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「不在通知」 私だけの個展会場

5月27日予約していた 美術家カミイケタクヤさんの個展に行ってきた。

カミイケさんのアトリエが展覧会場になっていた。

作家本人も居なければ、他の鑑賞者もいない。

誰も居ない空間に、私と作品だけがあった。


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誰も居ないことが居心地が良かった。

知人と行けば、作品について色々感想を言ったかもしれない。

知人の前で、自分の振る舞いに気を使ったかもしれない。

そうしたことが何もない、「プライベートな空間と時間」が確保されている解放感と安心感があった。


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何のBGMも無かった。

静かなアトリエのなかで作品に囲まれて ポツンと私一人が居た。

作品を鑑賞しながら、椅子に座ってみたり、動いたりを繰り返した。

ぼうっとしているようで、集中して作品を鑑賞していたのか、いつの間にか1時間近く経っていた。

作品数は、猪熊源一郎美術館などと比べたら、当然比べ物にならないぐらい少ない。あの美術館に行った時も1時間ぐらいの鑑賞時間ではなかっただろうか。

それが今は、作者のアトリエで限られた作品を何度も見返しながら1時間も経っていた。絵と共に過ごしていた時間だった。


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絵にはキャプションも説明書きも無かった。


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先日、「アート×哲学対話」に勉強を兼ねて参加した時のことを思い出した。

美術館に行って、キャプションや説明書きを読むことに時間を費やし、作者の経歴や時代背景、そして、絵のコンセプトや作者と他の画家の相関関係などを読み込むことで絵を鑑賞した気になる。
本当のところ、実際に描かれた絵の前でどのくらい立ち止まって鑑賞しているのだろうか。

確かそういう話だったと思う。

従来の美術教育や芸術鑑賞の在り方に対して、批判的な考察がアメリカから起こっているらしい。

従来の美術教育や芸術鑑賞の特徴として主に挙げられているのは次のようなことらしい。
・作品について正しい解釈を「受け身」で学ぶ。
・技術や知識によって鑑賞する。
・作者の意図や作品のキャプションなどと作品を照らし合わせて確認する「確認作業型鑑賞」になってしまう。

そうした従来の在り方が見直されてきている話を思い出したのだ。

美術史や技法についての知識を持っているのは良いことだ。体系的に捉えることができるようにもなるだろう。
しかし、それと鑑賞力を育むことは、また別なのではないか。後者はやや置き去りにされてきたのかもしれない。

この「不在通知」という個展の在り方で、そうしたことを少し考えさせられた。


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一人でカミイケさんのアトリエのなかをウロウロすることは、私にとっては、心の落ち着く時間だった。

変な緊張感もなかった。


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自分を監視する人物がいないことで、作品を近くから、そしてどんな角度からも気兼ねなく見ることができた。


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絵が掛かっている壁に顔を寄り添わせるようにして近くから鑑賞することもできた。
正面からは気がつかなかった姿が見えてくることもある。


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カミイケさんの画集のようなものを見つけた。

購入したいのだが、誰も居ないのでどうやって購入すればいいのかわからなかった。

カミイケさんに連絡を取って購入方法を尋ねた。

しばらく考え事をして居たのか、集中して居たのか、作家本人がアトリエ内に入ってきた時には「アンタ誰だ!?」とばかりに悲鳴を上げそうになった。


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こういう個展の在り方は、リスクも伴う。

作家が鑑賞者を信じることで成り立っている。

カミイケさん自身は、危機管理意識がない人ではない。勇気のいる個展の在り方だと思う。誰にでも簡単にできるものでもない。

けれども、こういう鑑賞の仕方ができて良い時間だった。



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作品作りをしている人やアートに携わる活動をしている人には是非行って欲しい。


貴方だけの芸術鑑賞の時間になるのではないかと思う。
 カミイケタクヤ個展「不在通知」の予約方法などは
HPなどから問い合わせることができる。



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