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生きている意味

最近私はなぜ自分は生きているのかということが気になってきました。
自分が生きている意味とは。なぜ元素はこんな構造をとったのだろうか。

命は大切大切だと、みんな言っているし自分がそう考えている節もある。
でも毎日どこかでその命が潰され、食卓に運ばれてくる。

結局、それぞれが自分中心で生きていくことしかできないですよね。他の人の心を見ることができるわけじゃないし。しかも、今見えているのもすべて高度の幻覚だったりするかもしれない。

宇宙だって自分が観察しないとなかったかもしれないし、法則は自分が調べなかったらなかったかもしれない。

ここまで述べたけれど、結論として生きている意味はないんじゃないかなと思います。授業でもし「自分が生きている意味を考えよう!」とでたら、ないと即答しそうです。

ですが、意味じゃなくて、価値ならあるんじゃないかなと私は思います。
昔は日本でも日本国民は『天皇のために』生きるという意味がこじつけられていたけれど、そもそも宇宙自体なんであるのかなんて知らないし、教えてもらったことなんてない。

宇宙の一部であろう自分は、まさかそんな宇宙から見たら微生物よりも小さい自分に意味なんかないだろう。

でも、宇宙を見たら永遠に眺め続けたくなるのは事実だし、自分がその一部であることは確か。

自分で勝手に価値をつけることもできるし、他の人からも価値をつけてもらえる分、命の価値は意味よりも確かなものではあると思います。

でも、命だ命だと言っときながら人は死んだとしてもその元素は残り続けています。宇宙が終わっても、その物質は残ります。

ですが、いくら時間が無限大にあったとしても完全にその元素のパーツが元に戻るわけではありません。パラレルワールドがあったとしたら尚更、選択肢という無限大のパーツがあるから、もし赤ん坊の元素がその形に戻ったとしてもそこから食べるものも違えば時間も違います。クローンを作ったって自分のコピーではないのと一緒。

今この時も刻々と時間が過ぎていく中で、もうその時間は元には戻らないのは当たり前です。タイムマシンを使って過去に戻ったとしても、そこが自分の過去なのかどうかなんて分かりやしないじゃないですか。特にタイムマシンに乗ったらパラレルワールドに移動するっていう話もありますし。

生きることが面倒くさくなって、またはしんどくなって、そして生きる意味がないからと言って自分から死ぬのは、確かに時間の流れに乗ってはいるけれど、あまり私は好きではないです。

確かに人間は生きているだけでマイナスになっているかもしれないけれど、もうそれは事実のわけだし、ゴキブリだって同じようなことをしてるけれど生きています。

自分の価値をマイナスにつけてそれで自分の思考回路から逃げるのは、私は嬉しくないですね。
他の人全員に私は無限とも言えるほどの価値をつけています。どこかにいる極悪人と言われている人でさえ、価値をつけています。

上から目線と思いましたか?ですよね…自分中心だとすれば。

皆さんも自分が生きることをそう割り切って、どこかの誰かが自分に価値をつけているもしくは自分で自分の価値を上げてみてください。

そもそも価値は一つの評価とも取れるわけで、そんなのに囚われず、自由に生きるっていうのが1番なんですね。(1番か?)

つまりは、別に『意味』という、思考回路によって作られた心の存在の支えを作ってもいいけれど、それだと弱いと思う人もいるから、勝手に他人が無限大の数値をつけた『価値』とかで自分の心の支えを作ったらいいと思います。

ぶっちゃけ言うと、生きる意味も必要もないと私は思います。周りの人が悲しむから、自分が生きることで起こる何かに期待することにしたからと、生きていくしかないです。それを大きくとって、自分の人生という一回きりのチャンスを楽しむしかないんです。

ちなみに私は死の願望はありません。本も読めるし、宇宙も見れるし、学校へ行けるんだから生きていてよかったです。というか長生きして200歳まで生きられたらいいなとも考えます。笑

ここまでダラダラと書き連ねたけれど、極論今生きているんだからそれでよし。

ここまでの文章を読むと、自分の文章とか考え方が去年からだいぶ変わったなぁと感じます。自己が出てきた様な気がします。


今回は以上です。小説やタイムトラベルについてなども、楽しみにしていて下さい。