菅原翔一

菅原翔一

最近の記事

加川良の教訓の思い出-演奏後に聞こえてきたすすり泣き-

「いのちはひとつ 人生は1回 だから命を捨てないようにね」 こんな印象的な歌詞で始まる曲がある。加川良の教訓Ⅰだ。 8月が近づいてくるとこの曲が心に刺さる。今から77年前の1945年の8月15日、日本は戦争に負けた。アメリカに負けたのと同時に当時の日本人が信じてきたものが180度ひっくり返った日でもある。 77年前。人類の歴史を全体でみると、これは遠い昔の話ではない。 つい最近まで確かに命が使い捨てにされていた時代があったのだ。 加川良さんが亡くなられたのは2017年

    • 情報をシャットアウトする

      「目の前のことに集中するのが大事なんだよ。」僕のメンターの方がなんども口にする言葉だ。その方からたくさんのことを学んでいるのだが、その学びの本質的なことはどれも「目の前のことに集中する」である。 メンターがポロッとおっしゃっていたことで頭から離れなくなった言葉がある。それが「情報をシャットアウトする」ということだ。この言葉は深い共感と共に僕の頭の中に入ってきた。 情報が多すぎる。特にインターネットから入ってくる情報の量は膨大だ。ここ10年間でデバイスは大きく進化した。

      • 友人関係はシンプルに

        「友達は大切にしなさい」 これを読んでいるあなたも親や教師から散々言われてきたであろう言葉。 この言葉に・・・。 だ、騙された!! めっちゃ騙された!!! 素直に騙された!!!! ・・・。 いや。 勘違いしておりました。 僕、めっちゃ勘違いしていました。 「友達は大切にしなさい」っていう言葉では不完全。 「心から大切にしたい友達は大切にしなさい。」 こっちのバージョンで世の中に普及されることを僕は強く願っている。 きっかけは断捨離。 なんとなく心が息苦しくなって始

        • いらない何も捨ててしまおう(断捨離中)

          断捨離をしている。 毎日、何かしらモノを捨てている。 何故、断捨離をしようと思ったか? これは感覚的に脱皮に近いような気がする。 もちろん脱皮は未経験。 説明はできない。 なんとなくむずかゆくて、したくてたまらない、せざるを得ない。 そんな感じ。 何はともあれモノで溢れかえっていた部屋が少しずつ片付いてきている。 それと同時に今まで僕はなんてたくさんのモノに囲まれていたんだなーってやっと気づくことができた。 断捨離はモノに対しての感情をフラットにして冷静にさせてくれる。

        加川良の教訓の思い出-演奏後に聞こえてきたすすり泣き-

          オフラインは贅沢品になった

          オンラインであることが当たり前になった時代。 電波は張り巡らされ、携帯に圏外の文字が表示されることは滅多にない。 確かにオンラインであることは便利だ。 知りたいことをすぐに知ることができる。 連絡をとりたい人にすぐメッセージや電話できる。 今やオンラインで完結する仕事はゴマンとある。 でも何か息苦しい。 その息苦しさの正体はハッキリとは分からない。 その息苦しさから逃れるために余暇の時間は野山に出かけることが多くなった。 野山できく鳥の鳴き声。 川の音。 昼間は心地よ

          オフラインは贅沢品になった

          身体性を取り戻す(したい)

          身体性を取り戻したい。 最近、このように強く思っている。 このように思う理由・・・。 純粋に身体がたるんでいる、と鏡をみて思うからだ。 たるんだ身体では身体性などへったくれでもない。 ただ僕は単にたるんだ身体を引き締めたいのか? 違う。 身体性を取り戻したい、と僕の心は訴える。 何故だろう? 自分を内観してみる。 どうやら身体性を取り戻すことによって人生の主体性を取り戻したい、みたいだ。 つまり自分の人生を良い方向にコントロールしたい、そのように思う。 主体性は身

          身体性を取り戻す(したい)

          もう一度音楽を書いてみよう

          今日は音楽のお話。 昔は音楽の記事をよく書いていたが、最近めっきり書かなくなった。 音楽が好きだから書く。 これが原点でありゴールだったはず。 いつの間にかその原点とゴールがブレてきてしまった。 音楽という手段を使って自分という名前をもっと知ってほしい。 収益を得たい。 そんな功名心が少しずつ、ジワリジワリと育ってきた。 少しずつ背丈を伸ばしていく功名心。 その育った功名心に気づいたとき素直に感じた。 「俺って最低やん」 自己嫌悪。 そこから音楽の記事を書くのを一切やめた

          もう一度音楽を書いてみよう

          東京には行かない

          過去を回想する。 無駄なことだとは分かっている。 でも回想してしまう。 過去への執着。 それは分かっている。 でも、どうしても回想してしまう。 楽しい回想ではない。 とは言っても暗い過去、というほどは重たくはない。 「あのとき何であんなことをしてしまったんだろう。」 「あのとき何であんなことを言ってしまったんだろう。」 「あのとき何で同じ過ちを繰り返してしまったんだろう。」 そんなことを、回想している。 そして思う。 「あのとき俺はすっげーアホやったなーって。」

          東京には行かない

          自分のためにも文章を書いてもいい

          ノロノロと書いているこのnote。 最初の記事で書いたが自分のために書いている。 誰のためでもない。自分のために書いている。 これにはちょっとした反動的な側面がある。 人のために(という名目の上で)文章を書き続けた結果・・・。 めっちゃしんどくなった。 例えば一時期収益をあげようと頑張っていたブログ。 ブログは「自分の書きたいことを書いてはいけない」。 これが正しいかはわからないが、少なくとも僕がお手本にしたトップブロガーの教えはこうだった。 ブログを検索する人がどんな

          自分のためにも文章を書いてもいい

          テレビもYoutubeもブログもつまんない

          僕の家にはテレビがない。 テレビなしの生活になって約4年くらいになるだろうか。 これはひとえに生産性をあげるためである。 テレビという箱に僕の人生を1秒でも与えてなるものか。 というのは真っ赤な嘘である。 僕が住む地域はケーブルテレビのためテレビを視聴するのに毎月3000円払う必要がある。 それが僕にはなんとなくもったいなく感じていた。 引っ越しをするタイミングをいい機会だと思いケーブルテレビを引くのをやめた。 思い返せば小学生〜高校時代は居間にはテレビが常についていた。

          テレビもYoutubeもブログもつまんない

          知り合いが自殺しました

          タイトル通りのお話。知り合いが自殺した。海に身を投げたらしい。僕が顔を見知った人で自殺した人は始めてである。 知り合いといってもそんなに親しくはない間柄であった。(本当に知り合いっていう感じ) だからその人の死を聞いても僕は悲しいという気持ちは思わなかった。むしろゴシップ記事を読み進めるような感覚が先行した。 その人は何故死んだの?その人はどんな方法で死んだの?そのときの家族の反応は?いろんな興味が僕の頭を渦巻いた。(もちろんその興味を表面に出すようなことはしなかったが

          知り合いが自殺しました

          或阿呆の一章

          今日、3月31日は一粒万倍日。 一粒万倍日、それは神様が全ての人々の罪を許す特別な日だそうだ。 この日は新しい物事を始めるのに絶好の機会だそうで。 それにあやかり前々から興味のあったnoteを始めてみた次第である。 なぜnoteを始めてみたかったのか? それは自分のために文章を書いてみたいという思いが前々からあったためだ。 僕は人から見られることを前提に文章を書くことが多い。 というよりそれがほぼ90%以上を占める。 そもそも、その文章は読まれる人のためになっ

          或阿呆の一章