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「かわいい」を正義とするのは周囲か、自分自身か


「I FEEL PRETTY」という映画を観た。

太っていて、可愛くもなくて、もちろん自信なんてなくて、人目のつかない地下オフィスで働く主人公は「美しくなりたい」とただ願った。


ある日のこと。主人公は頭を強く打ち、美人に大変身した!!!

・・・と、勘違いをしてしまう。

現実にはなーんの変化もないのだけれど、自分にだけ自分が美しく見える。(きっと強く願いすぎて、脳が強い衝撃を受けるとともに都合のよい解釈を始めてしまったのね。)


美しい容姿を手に入れたことで、彼女はどんどん積極的になっていく。


クリーニング屋さんで「君の番号は?」と見ず知らずの男性から聞かれ、「手持ち札の番号」を「電話番号」だと勘違いして逆ナンするし、憧れていたオフィスの受付嬢にだってなる。


彼女は自分を「ダサい女」だと思っていた時、SNSに写真を投稿しても、シェアもいいね!もリツイートもされないことをこのように嘆く。

好きでもない相手にフラれるなんてもうウンザリ。

なんとまあ的確な表現。近年のSNS疲れを皮肉ったようなセリフだと思った。



彼女は美しくなることに固執し、「美しいだけで可能性が開ける」と信じてやまない。

私は確かにそうだ、と思う。学歴を持っていれば就ける仕事の幅が広がるように、優れた容姿ならば何を身に着けても似合うだろうし、第一印象は格段に良いし、ただ街を歩くだけで人を魅了するだろう。


でも、大切なのは本当に見た目だけ?


「自分は美人だ」と思い込み、自信に満ち溢れた主人公。パワフルで明るくて、毎日を楽しむ彼女を周囲はこう言う。

セクシーな女は他にもっと居る。
でも、夜道でパンクした時、一緒に居たいのはどっちだ?

どれだけ外見が優れていようとも、ピンチの時に一緒に居てほしいのは「そんな女じゃない」だろう、と。


どうしてこんなに大切なことを人は忘れてしまうんだろう?



「見た目が全て」私もそう思ったことが幾度となくあった。

生まれ持った一重まぶたも、低い鼻も、短い脚も、大嫌い。人に愛されることで自分を愛そうとした。ダイエットして、目を大きくして、素敵な服を着て、今じゃ地元を歩いていても、かつての同級生は誰も気づかない。それほどまでに私は容姿を変えた。

でも、実際に変わったのは「外見」よりも「中身」だった。

「私はかわいい」。そう思えたことで、人に笑いかけることができたし、似合わないと決め付けていた好きな服を着られるようになった。そうしていると、人生はめちゃくちゃに楽しくなった。外見は人を寄せ付ける。でも、「私は可愛くて、そんな自分が好きで、生きるのが楽しい」という内面も人を寄せ付ける。



映画の終盤。再度頭を打って、美人の魔法は消滅する。主人公の「勘違い」が解けただけで、もちろん見た目はなにも変わっちゃいない。

それでも彼女はふさぎ込み、大切な仕事も恋人も投げ出してしまう。


そんな彼女に恋人は「君は世界一美しい女性だよ」と真っすぐに言う。

「生まれ変わったら君になりたいよ」と。


外見も大事。でも、中身はもっと大事。そう思わせてくれる。


更に、恋人がこう言って映画は終わる。

ずっと君が見えてた。

外見じゃなく、「中身の君」を見て惚れた、ということ。

「本質」を見ていたよ。そう言い換えられると思った。


結局、「かわいい」と判断するのは周りじゃなく自分。

どんな外見でも「自分はかわいい」と思えたら、それが一番かわいい。「かわいい」のモノサシは人それぞれだから、周囲に合わせていたってキリがない。「自分だけのかわいい」を徹底的に追及すること、そうすれば自信は勝手についてきて、同じモノサシの人が愛してくれる。


美しくなるのが魔法なんじゃない、「I FEEL PRETTY」。

「私って、かわいい!」という魔法。


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