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わたしの才能に惚れてくれ


Q、どんな人が好きですか?


よく聞く答えは、一緒に居て楽しい人/優しい人な気がする。なお、私はこの二点を挙げたことが一度もない。(ひねくれているせいでしょうか)


私はたいてい「尊敬できる人」と答える。

月並みだけど、異性として好きか、の前に、人として好きかの方が大切で、私にとってはそれが大前提だった。


けれど尊敬にもいろんな種類がある。ということに気づいたのは数年前。今日はそんな「リスペクト」の話。



私はこうしてnoteを書いているけれど、もともと文章を書くのが好きだった。じゃあ小説家になるとか出版社に勤めるとかそういうルートは辿らず、せいぜい日記を書くくらいのもので、文章を書くということが一体なにになるのか、考えもしなかった。

それがふとしたきっかけで、ある日エッセイみたいなものを書くことになった。当時の恋人に読んでもらうと、えらく褒めてくれ、また読みたいと言ってくれた。彼は世界で一番目の、私の読者だった。


恋人は音楽をやっていた。「ものをつくる」という点では音楽も文章もとても似ていて、私たちはクリエーターとしてそれぞれのものづくりに熱中し、それぞれのものづくりを認め合っていた。

私は彼の言うことがとても的を得ていると思っていたし、私の知らないことをたくさん教えてくれるのが刺激的だった。彼と一緒に居ると、創作意欲がふつふつと湧いてくる。

つまり「人として」尊敬できるのはもちろんのこと、クリエーターとしての彼を尊敬していたのだ。



ほどなくして私たちは別れることに。

私たちは刺激し合える関係ではあったのだけど、そのぶん衝突も多く、一緒に居ることが辛くなっていった。


別れる時はもう嫌いだと思った。直接的な言葉を激しく交換しあったので、互いに深く傷ついたし、愛と憎しみが隣り合わせであることを初めて知った。そして最後は思った、もう無理だ、と。

この時の嫌いや無理は、「男」として、だった。



私は別れる時、このぐちゃぐちゃの憎悪の感情の裏側で、クリエーターとしての彼を変わらず尊敬していた。

彼のつくるものが大好きだったし、彼の音楽はもっと大きくなると確信していた。つまりは男としては信じられなくとも、クリエーターとしてはだれよりも信じていたのだ。


彼との別れを決めた時、自分は恋人を守ることよりもものを作ることを選んだのだ、と思った。二つに一つだった。極端な思考だと痛いほどにわかっている。けれど私にとっては絶対的な「二つに一つ」だった。彼と仲良しごっこを続けることはできる。作品について意見を言うのをやめればいいのだ。ものづくりの迷いも悩みもぶつけるのをやめればいいのだ。けれど迷いも悩みもないものづくりになんの価値があるだろう?

私は苦しみぬいた先にできたものが好きだ。文学も美術も音楽も、壁にぶちあたった自分に気づきを与えてくれる。もう無理だ、そう思った自分をもう一度クリアにしてくれる。それは薄っぺらく、簡単に得る感情でできたものなんかではない。だから私は苦しんでもいいからものをつくり続けたい。書き続けたい。幸福だけの人生なんていらない。どうせ今更幸せになったところで仕方ない、それなら苦しみの中でじゅくじゅくと言い訳をしながら書いていたいのだ。そうしなければ自分を許せない。彼もそう思っていたはずだ。

こんなに自分を追い詰めてどうするのだろう。でも私たちが作りたいのは心を削ってつくるものに違いなかった。だから私たちは互いに互いを尊敬し続け、信頼し続け、ものをつくる尊厳を選んだのだ。



文章を書いていると悩むし迷う。彼が読んだらどう思うか知りたいし、彼の感想を聞きたくなる。私は女としてもう愛されなくても構わない、ただ私の才能にはまだ惚れていてほしい、と願っている。

私が彼の才能に、未だ惚れているように。


大好物のマシュマロを買うお金にします。