」の2つが揃って完成される。

つまり、この「展示を作る人」が資料をどう見せたいのかという部分が必ず展示に反映されているのだ。もちろん空間全体の広さや、巡回の方向、資料の種類が文字資料か否か、などにもよるとは思うが、制作者が何を主題に見せたいのかは展示全体をよく見ればわかる。

街中のショーウィンドウも展示の一つだ。

同じ2020SSのファッションであっても、特に目立って欲しいものは目立つ場所に。そして何より、ブランドイメージにふさわしい空間の演出がなされたショーケースが作られているはずである。私たちは街中で日々展示を目にしている。

わたしは、情報でさえも一種の展示だと思う。

例えば、世間を騒がせている不倫報道。誰の視点から情報が作られているかによって、印象(見る人にどう見えるか、または見せるか)は大きく変化する。まして作り手は私たちの知り合いでもない、全くの他人。芸能人のおおまかな人物イメージは、出演番組によってわたしたちへ既に刷り込まれている。ある程度の反応は予想できるだろう。

どんな情報にも作り手がかならずいて、わたしたちの方を伺っている。これは絶対に忘れはならないし、常に意識し続ける努力がなければわたしたちは情報の作り手に思考力を奪われてしまう。

展示はわたしたちの思考力から成り立っている。そしてわたしたちのこの「考える力」が展示をより魅力的な物にする。

時間がある時で構わない。“思考する”練習だと思って日常に溢れる展示と一度向き合ってみて欲しい。


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